04.


 背後から声をかけられたおばあちゃんは、「んん?」とかわいらしい声を上げて振り返る。背は俺よりもだいぶ小さく、しかし、しわの入った手は力強い。

「あの、手伝うように、竜宮寺さんに言われたんですけど。えーと、俺、何をやればいいですか?」

「あんりゃ」


 トミコおばあちゃんの細い目が、びっくりしたプードルみたいにぴゃっと開いた。え? え? 俺なんかまずいこと言ったかな、と迷っていると、


「礼儀正しい子やぁね。“です”とか、“ます”とか、つけんでいいよ。ほんだら、高橋たかはし君。そこに、タマネギがあるでしょ」

「こ、これ。ですか」

「そうそ、その山。それをね……」トミコおばあちゃんは言いながら、手でトントンとジェスチャーをして、「半分にして、薄切りにしてあげるの。カツ丼とか親子丼に使うのよ。そっちのお皿に、もうしたのがあるからね。お手本にして。できそう?」

「あー、な、なるほど」


 俺がモタモタしている間に、ジャガイモは終わっていたらしい。


 やることはわかったので、おそるおそるタマネギを手に取る。トミコおばあちゃんはカレーの鍋を覗き込んでいる。ここは我流でいいよな、と、えいやっとタマネギの頭とお尻を落とすと、「上手、上手」と、いつの間にかトミコおばあちゃんがこっちを見ていたのでビビった。俺は「ど、ども」と、微妙なリアクションで、ぺりぺりと茶色い皮を剥く。真ん中で切り分けて、切断面を下にまな板に寝かせる。で、既に下処理されているタマネギを参考に、薄く……


「……あの、おばあちゃん」

「はい、なぁに?」

「昼……間に合いますかね。俺、切るの遅いですよ」

「平気よぉ。お昼までの下拵えは全部終わってるから」

「まじですか」

「まじですよ」


 ふふふ、と、おばあちゃんはくすくす笑う。その笑い声はなんだか少女っぽくて、あー、なんか人気あるのわかるなぁ。妖精みたいというか。

「だから、焦んなくていいから。ゆっくりやってちょうだいよ」


 俺はウスと返事をして、タマネギをサクサク切り始める。その間におばあちゃんはゆったりとした動きで鍋をかき混ぜている……と思いきや、実は早かった。鍋の面倒を見ていたはずが、いつの間にか炒め物の準備に回り、のんびりこなしているかと思うと、気付けば他の人の手伝いに回り、そしてまた鍋に戻ってくる。足の運びこそゆったりとしているが、手の仕事は早く正確だ。


 ……すごいな。


 素直にそう思えた。クラスメイトたち相手にも、「すげぇなぁ」とは思うけれど、あれはもはや呆れに近い。手の届かない才能を見せつけられては、苦笑いしかできないのだ。

 だけど、これは、違う。

「……こうだったか」

 トミコおばあちゃんの手元を思い出しながら、包丁の持ち方を少し変えてみる。テンポ良く繊維に刃を入れ、切り分け、次のタマネギを手に取る動作。トン、トン、トン、とリズムよく包丁を押し付けていく。よし、良い感じ――

「っ!」


 げっ。


 勢いよく進む刃が、おぼつかない手つきで野菜を支えていた、俺の左手に当たった。竜宮寺りゅうぐうじさんに言われたことを思い出して、慌てて野菜から手を離す。刃の当たったところを見ていると、一見何も起きていなかったので、おお、セーフかと溜息をついたが、遅れて赤い血が滲み出てきた。

 じゃねえよ。何してんだよ。


「あ、あの。おばあちゃん」

「はあい?」

「指を……」

「あら。こっちおいで」


 トミコおばあちゃんはサッとエプロンに手を入れると、取り出したのは水に強いタイプの絆創膏だった。しわくちゃの指で器用にカバーを開き、ササッと患部に貼り付ける。


「あ、ありがとうございます」

「ええよぉ。包丁は消毒しとこうね。こっち使いなさいな」おばあちゃんは包丁を脇によけると、別の一振りを取り出して作業台に置く。「そんで、焦っちゃったの?」

「へ?」

「焦っちゃった? 野菜切るの」

「あー……ま、まあ」俺は渋々頷く。「おばあちゃん速いから、真似しようとしたら」


 ヤバい、いつもとは違う恥ずかしさがある。俺が答えると、けけけ、とおばあちゃんが子鬼のように笑った。


「あんりゃ。そう、そう。そうなの」

「あ、あんま笑わないでください」

「だって、私、厨房に立って六十年近くだもの。なかなか、おっつかないわよぉ」

「ろくじゅうねん」

 マジか。なんか、トミコおばあちゃんの年齢から見て想像はつくが、それでも口にすると圧巻の年月だった。ずっと、飲食系の仕事に従事してるってことなのか。

 学校に来る前から?

「最初はゆっくり、丁寧にやること。それができれば、大丈夫。繰り返しやってれば、段々早くなるかんね。焦らないこと、焦らないこと。今は、最初の早さで十分」

「繰り返しって、六十年?」

「そおそお、六十年」

 おばあちゃんはクスクスと笑って、自分の作業に戻っていった。


 厨房でちまちまと野菜の処理をしていると、たびたび椎名しいなさんと竜宮寺りゅうぐうじさんがやってきて、あれやこれやと仕事を渡される。食器洗い、簡単な盛り付け、調味料の補充や入れ替え、弁当のおかずを詰めるのと、それからただ鍋をかき混ぜるだけ。ぽつぽつクラスメイトや顔見知りが来ては、冷ややかな視線を向けられることもあったが気にしない。今日は、食堂のおばちゃんたちに褒められれば十分だ。


「これ、本校舎と研究棟で出すのよ」と、弁当箱におかずを詰めていると、隣で同じ作業をしていた椎名さんが説明した。「教員さんと事務員さんと……まあ、職員さん向けね。学生さんもたまに買ってるわ」

「ああ、見たことあります。昼休み、職員室に行ってますよね」

 そうそう、と椎名さんは微笑む。


 いよいよ、一日のピークだという昼休みが始まろうとしていた。


 まあピークとは言っても、普通の高校ほどじゃないだろう。埋まる座席は最大で七、八割程度で、一人で席取りをするときに困ったことは無い。ただ、それまでとは比べものにならないほど混み始めているのは確かで、ようやく下拵えされたアレコレが本領を発揮するところだった。

 と、同時に。

 食堂が賑やかになり始めたところで、弁当を大量に詰めた保温ケースを前に、椎名さんがふと呟いた。


「あら。お弁当の配達、どうしようかしら。うっかりいつもの時間で作っちゃったわ」


 竜宮寺さんがそれに振り返る。

「あ、ほんまや。あたしが行ったら、さすがに厨房回らんくなるか?」

「厳しいかもしれないわね。電話して来てもらう?」

「あ。だったら、行きましょうか」

 つい、とっさに手を挙げた。ちょうど仕事を失っていたところだ。

 が、おばちゃん二人は難しい顔をしていて。

「大丈夫? 重たいわよ。すごいたくさんあるの」

「高橋にできるかなぁ」

「えっ、そんなヤバい案件なんですか」

「普段は竜宮寺さんがやってるのよ。知ってる? 彼女、怪力なの」


 それだけ聞いたら竜宮寺さんを揶揄しているみたいだが、そうではないとすぐにわかった。竜宮寺さんがお手本がてら、片手で保温ケースを掴んだ瞬間、彼女の年齢と性別にしてはたくましい腕に、SFチックな赤いラインが血管のように現れ、怪しく光ったかと思うと、ケースをヒョイと持ち上げたのだ。いわゆる筋肉自慢の“ヒョイ”ではない。まさに風船でも持ち上げるかのように、物理法則を無視して、軽々と。


「えっ。竜宮寺さん、能力残ってるんですか」

「なんや、知らんかったんか」

「食堂でトラブルが起きると、仲裁するのは竜宮寺さんの仕事だものね」

 椎名さんが補足する。それは見たことがあった。まれに、ガラの悪い生徒が掴み合いになると、竜宮寺さんがそこに割って入って、軽々と〈主人公〉たちを引き剥がしたり、懲らしめたりしているのだ。

 が、それはそれで。


「素かと思ってました……」

「どういう意味や、それ」

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