ペーパータウン・シンドローム

梅星 如雨露

分割の一


 サイン。世界のあらゆる――個人の認知範囲なのでそれほど広くはない――物事の推移はまるで意味をなさない抽象的な記号で成り立っている。それが間違いのない真実だと丸川心美(まるかわ こころみ)が意識したのは小学生の頃、忘れもしない三月十三日の仏滅の日のことだった。実のところそれが西暦で言うと何年のことかは忘れてしまった。ただなんとなく嫌なものを連想する符号であるかのような気がした、それが強烈に脳に植え――深く歯肉に喰い込むインプラントのイメージを心美は想起する――付けられている。この心理を具体的な言葉などで表すことは難しい。サイン。心美にとってそれは漠然とした認識でしかないからだ。心美にとってサインはあらゆる恐怖を包括しているように感じた。それを現代的に強迫性の精神疾患であると認めることは簡単だ。しかし、この解釈は理論的にも強固なものとして心美も信じて疑わないにしろ、あくまで幾らでも想像/創造できる解釈の内でしかない。心を宥める事のみに呪われ、ひとつの解釈を妄信し執着することで、数多の異なる解釈を否定する証明とはならないことは必然とし、だからこそ常々恐怖という感情に支配されている心美にとって平穏無事とは如何なものか? これを(逆説的にも)探る行為。彼女の生きる目的はその一点に収斂する。

 ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』に視たそこはかとない人間の欲。マーロウの語りで綴られるその物語に登場する人物、文化、思想、小道具という記号の数々。それらが浮き彫りにする――まるで、輪郭線をなぞるような得体の知れない恐怖。

 これは一つの世界である。

 フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』はコンラッドの(深淵な)小説を元に作り出された本質は変わらない、しかし、明らかに異なった世界で表現したパラレルだと考えるならば、あのUH‐1ヘリコプターの雄々しい姿を前面に押し出す『ワルキューレの騎行』の旋律をスタンリー・キューブリックによる『2001年宇宙の旅』で類人猿が雄々しく骨の残骸を棍棒として振るい生態系の頂点に君臨した瞬間の『ツァラトゥストラはかく語り』の旋律とを混同していた心美の主観も一つの世界ではないだろうか?(尚、丸川心美は『地獄の黙示録』を鑑賞したことがない。上映時間が長いことがその理由)

 しかし、これは心美が知らなかった繋がりなのだが、ワーグナーの後継者といわれるシュトラウスの作曲とを混同していた事実を知ったら彼女は発狂していたかもしれない――そういう繋がりこそを最も恐れるからだ。

 似たような解釈の仕方は芦花公園のデビュー作である『ほねがらみ』のくねくね怪談の件でも語られているが、これ以上は蛇足と思い割愛する。

 ともあれ、

 三月十三日仏滅に視た、感じた、想像した複数の記号の連なり――事実それらには何の関連性もない、心美の与り知る範囲内において偶然、あるいは恣意的な主観の捉え方――から心美が導き出した最悪の結末は。


 朝、寒さに震えながら布団を出たときには、嫌な感覚――予感以上にはっきりとしたものだ――が頭の中を支配していた。それを、六時十三分に目が覚めたことのせいにするのか? 漠然とした靄を常に頭の中に抱えることは思春期の少女には辛い。例えば、食パンの賞味期限が三月十三日。今日の給食のメニューが、十三種の雑穀米。極めつけは、金曜日!(キリストの死をなぜ日本人である心美が気に留めなくてはならないのか)通学路の道路標識の歪みが気になって、それは忽然とした死のイメージを網膜内に焼き付ける。吐き気は、そういう不安と共にやってくる。視界を極力狭めていれば、足取りも覚束ない。顔からぶつかった同級生か上級生のランドセルに張られたステッカーには〝13〟の数字。ぞっとしない。格好いいと思っているのか? 私には悪魔の数字でしかないというのに……思考とは別の回路で心美は殺される――スラッシャー界隈のモンスターが斧で首の付け根を割る。

 その一日は無限に等しかった。今日に限って、十三という忌むべき数字が際立ち、それ以外の歪み、ほつれ、汚れがどれをとっても恐ろしい死を連想するサインとして心美に襲い掛かってきた。それらを撥ね退けるには逃げるしか、この時の彼女には自衛の方法を知らなかった。

 下校時。暗鬱とした心象の上には灰色の雲が陽の光をさえぎっていた。

 すでに名前すら忘れてしまった同級生の男の子。彼は、最近発売されたゲームの話題で話を繋いでくれていた。心美の気を惹こうと必死にも見える彼だが、おそらくはそのゲームの面白さを共有したいのだろう。気もそぞろで必然足も速くなる。しかし、

 中折れ帽の紳士然とした老人を追い抜くことは禁じられている。一人格の心美を客観的に俯瞰する第二の心美によって、凄惨な死のイメージを強要される。老人、ないし中年に属する男は、袖や裾の際までパリッと仕上がった生地、黒いスーツだ。ビジネスバッグを抱え――図書室で読んだブラックジャックの、あの先生のカバンに似ている――背筋は伸びているものの、左足を少し引きずった歩き方。左の革靴の底は斜めに削れている。どれをとっても不吉の何物でもなかった。

 悪魔の使い。死神、あるいは、それに準ずる不吉な存在。

 話に夢中の彼は当然、その男を追い抜いていく。注意したくてもできない。それができていれば、彼女はこれほどまでに怯えることはないのだから。

 結末。

 サイン。目の前で同級生の男子がトラックで跳ねられ飛び散った血漿を一身に浴びた瞬間、それは唯一真実として心美のその後の人生に重くのしかかる。

 パニックになった心美の意識が現場の状況を正確に把握することなど不可能と言えた。ゆえに、不吉の元凶と第二の自分が決めた男の姿はそれっきり消えてなくなる。


 瞬く眼に映し出された現象は、一つの世界を心美の脳に作り出した一方で、社会的な説明は不幸な事故――加害者ドライバーは立て続けの激務の結果、居眠り運転。会社側の不正な労働環境が主な原因――でしかないこともまた事実。不吉な男はその見た目とは裏腹に真っ先に通報を入れた一人であった。

 現実はそれぞれの内面にその数だけ存在する。


「大丈夫です。それはすべて病気のせいです。気に病む必要はありません。誰にだって恐ろしいと思うものはあります。丸川さんにはそれが、他人より少しだけ過剰に反応していただけですから」

 心療内科に通う必要があると自覚する頃には日常生活が極限まで制限されていた。この医師の話ぶりが真だとして、確かに、社会的に死ぬことは免れたが。しかし、気付け薬ほどの効果は認められても所詮それは一側面に過ぎず、本質的な理屈を解体することはできなかった。

「でも、先生」

 カルテに症状を書きつける手を止めて顔を上げる。眼球が爬虫類のような印象を覚えるのは余りに度の強すぎる眼鏡のせいだろうか。

「私は今この瞬間、あなたのその眼球という急所に拳をぶち込むこともできるんです。眼鏡をかけてるのは危険ですよね。レンズは割れて、そのカメレオンみたいな両目を引き裂く。もちろん、私の手だって無傷とは言えない……そういう現実に生きてるんですよ私は。解りますか?」

 どうとでも判断できる医師の表情をじっと見ていた。流石にカメレオンは言い過ぎたと詫びるべきなのか。

 やがて、それっきり黙ってしまった医師からはいくつかの薬を処方される。そんなものより私は言葉が欲しかったというのに。

 数日のうちに、心臓の凍るような震えをそれらサインから受け取ることはある程度緩和していった。それはそうだろう、すべては脳のなかで起きている異変なのだから。セロトニンの量を服薬でコントロールし、不安材料足る神経伝達物質の抑制を可能にすれば、幾ら超自然的な現実を前にしてもコントロールできるのが生物の構造上可能であると理解できる。

 セロトニンの不足。ノルアドレナリンの増加。冷汗、手は震えて、涙があふれる。ああ、恐怖は脳内物質の分泌で起こる心の一作用だろう。そこに絶対的な神は不在!

 レクサプロ、アナフラニール、パキシル、レキソタン、エビリファイ……心美が処方されている薬の数はそう多くはない。実際、正確に自分が処方されている薬の効果をあまり理解していないほどだ……。『セロトニン再取り込み阻害薬』だとか説明されたところで納得するが、内心鼻で笑っている。人間としての存続を可能にしているだけで、やはり本質的には丸川心美という自我を救うことはできないのだ。

 こんな粒をいくら呑み続けても、そこはかとない虚無感を解消することは叶わない。二人目の自分の存在を消すことはできない。心美の精神は他では救えない、あり得べからざる奇跡を。それは逆説的な方法を執る愚考すら可能にしてしまうのではないか。妄想――彼女にとってはいたって現実だ――を植え付けるサインとの付き合いが長すぎた。心美の現実はそれなしでは成り立たないようになっている。

 腕に抱えた書籍の重さを感じながら、いつ終わるか解らない作業を忘却するために空想することで、少しでも時間が経つことを忘れていた。単純な作業に飽いたアルバイトに仕事に対する姿勢を弁えろと社員に、滔々と説かれたところでイエスの一言で流してしまう。心美とて例外なく生活の安定のためのみに働くという動作はそれはそれで過酷なものなのだと、満たされない虚無の中を漂うようである。

 これでもまともな人間と大差ない生活を送れるようになって少しは安堵している面もある。

 仕事は接客、品出し、発注がメインだ。いまは、品出しの最中である。片手に抱えた補充の書籍の山を棚前の平台の商品の上にいったん下ろす。意外と知られていないが、書店業とは重労働である。重さに痺れた腕を少し休ませ、棚を見る。そこは心理学全般を扱った棚だ。左上一台目から右下二台目の棚にかけて――心理学一般、心理読物、臨床心理学、心理療法、カウンセリング、臨床心理士、うつ病、統合失調症、神経症、トラウマ、社会心理、精神分析、フロイトユング、と続く(強迫性障害が欠けているのは、目を背けたい心美の心象である)。

 積み上げた書籍に押しつぶされた平台の方には、基本的に目を惹く新商品が並ぶ中、認知バイアス系の書籍が目につく。ほか、夜と霧、今日の治療薬、神経あるいは脳に関する書籍も散見する。この辺りは担当者の采配で決まる。その書店のカラーを見極めたかったら平台にどんな作品が並んでいるかを見ると解るかもしれない。

 専門知識たっぷりの棚の前に立つと意味もなく自分が利口になったように錯覚するのはどうしてだろう。ひとつひとつ書籍の名前を目にし、頭に刻み込むような単純な行為が心美には心地よく、その中身以上にこれは大切なことのように思える。実のところ、そこまで本が好きという訳でもない。この言いようのない優越感が彼女を仕事に駆り立てるようである。実際彼女はひと月に数冊程度しか本を読まない――ただし、一度限り。それも強く記憶に刻み付ける様に一音一音を脳内で正しく発音し音読する。そういう方法でしか本を読むことができない。

 さて呆けているわけにもいかないので本で埋まった棚を補充しないといけない。つまり、古い本と新しい――データ的に優位と計られた――本とを入れ替える作業だ。これはこれで頭を使う。重労働且つ地頭力が問われる、最低賃金しか支払われないにしては高度な生産性を問われる。とはいえ、そればかりを考えていては仕事にならない。ため息を吐くにはだいぶ長い年月この店に奉仕してきた。不要に感じる書籍を見つけるべく棚に目を走らせる。

 ふと違和感を覚えた。

 整然とした本棚を破壊する気配。目端に留まったそこを見る。『新心理学ライブラリ十三巻』と『シリーズ心理学と仕事十三巻』の二冊だけが、シリーズを外れて心美の背丈と丁度目線が一致する箇所に入れ替えられていた。普段であれば何気ないことの一つだ。こういった、立ち読みした書籍を元の場所に戻せない輩は大勢いる。からして、流れ作業の一環で正しい位置に本を差し直せばことは足りる。しかし、どうにも奇妙――もとより、彼女にとっては忌避する事柄にのみ気が散ってしまった。

 十三という数字に意識が乗っ取られる。二人目の自分は呼ぶ。なあ、心美よ。これってたまたま起こった事なのだろうか? 無論、小さな囁きに過ぎない。薬の効果でその声は本来以上の力を発揮しない。

 左右に首を巡らせる。一呼吸入れる必要がある。儀式的な対症療法によって精神を少しばかり強化する。元ある場所にこの二冊を入れ替えることは容易いはず。それだけに、どうにもこの入れ替えは意図的な行為に思える。だれが何のために?

 考えていても解らないのだから作業を続けるしかない。すると、二冊の本の間から一枚の紙片が零れ落ちた。白い長方形、はがき大の紙片だ。本をシリーズの並びに差し直す――元と入れ替えられていた本のタイトルは頭には入ってこなかった。

 こういう時、特に心美にとってこれは穢れを扱うような行為でもあるのだが、反射的行動を意識して止めることは難しいらしい。仮に、催眠術師を傍に置いて「あなたはいま手で摘まんでいる紙片をポケットの中へしまおうとしている。意識すればその行動をあなたは止めることもできる」とでも無意識の領域を意識させる助言を与えてくれれば回避できただろうか。すくなくとも、第二の自分は沈黙を選択したように思える。

 つまり、彼女はその紙片を手に取ってしまった。

「すみません」

 それと同時に声を掛けられてそのこと自体は気にならない――後にどれほど気にしようとも。〝あのおかっぱ頭のおねえちゃんに聞いてみようか〟と小さな娘に母親は問いかけていた。別に子連れの母親に悪気はないのだろうが、このショートボブを刈り上げた髪型――インナーカラーも入っている――を的確に表現するにはステロタイプな記号で一纏めにするのが手っ取り早いことは理解している。とはいえ、それ自体に不満はないが、わざわざ口に出して言う必要もないだろうとは常々思うところ。笑顔で聞き流せるのは仕事中に限った話だ。

「はい、少々お待ちください」

 およそ愛想のいい声で応対し、心美は心理学関連の棚の前から素早く立ち去る。

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