【ヒント⑦】

 本作には三人称視点は用いられていない。




◆◆◆




「男のくせに自分のことを名前で呼ぶのは変だよ」「せめて女ならまだマシなんだけどなぁ」「男だとかなりキモいって」


 世の人々は男女平等だの多様性だのと騒いでいるというのに、そんなふうに言って歩──丑若うしわか歩を馬鹿にしてくる人は少なくなかった。

 けれど、歩はそれを変えようとは思わなかった。〈俺〉や〈僕〉はもちろん、〈自分〉や〈わたし〉もしっくり来なかったからだ。歩は〈歩〉だ。〈俺〉や〈僕〉じゃない。だったら、一人称も名前にすべきだと信じていた。

 しかし、価値観を否定されつづけるのは応える。いつしか歩は、女に憧れるように──羨むようになっていた。


 女の子はいいよなぁ。男なんかより自由だ。簡単にちやほやされるし、甘やかしてもらえる。


 特に、若くて美しい女──美少女に対する嫉妬心はかなりのものだった。かわいければどんな一人称でもチャームポイントになる。かわいいは正義とはよく言ったものである。真理だった。非常に気に入らなかった。


 その日も歩はその残酷な世界に打ちひしがれていた。


 朝の満員電車に乗っていたら、突然、手首を掴まれた。何事かと下手人を見ると、目の覚めるような美しい少女が、油が張ったようなぎらついた瞳を吊り上げていた。彼女は、


「痴漢してましたよね?」


 というのだ。

 身に覚えのないことだった。

 たしかに吊革を掴んでいたのは左手だけだったし、荷物はリュックサックかポケットの中だったから右手は自由だった。けれど、痴漢なんてしていない。スカートに手を忍び込ませてお尻や女性器をまさぐってなんかいない。

 電車内でも連れていかれた駅員室でも、歩はそう主張しつづけた。

 しかし、駅員も警察官も男も女も歩の言うことに耳を貸してはくれなかった。世の中は女の──若く美しい少女の味方だったのだ。

 それは嫌というほどわかっていたことだったけれど、やっぱりつらかったし、痴漢の汚名は、はいそうですかと簡単に受け入れられるものでもなかった。


 しかし現実はどうにもならず、結局、歩は五十万円の罰金と少女に対する二十万円の慰謝料を支払わなければならなくなった。

 これは法的責任だけの話だ。実際には社会的責任も加わる。

 この社会的責任というのは非常に厄介なもので、ある意味、刑罰よりもよほど厳しく、残酷だ。

 すなわち、歩は苦労して入った大学を退学になり、脈ありかもと夢を見れるくらいには悪くない雰囲気だった女の子も仲の良かった友人も離れていったのだ。

 やがて歩はアパートに引きこもるようになり、必然の帰結として独りきりになった。


 じめじめした狭いアパートの部屋で、溜め息をついてはぶつぶつと虚しい愚痴を独りごちる日々を過ごしていた。

 

「美少女はいいよなぁ」


 証拠なんてなくても信じてもらえる。

 詮なきことだとわかっていても感情は治まりそうになかった。


「歩もかわいい女の子に生まれたかった……」


 くだらないウェブ小説みたいに美少女に憑依できないかな、などとくだらないことを思って自嘲の苦笑を洩らした時だった、


『その願い、叶えてやろう』


 という、男とも女とも老人とも子供ともつかない声が聞こえたのは。


「えっ──ええっ?!」歩は思わず驚愕の声を上げた。


 部屋には歩、独りだ。とうとう本格的に頭がおかしくなったのか、と戦慄した。もう駄目かもしれない。

 

 と思ったら、世界が変わっていた。


 !?──驚愕する歩の目には、美少女の鏡像が映っていた。


 本当に美しい少女だった。

 さらさらのショートヘアは淡く優しくも美しい亜麻色で、まつ毛の長いぱっちり二重の赤き輝きは妖艶な魔力を宿し、見つめられると心を溶かされてしまいそう。

 玉のような肌は芸能人でもなかなかいない理想的な象牙色。とどめとばかりに胸部の膨らみもはしたなくならない程度に豊かで、すなりと長い手足のシルエットに女性らしい曲線美を与えていた。


 少女は姿見を見て身嗜みを確認しているようだった。


 服装に関しては、うーん、コスプレ? イメクラ? みたいな感じだった。つまりメイド服とブレザーを足して二で割らなかったような、学生にあるまじき破廉恥な学生服を着ていた。

 全体の色合いは暗めの赤。スカートは短く、ニーハイとの間に魅惑の絶対領域を作っている。胸部はブラウスが露になっていて、双丘が謎に強調されている。いわゆる乳袋というものだろう。実物は初めて見た。極めて非現実的な格好と言えた。


 まぁそれはいいのだけれど、問題は一人称視点でそれを見ているということだった。つまり、歩がその美少女になってしまったと考えるのが最も妥当ということ。にもかかわらず、


 体が動かせない……?


 肉体の操作権は完全に少女にあるらしく、指一本動かせず、歩は声を上げることもかなわない。少女の心を読むこともできない。

 ただし、視覚をはじめ五感はあった。肌に触れる布の感触や窓の向こうの鳥のさえずり、柔軟剤とも違う甘い香りを確かに感じていた。

 操作不可のVR体験をしているようだった。

 

 歩はどうなってしまったのだろうか。孤独死して幽霊にでもなってしまったのか。今ごろ死体に蛆が湧いてたりして。

 と考えるなり、アパートで聞いた正体不明の声に思い至った。彼か彼女か知らないけれど、あいつが歩をこの美少女に憑依させたんだ。そうに違いない。

 歩が願ったからだ。歩がそう願ったから、その妄想が実現したんだ。


 あの声の主は神の類いだろうか?

 じゃあ、これは神様転生の一種?

 

 にしては〈おもてなし〉が少々足りていないのではないか? 界隈にはこびる、転生遊戯を嗜む神様は、もっとこう、全身全霊をもって人間を甘やかすもののはずじゃなかったの?

 憑依対象がチート級美少女である点はすばらしい。しかし、体を動かせなければその恩恵もほとんど受けられない。

 というより、認識することと思考することしかできない。歩は考えるだけの葦ではなかったはずなのに、考えることでしか自己を証明できなくなっていた。思考の放棄が自我の死に直結する、ひどくあやふやで形而上的な存在になってしまったのだ──恐ろしいことだ、とてもとても。

 しかし、どれほど恐怖しようと泣き叫ぶこともできない。これほど悲しいことがほかにあるだろうか。


 ふと思った。何とかして主導権を奪えないだろうか、と。

 

 試しに、体を寄越せ、と強く念じてみた。

 結果は予想していたものとは違った。


「な、何これ? 誰かいるの?」耳心地のよい角のない中音だった。それを尋ねた鏡の世界の亜麻色髪の少女は、怪訝そうに眉根を寄せていた。「幽霊?」


 わかるんだ、と歩は感心した。もしかしたらコミュニケーションが取れるかも、と期待もした。久しくまともに会話していなかったから人の肉声に飢えていたのだ。それに、コミュニケーションが可能なら状況はずっとマシだった。


 歩は心の声で話しかけた。何度も何度も。

 けれどそれは、少なくとも意味を持った言葉としては彼女の心に届かなかった。幽霊のようなものがいる違和感はあるようだったけれど、意思疎通できるわけでも正確に認識できるわけでもないようだった。

 歩は絶望した。こんなの、歩が望んだ憑依じゃない、と。


 他方の少女、すなわち牛若歩──偶然か神の悪戯か、彼女も、漢字こそ違うもののウシワカアユムという名前らしかった──も気味悪く思ったらしく、オカルト、特に除霊について調べたり、時にはちまたで評判の霊能力者に相談したり、そしてそれらすべてが無意味だと悟ると最終的には心療内科を訪ねた。駅ビル四階の隅にある、小綺麗で小洒落た小規模なクリニックだった。


「妄想症状の一種ですね。でも、それ以外の症状や徴候はないみたいだし……ううん?」


 よく整った童顔の若い男性医師は親身になってくれたけれど、明確な診断を下すことはできないようだった。

 そりゃそうだよ、オカルトは医療の領分じゃないんだもん、と歩の心は笑った。


 やがて牛若歩が諦めたのは、憑依から二箇月ほど経った初夏──彼女はまだ一年生で、今よりも幼さの残る顔立ちをしていた──のことだった。

 何かいる気はしても実害は何もない。実害どころかほかの影響もない。それなら気にしても無駄──そんなふうに言い聞かせて納得するようにしたらしかった。

 このころには、歩もこの怪奇現象の仕様・ルールを正確に把握していた。


 ①丑若歩の意識は、四十八時間につきおおよそ三十六時間のまとまった睡眠を必要とする。つまり、一日おきにしか世界を認識できないということだ。

 また、牛若歩が意識を失うとそれに引きずられて丑若歩も意識を失う。牛若歩が覚醒しなければ丑若歩が覚醒することもない。さながら主たる債務に付従して成立する保証債務のように丑若歩の意識は牛若歩のそれに依存しているのだ。

 おそらくは、あくまでも丑若歩はこの体の主役ではないということなのだろう。言ってしまえば間借りしているだけなのだから、これらも道理だろう。

 ②肉体の五感は完全に共有している。ただし、感じたものをどう捉えるかはソフトウェアたるそれぞれの人格による。例えば、酢の物を食べて酸っぱいと感じるところまでは同じだが、それをおいしいと捉えるかイマイチと捉えるかは牛若歩と丑若歩で分かれる、といった具合だ。

 ③互いに思考や感情を読むことはできない。何となく喜んでいるようだ、などと漠然と察することも不可能。丑若歩からすれば態度や言動から推測するしかない。牛若歩からすればその推測すらも不可能だと思われる。

 ④肉体の操作権は完全に牛若歩のもので、丑若歩にはごくわずかな干渉すら許されない。おそらくは神の性格が悪いからだろう。神なら丑若歩の思考──願望だって正確に読めていたはずなのにこんなふうにしたのだから、きっとそうだ。


 ──と、こんな感じ。

 当初は不満だったけれど、一度受け入れてしまえばそれも治まり、憑依生活を楽しめるようになった。


 牛若歩の人生をリアルタイムで体験していて、いくつか気づいたことがあった。

 まず一つは、どうやら牛若歩と丑若歩は似たような感性をしているらしいということ。

 もちろん違う部分も少なくはないのだけれど、大まかな思考方向や言動が一致していた。例えば言葉遣いや受け答え、映画や食の好みなどだ。

 神らしき存在が意図的にそうしたのかもしれない。歩の願いの言葉から、女の子として生まれていればこうなっていただろうという予想に近い人物を選んだ。名前の一致もそういった本質的な近似に由来する──一応の説得力はあるかもしれないけれど、確認は不可能だった。神に呼びかけても答えがなかったからだ。神とはそんなものだからへこみはしなかったけれど。   


 一つは、美少女割引、つまりはそのかわいさゆえに得をすることはたしかにあったけれど、いらぬ嫉妬を向けられたり対抗心を持たれたり妙に距離を取られたり勝手な理想像を押しつけられたり痴漢に遭ったり見知らぬ通行人から視姦されたりとデメリットも少なくないということ。

 歩に濡れ衣を着せたあの少女の気持ちが少しだけわかった気がした。度重なる痴漢に心が参って神経質になっていたのかもしれない、と。

 彼女のあの頑なさは妄想に近いものがあった。メンタルが弱っているとそうなることもあるだろう。

 だからといって冤罪は許せないけども。


 そして、ある意味これが最も重要なのだけれど、ここがアダルトゲームの世界なのかもしれないということ。

 根拠は、

 牛若歩の通う公立赤空学園の生徒が具体的な年齢について語ろうとしないこと(エロシーンは十八歳以上じゃなきゃ駄目! とかいう建前)、

 そもそも学園の定義が曖昧なこと(やってることは高校と同じなのに!)、

 誰も本名を呼ばない、本名があるのかさえ不明な、まるでモブキャラのような人物がいること(ホラーかな?)、

 判で押したように似た顔立ちの美少女美女がやたらと多いこと(やっぱりホラーかな? つまりエロホラー?)、

 変態的な制服が当たり前に受け入れられていること(あれに誰も突っ込まないのだから不思議でならない)だ。


 歩はエロゲーを遊んだことがない。だから、全然詳しくない。けれど、震えた。

 なぜって、牛若歩の図抜けた美少女具合を見るに、どう考えても攻略ヒロインだから。美少女に憑依したからといって歩の性自認が男から女に変わったわけではない。ノーマルもノーマルな異性愛者のままである。

 なのに、男に抱かれる体験を一人称視点でしなければならない可能性が高いのだ──これ、何て罰ゲーム?

 やはり神の人格(神格?)は終わっているに違いない。


 そんなふうに思っていた歩はやはり正しかったのだと再認識したのは、牛若歩が二年生になった時だった。

 牛若歩は女の子──兎月恋町という超絶美少女と恋人として付き合いはじめた。

 まさかのレズビアン?! 

 と喜んだのも束の間、どうやら牛若歩はバイセクシャルらしく、男根が膣肉を掻き分けて入ってくる感触を知ってしまうおそれは一瞬で復活してしまった。上げて落とす形で、落胆もひとしおである。

 歩は、やはりこのシナリオを書いた神はクソである、と強く確信した。







 歩は夢を見ない。

 だから目覚めはいつだって唐突で、誰かがスイッチを入れたかのように強制的に、世界を写し取ったフィルムが回り出す。


 視界の幕が上がると、スクリーンは違和で埋め尽くされていた。


 まず、痛みを認識した。四肢がずきずきと痛むのだ。何だこれは。すっごく痛い。

 泣きたいくらいの痛みだったけれど、ベッドか何かに仰向けに横たわった状態の牛若歩は、声を上げることも顔を歪めることもせず、記憶にない白い天井をただ見ていた。

 記憶──そうだ、と思い出した。雑野と静観に気絶させられたんだった。

 ここはどこだろう。雑野の自宅かな?

 しかし、そう思ったところで部屋を見回すこともできない。牛若歩の視線が天井の染みを見つめているのなら、歩もそれを見つづけるしかない。目の端に映る、天井と同じ色合いの白い壁や背の高い棚らしき物から一般家庭の一室らしいということはわかったけれど、そこまでが限界。鎖骨の辺りに妙な感覚もあるし、どういう状況なのか。


 牛若歩が頭だけで横を見た──と、予想外の光景に歩の心は目を見張った。

 

 えっ、点滴? てか、ギター?


 点滴の液が入った透明なバッグが、ステンレス製らしき銀色のスタンドに吊るされていて、そこから歩のほうへ管が伸びていた。たぶん、鎖骨の違和感の正体はこれだ。点滴をされていると言われれば、たしかにそんな感じだった。

 そして、部屋の隅に鎮座する数本のギター。エレキギターにアコースティックギターもある。隣には鍵盤とボタンの並んだ電子楽器──おそらくはシンセサイザーが置かれている。

 栞莉の惚気話が耳に蘇る。雑野は音楽をやっているということだった。なら、やはりここは雑野の部屋なのだろう。

 つまり、気絶させられ、そのまま連れ去られた。

 何のために?

 という疑問に答える声は、もちろんなかったのだけれど、すっっっごく珍しいことに牛若歩が話しかけてきた。


「ねぇ、起きてるんでしょ?」


 うん、起きてるよ──歩は心の声で答えた、伝わることはないのだけれど。誰もいないアパートに帰った時に〈ただいま〉をつぶやいてしまうのと似ているかもしれない。


「あなたの力で何とかならない?」


 何とかって何が?──これも無意味な問いかけ。


 どうしたのだろう。何が起きたのか。嫌な予感が一気に膨らんで心を埋め尽くし、歩を苦しくさせていた。

 彼女が頼ってくるなんて初めてのことだった。明らかに異常だ。それほどの状況なのか。

 

「……やっぱり答えられないか」ややあって牛若歩は、諦念をにじませた。「仕方ないね」


 そして、彼女は仰向けのまま視線を自分の体のほうへやった。タオルケットが掛けられているが、鎖骨に点滴を見つけた。それ以外はいつもと特に変わらない。

 

 ──ん?? あれ?


 どうしてそんな変な所に点滴? 普通は手にやるんじゃないの?


 訝り、そしてその異変に気づき、しかし歩は、見間違いだろう、たまたまそういうふうに見えるだけだ、とそれを否定する。これが正常性バイアスか、と頭の片隅で考えながら。


 ──ガチャ。


 ドアの開く音がして、牛若歩の目がそちらにいく。雑野だ。彼の後ろにも二人いる。中年の男女だ。男のほうは、太ったビジネスバッグのような革鞄を提げている。初対面のはずなのに既視感のある二人だった。


「よう、気分はどうだ?」雑野が、ご機嫌な様子で尋ねてきた。


「良くはないかな」牛若歩は、誘拐犯に対するものとは思えない穏やかな口調で答えた。


「そいつはよかった」満足げに口元を歪めてそう答えた雑野は、その嫌みったらしい笑みを消すと後ろの男女に言った。「小杉さん、処置をお願いします」


 小杉と聞いて歩は、あっ、と既視感の理由に気づいた。彼らは小杉啓太に似ているのだ。ということは、彼の両親だろう。


 小杉と呼ばれた男女は、揃ってうなずくと牛若歩に目を向けた。その隈の濃い瞳がにらむような険しい眼差しを寄越してくる。

 それで歩は理解してしまった──ああ、きっと彼らは雑野の推理を信じてしまったんだ、と。

 彼らの双眸の奥にありありと見える黒く燃える敵愾心が、何よりの証左だ。


 そしてとうとう、小杉夫人の手により歩の現実逃避を支えていたタオルケットが取り払われた。


 体の操作権がなくてよかったと思う日が来るとは、こればかりも念頭になかった。もしも歩の精神と牛若歩の肉体が繋がっていたら、みっともなく悲鳴を上げていたことだろう。取り乱して声を荒らげもするかもしれない──いや、確実にそうなる。体を動かせない傍観者だからこそ、まだ冷静でいられる。


 牛若歩のすべての四肢が、絵に描いたように完全な官能美を備えた手足がなくなっていたのだ。


 腕は肩のすぐ下、二の腕の途中から存在せず、足もわずかな腿を残すばかりで、傷口に巻かれた包帯には、受け止めきれずににじみ出た血が赤く広かっている。鎖骨に点滴もやむなしの達磨状態だった。

 衣服は、介護用だろうか、紙オムツ以外は身に着けておらず、重力に引っぱられて横に流れている乳房がまる見えだった。

  

 なるほど、と思う。だから小杉夫妻なのか。

 

 ──お前らの息子を殺した女を捕まえた。復讐したいから協力してほしい。


 雑野はこんなふうに言って小杉夫妻を引き込んだのだろう。医師をしている彼らが必要だったのだ。牛若歩を達磨にするために。


 小杉夫妻により手早く包帯を交換され、次いで点滴も外された。その間、彼らは何も言葉を発せず無機物でも相手にしているかのような様子で、処置が終わると、この場に充満する狂気に染まりきれなかったのだろう、逃げるように部屋を去っていった。彼らはまだまともだったということだ。

 何となくだけれど、もう来ることはないんじゃないかな、と直感した。それでいい、と思う。こんなことからは早く手を引いたほうがいい。

 一方、

 

「クソサイコのくせにきれいな体してるよな」


 三白眼をにやにやと好色に輝かせる雑野は、すでに修復不可能なほど壊れてしまっているようにも見えた。あるいは、初めから壊れていたのだろうか。

 彼の大きな手のひらが牛若歩の乳房を鷲掴みにした。ぐにぐにと強く揉まれ、押し潰された乳肉が指の隙間から零れ落ちそうになる。痛い。

 牛若歩が苦しげに顔をしかめると、雑野は笑みを深めた。


「いい顔だなぁ、おい」


 彼の無骨な指にやや乳輪の小さい桜色の乳首をつねり上げられ、鋭い痛みが走った。


 牛若歩は思わずといった様子で、「痛っ」と声を上げ、短すぎる手足をもがくようにもぞもぞと動かす。まるで芋虫のようで惨めな気持ちが込み上げてくるし、傷口が塞がっていないせいで、その動きだけで嬲られている胸乳の痛みなんかとは比べものにならない激痛が電撃的に全身に広がる。「やめ、やめて」


「──ふんっ」つまらなそうに鼻を鳴らすと雑野は、手を放した。「今日のところはこんくらいにしといてやる」


 牛若歩の懇願が功を奏したわけではないのは、暗い光をたたえる彼の三白眼を見れば明らかだった。


 雑野は言う。「だが、傷が落ち着いたら地獄を見せてやる」


 優しさだろうか、なんて期待はしない。その、がらんどうの期待に応えるように彼は、


「お前のことは絶対に殺してやらねぇからな」と吐き捨てる。「いたぶって、嬲って、犯す。お前を苦しめるためならどんなことでもする。生きたまま永遠に苦しめつづけてやる。

 お前はもう終わりだよ。これからの人生は、一日でも早く死神の鎌が振り下ろされる日が来るのを祈るだけのカスみてぇなもんになる──必ずそうしてやる」


 最高だろぉ?──雑野はそう言って嗤うと、背を向けてドアのほうへ一歩踏み出し、しかしはたと足を止めて振り返った。その顔は嗜虐に歪んでいた。


「な、なに」


 牛若歩のおびえた問いを無視して顔を寄せた雑野は、躊躇する気色も見せずに彼女の唇を奪った。


「んむっ」くぐもった声は牛若歩のもの。


 ざらついた舌が牛若歩の唇をこじ開けて侵入してくる。と同時に濃い煙草の味が口内に広がった。歯茎を舐められ、かと思ったら舌をまさぐられ、重なった唇の隙間からは、くちゅくちゅという卑猥な水音が洩れ聞こえてくる。


 男とキスをするなんてのは怖気立おぞけだつ体験以外の何ものでもない。けれど歩は、牛若歩の肉体感覚に引きずられ下腹部に甘く切ない疼きを感じていた。体の奥で、痛みとは違う、もどかしい熱が脈打っている。

 気づけば、牛若歩は自分からその柔らかな舌を絡めていた。もっともっと、とねだるように激しく、深く、甘く──。


 しかし、雑野は不意に唇を離して、それをやめてしまった。

 

 潤んだ瞳越しに見る雑野は、輪郭がぼやけていて表情が判然としないけれど、おもしろそうにしているのは伝わってきた。「絶対に殺せない状態でするキスの味はどうだ?」


 牛若歩は、まるで愛おしい人を前にしているかのように、秋波しゅうはを送るかのように悩ましげに眉をひそめて雑野を見つめ、「ねぇ、ぎゅってして」蜜語を吐く。


 雑野のごつごつとした男らしい喉仏が上下した。唾を飲んだらしかった。


「もう何でもいいから、ぎゅってだけ、して──」牛若歩の鼻に掛かった甘え声が繰り返される。


 ふと、濃密な雄の香りを感じた。

 牛若歩の視線が雑野の股関に触れ、そしてその一物が激しく屹立しているのを認めると、彼女の口角が痙攣した。吊り上がりそうになるのをこらえているのだ。牛若歩歴一年を越える歩にはそれがはっきりとわかった。


 牛若歩の形のいい紅き唇が、「いいよ」と笑うようにささやく。「ぼくは大丈夫だから」と包帯の巻かれた短すぎる腿を広げ、「我慢しないで、ぼくのここで気持ちよくなって──すっきりしよ?」ね、とほほえみを送る。

 

 雑野の手が何かに操られるように少女の秘園を覆う襁褓むつきへと伸び、


 ──ちっ。


 しかし彼は舌を鳴らしてその手を下ろした。「きれいな顔して、マジで恐ろしい女だな」


 牛若歩の歯の裏でも舌打ちの感触があった。しかしそれはおくびにも出さずに、「怖がる必要なんてないですよ、ぼくはもう何もできないんですから」などと言う。


「うるせぇよ」


 雑念を振り払うように強くそう発すると雑野は、棚に無造作に置かれていた昔ながらの紙巻き煙草を取った。火を点け、深く吸う。すると突然、牛若歩のまぶたを押し広げて固定し、


「えっ、ちょっと何するつも──っ!!」


 赤く光る煙草の先端を彼女の眼球に押しつけてきた。熱。痛み。


「いいいあああっっっ!!!」


 純然たる悲鳴が部屋を震わせた。

 雑野が煙草を引くと、もう視野は半分になっていた。左側が見えない。右目も涙でほとんど見えない。


 火が消えていたのか、雑野は新しいものに再び火を点けると、先ほどと同じように頭とまぶたを押さえつけ、その赤い光を少女の右目に近づけてくる。


「いやっ、お願いっ、やめてっ、お願いっ、許してっ」


 しかし彼はわずかな逡巡すら見せずに、


「ああああああああっっっっ!!!!」


 その美しき魔性の赤眼を焼き潰した。


 痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛いっっ!!

 歩は神を呪っていた。呪わずにはいられない。

 何が願いを叶えてやるだ、ぶけんなっ。どうして歩がこんな目に遭わないといけないんだよっ! 何も悪いことなんてしてないのにっ!

 しかしというか、やはりというか、神──あるいは悪魔は答えない。


 煙草の熱が去り、鼻につくそのにおいが薄まっても、当たり前だけれど、世界は真っ暗な闇に包まれたままだった。


「ひどい、ひどいよ」牛若歩もやはり恨み言を繰り返していた。「ぼくはただ愛されたかっただけなのに……」

 

 ドアの開閉音が聞こえ、雑野が部屋を去る気配がした。


 静寂に独り残された少女は、果てしない闇を呆然と見つめていた。

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