06.
老人のそばから立ち上がり。路地を出て俺の前へ。それにつられるように、少女も路地から顔を出した。黒い影の集団に、「ヒッ」と悲鳴が上がる。
俺の前に出るということは、黒い影の前ということだ。だというのに、
「
「ちっこいのって……ちょっと、ユウヤさん!」
「多少“虫”が出るが、毒はない。できるだけ、踏みつぶさないでほしい」
何を言っているか、わからない。
わからないが、わかる。――ああ、また〈主人公〉の“日常”が始まるんだな、と。
「俺に触っても害は無いが、推奨はしない。少し臭う。それから――」
淡々と説明する綾瀬の瞳が、不意に感情をまとった。
悲しそうな、感情を。
「……悪いな、キーナ」
そう言った直後――綾瀬の体が、“溶けた”。
嘘は一つもない。“溶けた”のだ。皮が、毛髪が、筋肉が、服ごとドロドロと変質し、黒光りするヘドロのようなものが溢れ出す。腐敗した肉を万倍くらいに希釈した臭いを噴きながら、骨だけは溶けることなくその場に残り、クラスメイトの体が白骨化していく様子を見るのは――なかなか、くるものがあった。
そしてヘドロの中から、数え切れないほどのムカデ、クモ、ヤスデ、サソリ――
それもまともな姿ではない。足が多かったり、あるいは欠けていたり、頭が二つあったり。どれもが、どこか
「ひっ、ひっ――!」
「あっ――待てっ、落ち着け!」
足下を這い回る虫たちに、驚く少女の反応は、昨日の
俺もこれは、さすがに――
白骨死体もバラバラに崩れて、ヘドロの中に消えていく。ヘドロは水を含みすぎた土の山みたいに地面にこんもり盛られて、その下に間欠泉があるかのように、ボコッボコッ、と体積を増やしていく。骨や、虫や、枯れ葉や、腐った何かをごっそりと含みながら。
その向こうでは黒い影が顔を上げて、こちらに向かって駆けだしてきた。俺は反射的に少女を路地に押しやる。
「隠れろ! おい、綾瀬!」
ついヘドロに向かって叫んだが――このヘドロ、耳があるらしい。
ヘドロは地面に、敵のいるその足下に一気に広がると、一部はトゲのように突きだして一寸違わず黒い影の胸を貫き、一部は影の体にまとわりつき、その体をきつく締め上げ、潰す。耐えきれなくなった影は、短い断末魔を上げて消滅した。
そして周囲に敵がいなくなったと思うと、ヘドロはずるずると流れ出し、排水溝やマンホールの穴へ吸い込まれていく。地面のあちこちには、いびつなムカデやら腐りかけのネズミやらが、とととと、と走っていた。
「ね、ねえ――なにこれ、なにこれ!! なにこれ!? ユウヤさん――ユウヤさんなの!? あの、ドロドロしたやつが!? ねえ、なんで!?」
「お、俺も知らねぇよ! 綾瀬がどうにかしてくれる! じいさん、大丈夫か!?」
こっちだってパニックになりたい気分だが、今は綾瀬に言われたことを遂行するのが先だ。地面にへたり込んでいた老人は、しんどそうだが意識はある。「運びますんで、背中乗せますよ」と告げると、「わりぃね、わけぇの」としゃがれた返事が返ってきた。一人分の重量はあるが、小柄な人なので、俺でも十分背負える。
なるべく揺らさないように老人を背負うと、唐突に周囲が日陰になった。
「なっ……」
「あっ……!」
少女が海の方を見て、唖然としている。向くと、真っ黒な壁がそびえ立っている。
壁じゃない――と、すぐにわかった。綾瀬だ。海岸と町を遮る巨大な壁が、海岸線めいっぱいに広がっている。ぐちゃぐちゃの生ゴミをからめ取った、ヘドロが。
あれが、綾瀬なのか?
「…………」
ショックを受けたらしい様子で、少女はそれを見上げていた。……いや、普通に考えてショックだろう。近所のお兄さんが急にあんなことになって。というか、あの壁を、お兄さんと判断できているかどうかさえ、問題なのだが。
――と、思っていたら。
「ねえ、逃げよう。あんただれ? 名前なに?」
「へっ?」
思いのほか、少女はけろっと態度を切り替えて尋ねてきた。歩き出して、「ほら行こう!」と促してくる。「ユウヤさんがさあ、ヘンなのになって、がんばってるんだから! 早くしてよ!」
「あ、ああ」
「で、名前なに」
「高橋。お前は……」
「タカハシね。わたし、キーナ。黄色の黄と、稲穂の稲で、
そう慣れた様子で自己紹介すると、「じいちゃん大丈夫?」と、背中の老人に尋ねる。「ああー……大丈夫、大丈夫」と返ってくるのを聞いて、「あんま揺らさない方がいーよね。ゆっくり歩こ」と俺の方を見て言った。
冷静な判断だ。俺たちは早歩きで街道を進む。
「ねえ、タカハシはユウヤさんのなんなの? 友達とか?」
「あ? いや、ただの、学校のクラスメイトだけど」
「は、はあ?」
一番無難だと思ってた返事に、このリアクションだった。「はっ?」と聞き返そうとすると、その前に、
「クラスメイトって……! あっ、昔のってこと?」
「む、昔の?」
「だってユウヤさん大学行ってないじゃん! 高校の頃からフリーライターやってて、今それで暮らしてるんでしょ? えっ、そうじゃないの!?」
「はあ!?」
今度はこっちが怒鳴る番だった。「うぉ~い、響くのぅ~……」と背中から抗議が聞こえて、「あっ、すみません」と謝る。そして小声で、
「……フリーライターって?」
「ザイタクでパソで仕事してるって聞いたよ。一人暮らしで、ボロい倉庫に住んでる」
なんだそりゃ。なんだその設定。いや、どっちが設定だ?
「そうじゃないの? お金無いくせに町の人の手伝いばっかりしてるから、バカな人だなーって思ってたけど、ええっ。わけわかんない!」
「いや、そうは言ったって、あいつは――」
高校生のはずだ、と言おうとしたところで、いや待て、と思考に制止がかかる。俺、けっこうとんでもないことバラそうとしてるんじゃないか?
どう誤魔化せばいい?
どう誤魔化すのが正解なんだ?
「あいつは……その」
「その?」
「……あいつは、ドロドロなんだ」
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