第13話 おはよう、ベル

 フロコン大司教様曰く、こういうことらしい。


「身体に衝撃を与えることで精神や魂を揺さぶる、という考え方は古くからあり、より高みを目指す修行僧の一派などはそれを追求してきた歴史があります」

「ふむふむ、聞いたことがありますわ。自らの体を鞭打つのもその一環とか」

「よくご存知で。そして、魂は背中、首筋に近い場所から身体へ入っていく、と信じられております」

「ええ、悪霊が入らないよう、衣服は背中を広く開けてはならないと教わりましたわ。古くからの慣習だとお父様から教わりました」

「これらを総合するに、つまりは……早い話が、肩甲骨の間から少し上あたりを思いっきり叩くのです。ただし、当然ながらご令嬢の体は鍛えておりませんから、そんな衝撃を受ければ骨が折れてしまうかもしれない。なので、あくまで緊急時の対処法として覚えていてください」

「……思いっきり、叩く?」

「はい。友人を叩くなど、あなたには荷が重いかもしれませんが」

「いえ……そう、ベルのためです。それなら、必要と信じたときは覚悟を決めますわ!」


 というわけで、私、レティシア・ヴェルグラは——何の罪もない友人の背中を、大きな本の表紙で思いっきり叩いたのだった。


 ところがやりすぎた。忠次inベルは逃げようとして本棚にぶつかって、そのまま気絶してしまったのだ。


 私はそう、犯罪を隠すかのごとく急いでベルの体を背負って、人の目につかないよう寝室に運び、ベッドに寝かせた。華奢なベルの体はとても軽いはずなのに、私一人では短い距離を運ぶのさえ大変だった。私だって武門ヴェルグラ侯爵家の一員、何かあったときのためにもっと鍛えておこう、と決心するくらいには、己が非力だと思い知った。


 それから私は自分の部屋には帰らず、いつ忠次が起きるか、それともベルに入れ替わっているのかをハラハラしながらベッドの横で待っていたのだが、今日は疲れることばかりあったためかいつの間にか寝落ちしていた。






「レティ、おはよう。起こしてごめんなさい、何かあったの?」


 ——ベルの声だ。起きなきゃ。


 ゆっくりと、反射的に私は顔を上げる。


 ——それにしたって、忠次がこんなにベルのフリが上手くなったなんて……ん?


 私は思いっきり瞼を開いた。そうだ、昨日は気絶した忠次をベッドに運んで、起きないかとハラハラしながらずっと横で見ていたら、うっかり寝落ちしてしまったのだ。


 目の前には、ベルの優しい顔と、ふわふわのベッドが広がる。


 私はすぐに分かった、ベルだ、と。忠次ではない、そんな華やぐ香りのような可憐な表情ができるのは、私の友達ベルティーユだ。


 私はつい、尋ねてしまう。


「本当に、ベル?」


 すると、ベルはこくりと小さく頷いた。


「ええ。おはよう、


 そのときの私の顔は、驚きと歓喜に満ち溢れていただろう。


 忠次は私のことを「姐さん」と呼ぶ。ならば、「レティ」と呼んだベルは——体の持ち主、ベルティーユ本人しかいない。


「本当にベル!? 忠次じゃなくて!?」

「ええと、そうよ? でも」

「でも」


 ベルはふんわりと、困った顔をしてみせた。


 ——ああ、私がその顔を見たのは三回目だ。一回目は舞踏会でお目付け役シャペロンとはぐれてしまっていたとき、ベルは壁の花になりかけていて婚約者のエルワンが後で嫌味を言われたとか。二回目は私が庭で大っ嫌いなカエルに遭遇して固まっていたところ、それを知らないベルは私の顔をじっと見て、この困った顔をしていた。


 何を困っているのか、その答えはやはりふんわりとしていた。


「忠次さんったら、すごいことをしたのね……私、何というか、ごめんなさい、まだ上手く受け入れられなくて」


 ——今まで意識のなかったはずのベルが、忠次が自分の体を動かしていたことを知っている?


 それならば、己の体が他人である忠次の意思で行動していたときの記憶が、ベルにはあるということだ。


「もしかして、忠次が乗っ取ってたときの記憶がある?」


 ベルは何とも言えない表情で、首を傾げる。


「お話はできないけれど、忠次さんがいることは分かるわ。出てこないようにって、部屋に鍵をかけて閉じこもっているような、そんな感じ……大丈夫かしら」

「そっか。でも、とりあえずよかった。今日はおじ様が来るから、ベルに応対してほしかったの。その前に」


 私は身を乗り出し、この日まで考えてきた方針と作戦をベルへと伝える。


「ベル、いい? 忠次のことは絶対に内緒よ。おじ様が知れば事が大きくなりすぎるわ」

「そう、かしら?」

「私だって、早く何とかしたほうがいいとは思っているの。でも、いきなり娘に異国の荒くれ者の魂が取り憑きました、なんて言われて気が動転しない親はいないわ。あなたの骨董趣味が災いした、なんて言われるのも嫌でしょう?」

「それは……うん、そうね」


 ベルは頭が悪いわけでも、回転が鈍いわけでもない。少し決断に時間がかかるだけで、人並み以上にしっかりと物事を考えられる娘だ。


 私の言いたいことはしっかりと伝わっているだろう。とにかく、ベルと忠次の二人が無事方法を模索するのだ。二人の未来を、私が守らなければならない。


「だから、もう少しだけうちに留まって、せめてあなたが体の主導権を握れることが確実になってから帰ったほうがいいわ。私も協力するから、ね?」

「レティ……ありがとう。あなたに迷惑をかけてばかりだわ」

「ううん、私こそあのとき、あなたを小瓶に触らせなかったらよかったのに」


 いや、と私は考えを改める。後悔ばかりしていても、どうにもならない。前を向こう、後悔するくらいならその償いをしっかりとすべきだ。それに、今はベルが出てきているが、いつ忠次と入れ替わってもおかしくない。その条件や解決法を大至急探さないと。


 私が決意を新たにしていたところ、ベルはおずおずと恥ずかしそうに大兄様の名前を口にした。


「あと、その……レティ、アレクサンデル様のことは」


 貴族の結婚は、基本的に政略結婚である。高位貴族ともなればなおさらだ。


 ——まずい。緊急事態だった事情があるとはいえ、他人が勝手に婚約者候補を決めて、仲良くさせようとしていたなんて知られたら、まずいなんてものじゃない。たとえ友人であろうとも、両家の家長を無視して恋愛させるなんて「どう責任を取るんだ」と怒られること請け合いだ。


 そうだ、誤魔化そう。私は全力でなあなあにしようとした。


「あ、それは……ああ、えっと、そうそう! 婚約破棄の話も落ち着かせないとね。幸い、大兄様はそういう噂に疎いし、ブランモンターニュ伯爵家の財産を狙ってあなたに婚約を申し込んでくるような輩から守るためにも、大兄様をいい感じに盾にしておきましょう。何も、大兄様と婚約までしなくていいから、うん。私も今そこまで無理強いはしないわ、さすがに」


 私は——自分の口で言っておいて何だが、大兄様がこの話を聞けば、しょんぼりしかねない。いや、事情を話せば「淑女を守るためならば」と納得はしてくれるだろうが、忠次inベルと仲良くなっていただけにここでホイとベルが別の男のところへ行ってしまったら、何ともいたたまれない。


 複雑な心情に頭を捻っていたら、ベルの様子がおかしいことに気付いた。


 ふんわりと、ちょっとだけ嬉しそうだったのだ。


「……うん、そうね。もう少し、様子を見るわ」


 ふふ、とベルは笑う。


 私は思った。ひょっとして、ベル、大兄様に脈がある? だとすれば、とんでもない事態になってしまっている気がする。いや、それどころではない。今はブランモンターニュ伯爵の来訪をやり過ごすことが第一だ。


 私とベルは、まずは朝の身支度をすることにした。難しいことはそれから考えよう。

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