分割の二


 緩いシルエットのナイロンジャケット、ショートパンツにハイソックス、スニーカーという如何にもな――一般的な範疇に収まろうとする――コーデで帰宅した心美は部屋の隅に上着を放り投げて一息つく。

 一室の端に寄せた机の上に目を向けると、背けたい現実が急激に距離を詰めてくる。裏に伏せた紙片は心美の帰りを待ち構えていたように巨大な存在感を殺風景な自宅にもたらしていた。裏面であるというからには表面が存在し、その表面に早く気づいていたならそもそもこんな気味の悪い紙切れを拾ったりはしなかっただろう。

 あるいは、これほどまでに固執し魅入られるようなことはなかったはずだ。

 念のためフリーザーバッグにパックしているのは、直接それに触れる事で起こり得る強迫症状を幾らかましにするための呪術だ。

 見ろ見ろ、第二の自分が訴えてくる。幾らか落ち着いていた気分が暗くなる。同じくらいにそこにそれがあることを確認して、どこか別の次元に隠れてしまっていないかを確かめたいとも思い始める。

 先に、手に提げたビニール袋からサラダと蒸し鶏に冷凍のバターライスとハイボール二本を冷蔵庫に仕舞った。それからフリーザーバッグ越しに紙片のざらついた質感に触れる。

 ふっと意識が飛びのいていく。暗い意識の底に眠る空間に引きずり込まれるような、ぐっすりと眠りにつくそのほんの一瞬間の気持ちよさと共に。

 桜の植生が際立つ桃源郷。否、幻想郷へと遥かな時空を飛び越えてそこに立つ。幻の風景のなかを歩く。エニシダの茂る黄色い道を、天を埋め尽くす桜の花びらのトンネルをひた進む。甘さと土の匂いが鼻をつく。柔らかな土を踏みしめると含んだ水分が滲みだし、薄く土を覆う苔がはがれて足をもつれさせる。

 桜の木々が騒がしくなる。産毛が逆立つような緊張感が錦糸の目印として道を示す。

 桜の森が開くとそこには存在するはずのない神聖が姿を現す。

 桜木のそれぞれから延びる麻縄が四人の男女を縛している。首に犬のリードのように括られた縄。聖なる存在に近付くことのできない焦燥に焼かれ、首が千切れんばかりに這いつくばる女男男女。桜と共に一柱になった哀れな男女は空を漂う天使の像に縋ろうと空しく虚空に手を伸ばす。息を呑む光景に竦み上がり、悲鳴は喉の奥から出ようとしない。

 写実的に幻想を形にした絵画だろうか――少なくとも見るものに強く訴えかけてくる迫力からは水彩画では表現しきれない作者の執念を感じさせる。では、油絵なのだろう。シュルレアリスムとか印象派とかといった。フリーザーバッグ越しにしばらく見入っていると画面左下、手前に位置する少女はどことなく心美に似ていて、恥辱と恍惚とをない交ぜにしたような表情を見ると他人だとは思えなくなってくる。

 燃え上がる炎のような桜の赤は、彼ら彼女の抑圧されたコンプレックスの表れだ。そして、決して手の届かない理想は対比する。真っ白の全くの濁り無きその白は天使として空に君臨し、禍々しいほどの聖性を人間存在に与えることを許さない。

 そう、これは絶対に手に入らない理想を象徴している。どれほど心の強度――薬物という手法で一時的に得られる恍惚――を高めようともそこに辿り着くことのできない絶対性。作者には人間の本質的な性のようなものに敏感に反応してこれを絵にした。目には見えない脳内物質で喜怒哀楽の程度をコントロールされる人間という種には絶対に辿り着けない境地を視たのだろう。それゆえの、天使だったのではないか。

 心美は釘付けになっていた視線を上げる。立ち上がってから、素早く、冷蔵庫に入れたサラダを取り出しプラスチック容器からボール皿に移す。蒸し鶏の真空パックを開いて――ぱしゅっ、と空気の抜ける音――適当に引き裂いてサラダに添える。にんじん、大根、ゴボウの千切り。キャベツ、紫キャベツとレタス、コーン。ドレッシングは……和風おろし。ジョッキグラスに砕いた氷を山ほど入れてハイボール500ml缶のプルトップに人差し指をかけ、開く――空気の抜ける音――炭酸を飛ばさないよう慎重な手つきでジョッキを満たしていく。くすんだ黄金。感覚を麻痺させる霊酒。

 机の上にそれらを運んで、再び、絵を俯瞰する。バックパックに仕舞ったままのスマホを手探りで見つけてカメラを起動する。紙片の絵にフォーカス――シャッター音は空気の抜けるような感触――それを画像検索。検索結果の中の一つ、そのURLをノートパソコンに打ち込んで、一息、ハイボールの弾ける泡を胃に流し込んでいく。サラダを一口。肺から空気が抜ける音。

 よく解らない不安に苛まれる時、心美にとって酒ほど心を委ねられる存在はない。病んだ心はある程度の飲酒で麻痺させることができる。良い方にも悪い方にも。今回は比較的良い傾向に傾いたようだ。というのも、聖なる絵葉書から簡単に視線を外すことができたから(場合によらず強迫観念は眼球に映る像から目を離すなと脅してくるのだ)。

 URLの指し示すウェブサイト。〈エメスの黒〉は不気味さを前面に押し出したアングラな様相――つまり、インチキの臭い。時として、時代錯誤とは胡散臭ささと一緒に妙な不安を掻き立てる――十数年前のゲームの攻略サイトの様な古臭さが目につく。

 閲覧者〈12121212〉――閲覧者数とか今どきあり得るのだろうか? その数字は暗示的に心美の精神の均衡を崩す。際限のない不安はうつ症状にそっくりだった。それを認めないために一気にハイボールを呷る。

 どことは言えないが、そこはかとない陰鬱さはダークウェブという心美にとって未知の領域を意識させた。勿論、通常のブラウザでそのようなサイトが検索に引っ掛かることがないとはよく理解している。ユーザーインターフェースのタブを幾つか開いては閉じを繰り返す。用途の知れない――黒魔術の気配のする品々。ハンズオブグローリー、髑髏の水晶、煌びやかなギヤマンのグラス、極彩色のタペストリー等々――どれも興味深い品だが、取引方法が仮想通貨となっている。

 ドット柄の背景を凝視していると向こう側からこちらを覗かれているような根拠のない不安を掻き立てられる。いや、よくよく見るとそのデザインは目だった。フォルスの目とかなんとか……それら幾百もの目は、百目鬼のように画面を通じて心美の脳みそを透かし見ている。

 ぞくり、として全身に粘つくような空気を感じるのをハイボールの弾ける泡で清める。

 やがて、〈ヒストリー〉という項目をクリックすると目指していた絵に関する大きな見出しを見つけた。

 キャプションはこうである。

〝見ると死ぬ絵〟

 それを認めた時のやはりといった感触はさっぱりとした諦めを受け入れることから始まった。それから、添付された絵と手元にある絵葉書とを見比べて同一のものである確信を得るとそこはかとない悲しさに目が滲みだした。気のせいだと思っても、死という概念が可視化されたように眼前に置いてある居心地の悪さ。醜悪なウェブデザインと相まって、私の人生がこんなにもチープな終わり方をする、その絶望感。抗うつ剤――レクサプロとかジェイゾロフトだろう――を半錠に砕いてハイボールで流し込んだ。

 神経伝達物質の放出される脳みそが見えない力に絞られる感覚と酒の熱と酩酊感が伴っていい塩梅だ。

 ぼんやりとディスプレイを眺めているうちに、恐ろしさと悲しさが薄れだす。よくよく〝見ると死ぬ絵〟の概要を読むことで違和感に気が付いた。具体的な方法が記されていない。つまり、三回見たら死ぬ、指を差したら死ぬ、罵声を浴びせると死ぬ、といった具体的な理由がない――とはいえ、それらが持つ因果関係はやはり漠然としている。これでは、靴紐が切れると不幸、黒猫が横切ると不吉がくる、家を出るときはどちらの足がいいのか? 

といった根拠のない法則――ジンクス――と変らない。夜口笛を吹くと蛇がくる、や、霊柩車が目の前を通過するときは親指を隠さなくては死ぬ、といったディテールの整った俗説なら一定の理解は得られようものの、それとて例外なく因果関係が説明できないという点で同じ――否、先人の習慣の統計からみた真実らしい現象もあるだろうが。この直接、絵を見ることで死ぬのなら果たして誰がこの絵に〝見たら死ぬ絵〟と名付けられたのだろうか? それなら作者だって死ぬだろうし、絵を見た瞬間に死ぬのなら桜の絵によって引き起こされた死だと結びつけることも困難なような気がする。これは牛の首の類に似た生存者がいないが故に、どのような実態を持つ話なのか解らない状態と同じだ。

 見たら死ぬ、という直接的な表現は強迫性障害の本質そのものであり、〝見たら死ぬ絵〟の存在はそういった強迫的な想いを表しているように感じられる。

 このようにして、心美が論理的と解釈している思考パターンをなぞることで精神の安定が保たれていく――そこには多分に抗うつ剤とアルコールの手助けが認められる。その思考パターンというのは呪術的で儀式めいた内省にほかならないのだが、果たして、それが強迫症状による結果発生したものなのか、あるいは、生まれ持っての資質なのかは判然としない。

 酔いが回ってくるといよいよ食欲が増し、用意したサラダはすでに食べ終えていた。脳みそに似た形状のクルミをキッチンの棚から引っ張り出してきて一つ一つを小さな口の中で咀嚼する。

 気分が落ち着いてくると、〝見ると死ぬ絵〟の美しさが際立つ。概要欄はこの絵の作者に関する文章が大半を占めているようで、その理由までははっきりとしない。興味深い引用もされており心美は眠るような眼で文字を追っていった。


 栖供御時世(sugumi jise(i))。印象派の画家。櫻見町という架空の町を題材に多くの作品を発表している。そのうちの一枚。櫻見町の作品群の中でも特に最初期に描かれた一枚の絵。これを見ると死ぬという話がある。

 以下、脳神経学者である折葉作造(おりば さくぞう)の著『男を帽子と間違えた妻』から、11章の一部が抜粋されている――

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