第9話 尋ねて、分析して、絶望しかけて

 王都の中心部にある教会、エテ大寺院と呼ばれるそこは、宗教施設というよりも大学のような厳格さと質実剛健さを備えた建物だった。長年の風雨でベージュになった大理石の建物は五階建てと珍しく、中は様々な言語の教義の訳本を作る翻訳部や出版部、教義全般の研究部、日々の宗教行事を取り仕切る教務部、各地の教会を繋ぐ通信部に信者の生活に直接関わる代行部の各部屋が所狭しと並んでいる。


 一般的には、教会にはステンドグラスや聖人像、礼拝のための祭器がイメージされるものだが、エテ大寺院は本来研究機関に近い役割を持っていたため、教会としての施設はこじんまりと端っこのほうにあるだけだ。基本的に、ここで結婚式や葬式をすることはない。


 だから、普通の人間がエテ大寺院に来るのはあくまでそれら儀式の進行についての相談や神学専攻希望者の申請くらいだ。それは貴族も平民も変わらず、エテ大寺院の門戸はそう固くないことが知られている。


 私は受付を済ませて、指定された四階の貴賓室へとさっさと昇る。貴族だからと案内役はいない、神の前には平等だし、そのくらい自分でやれと神は仰せだ。質素で謙虚であれ、という第一の教義に沿っている。


 それはそれで都合がよかった。誰かに見られて噂されるよりずっとマシだ。


 私は貴賓室の銀色の扉をノックする。


「失礼しますわ、フロコン大司教様。ヴェルグラ侯爵家のレティシアと申します」


 部屋の中から「どうぞ」と優しげな声が聞こえる。私は扉を、思い切って開く。


 貴賓室にしては狭い、円卓と六つの椅子で一杯になるような部屋だった。嵌め込みの窓は採光用で、ランプや蝋燭がなくても十分明るい。


 窓際にいた一人の白髪の老人——古の哲学者のような風貌の、牛皮のサンダルと木綿の白い修道服に紫の小さな帽子を被った男性だ。一介の老僧にしか見えない彼が、教皇の信任厚いフロコン大司教だとはあまり知られていない。というより、業績や権威と、あまりにも温和で地味な容姿が噛み合っておらず、本人も平気で教会外の朝の掃除をやっていたりするものだから教会にいる若い僧侶たちにも大司教だとは思われていないと聞く。


 そのフロコン大司教様は、表情をほとんど変えず、なのに笑いかけてきた。


「ああ、久しぶりですな。オーギュスト次兄殿のご成婚の儀以来ですか、お父上とお母上はお元気ですか?」

「ええ、とっても。今日はお忙しい中、お時間をいただき感謝いたしますわ。何分、急を要する……機微な話なのです」

「ふむ。少々待ってください、人払いをしておきましょう」


 フロコン大司教様は部屋の外に出ると、扉のノブに赤い札をかけて戻ってきた。部外者は近寄るな、という意味だろうか。


 扉をしっかり閉めて席に戻ると、ガラスの水差しから歪な二つのコップに水を注ぎ、フロコン大司教様は私へ好きな席に座るよう促した。


「さて、マドモアゼル・レティシア。ゆっくりでかまいません、ご用件を伺いましょう。何、あなたの真剣な表情を見れば、どれほど差し迫った話題かは嫌でも分かります。ゆえに慌てず、落ち着いて、この老人にも分かるよう話していただけると助かります」


 プランタン王国有数の碩学せきがくは、どうやら聞き上手であるようだった。


 私は——ブランモンターニュ伯爵家で見つけた小瓶と、ベルの異変、忠次の魂がベルに取り憑いた状態であること、それから今日までのことをフロコン大司教様へと話した。私がベルをこんな目に遭わせたこと、そして忠次は決して悪さをしていないこと、むしろベルのために進んでやりたくないであろうことも請け負ってくれていることを付け足す。


 さすがに碩学といえど、他人の魂が肉体に入って意識を乗っ取ってしまった、という事例は珍しいのか、目に好奇心の色を隠せていなかった。私が一通り話し終えて、フロコン大司教様は考えを巡らすように、腕を組んで天井を見上げていた。


「それは……何ともまあ、奇怪な」


 ここまではあくまで情報共有であり、私はここに来た目的をできるだけ丁寧に、間違いのないよう伝える。


「ベルが嘘を吐いたり、演技をしたりはできない娘だと私はよく知っています。それに、取り憑いたという忠次チュウジはベルが知るはずのないことも多く口にしていました。教えてください、異国では、人間の魂を封じるような魔法があるのでしょうか? もしあるなら、何とかベルを元に戻したいのですけれど、その手段があるかどうかも教えてくだされば」


 一息にそこまで言ってから、私は自分が慌てていることに気付き、すっと深呼吸をした。私が慌てたところで、何もいいことはないのだ、と自分に言い聞かせる。歪なコップを手にしたとき、そのコップがあまりにも握る右手にしっくりとくることに驚いて、それから水の冷たさを感じながら、一口飲む。


 私が落ち着くために水を飲み終わるのを待っていたかのように、フロコン大司教様は冷静に、先ほどまで見えていた好奇心を横に置いて、話しはじめた。


「確かに、この世界にはそのような技も存在するのやもしれません」

「でしたら」

「しかし、あまりにも我々はそれを知らない。その小瓶しかり、文字しかり、異国においてその意味があるとは分かっても、それを再現する方法はまったく思い当たらないのです。それでも誤解を恐れずに申し上げるならば……人間の魂を体から引き離すような外法は、今には伝わっていないでしょう」


 ——どういうことだ?


 私はフロコン大司教様の言葉を、頭の中で噛み砕いて理解しようとする。


 ——外法、そんなふうに呼ばれるような悪辣な方法によって、忠次は小瓶に魂を封じられたのか?


 ドクン、と心臓の鼓動が鼓膜に大きく響いた。緊張のせいで、さっき水を飲んだはずなのに口内が渇く。


 ——その方法は、フロコン大司教様でも詳しくは知らないようなこと……ならば、なぜそれによって、今この国で、ベルに忠次の魂が乗り移るようなことが起きた?


 私の頭の中に、無数の疑問が次々と浮かぶ。しかし、そのすべてを最初から最後まで詳らかにするために尋ねていては、時間がかかりすぎる。その必要はない、私は結論を急ぐ。


「つ、つまり……?」

「この国にも、古にそのような秘術があったと聞いたことはあります。しかし、今は伝わっておりません。当然です、他人の魂を好き勝手にできるなど、許されざることです。伝わっているほうがおかしい」

「そ、そうですわね。おとぎ話の悪い魔法使いがやるようなこと、神がお許しになるわけがありませんわ」

「ええ、そのとおり。ただ、それは我々と同じ常識を持つ土地の人間であれば共有できる認識であり、異国……はるか遠い土地でなら、何らかの理由があってその技が今もあるのかもしれません」


 私は思わず、反芻してつぶやいた。


「理由」


 ——一体どんな理由があれば、そんなひどいことをやろうと思うのか?


 ——そんなことをされるほど、忠次が何かをしたというの?


 ——信じたくない。でも、忠次は自分を『悪党』だと言った。私にとっては『紳士』にしか見えないのに、どういうことなのか?


 ——それらを、私は何もかも知るべきなの?


 私は首を振った。恐ろしさに、背筋がブルリと震えてしまう。現実はかくも残酷にあるのだと史書を通して人類の歴史が語ってきたというのに、私は知る覚悟ができていなかった。外法と悪党と異国と、それらは何か残酷な現実から溢れ出たエッセンスだと私は気付いてしまって、ひどいこととは……どのようなものかを、私は知らないほうがいいのではないかと、怖気付いてしまった。


 私は無意識に歪なコップを握る手に、力を込めていた。小娘の非力さで割れるようなものではない、しかし、私は力を緩めた。自分を落ち着かせるために。


「我々は幸運にも、その外法を一切消してしまうことができた。しかし、別の土地ではそれが叶わず、『悪い魔法使い』に対抗するために外法を残しておかなくてはならないかもしれません。相手がどんな手を使うかを知っておかなければ、対抗すらできませんからね——もしくは、本当に我々と常識が違うのか。それは何とも言えません、事情を何も知らないのに一方的に悪と断じることはすべきではない。それが知恵あるもの同士の最低限の礼儀です」


 フロコン大司教様のその言葉は私の想像が飛躍しないようにとの忠告のようだった。同時に、絶望しすぎるな、と励まされているようにも思える。


 外法は、『悪い魔法使い』が使うもの。しかし、『悪い魔法使い』と戦うには外法についても知っておかなくてはならないから、異国では外法が残っていて、何らかの理由で使用されたのかもしれない。


 ——危なかった。異国の知らない人々を、悪だ正義だと断じてしまうところだった。それこそ、事情を知らない私が忠次を『悪党』だと決めつけてしまうところだった。


 私はすう、と息を吸って、心臓を落ち着かせてから話を私の願う目的へと前進させようと試みる。


「ですが、大司教様。ベルをこのままにしておくことはできません。忠次チュウジも同じ意見です、彼も早くベルに体を返して自分は出ていくべきだと言っています。元悪魔祓い師エクソシストとして、何かできることはありませんか?」

「うーむ、とはいえ、悪魔祓いは悪魔を退散させるものであって、そのチュウジとやらが悪魔でないのなら意味をなさないでしょう。悪魔が自分から早く出ていくべきだ、などと言わないでしょうからね」

「あっ……そうですわね、はい」


 フロコン大司教様は、笑っていた。穏やかに、困難を前にしても落ち着けと言わんばかりに、そして私へ実用的なとある手を教えてくださった。


「一つだけ、ひょっとするとこの方法なら上手くいくかもしれません。今回は緊急時ゆえお教えしますが、濫用してはいけません。それと、他言は無用ですよ」

「は、はい。ぜひ、ご教授いただければ!」


 身を乗り出す私へ、フロコン大司教様は——とんでもない手を授けてくださった。それは、やっていいのだろうか。そんなふうに思うが、いや、効果があるのであれば、緊急時は致し方ない?


 何とも私は悩みつつ、フロコン大司教様は「また何かあれば話を聞きましょう。こちらでも極秘で調べておきます」と言って扉の外まで見送ってくださった。別れを告げ、私は教会の外、馬車の停車場にある自分の家の馬車まで、やっぱり悩みつつ歩いていく。


「はあ……どうしましょう」


 悩んでも仕方ない、緊急手段を手に入れたと思おう。私がようやくそう前向きに考えられるようになったころ、教会の出口にほど近い場所で、見覚えのある御者が私の前へと走ってきた。うちの馬車の御者だ。


「お嬢様! 大変です!」

「今度は何!?」


 身構える私へ、御者は息を切らしながら、急報を告げる。


「旦那様より、アレクサンデル様とベルティーユ様が、攫われたと!」


 私の思考は、ほんの一秒にも満たない間だが、その知らせを頭に放り込むために、無意識にも認識の海を彷徨った。


 ————んんん????


 ——大兄様、ベル、あー忠次ね、今はね。


 ——攫われた、と。攫われた……誘拐?


 そこまでしてやっと私は理解した。二人が攫われたという突飛も突飛、わけの分からない事態を前にして出る言葉は、これだけだ。


「はあ!?」


 さっきまで私が悩み、考えていたことは、この際全部吹っ飛んだ。


 一体全体、どういう状況か。それを知るために、私はまず知らせを送ってきた旦那ことヴェルグラ侯爵であるお父様を問い詰めるため、屋敷へ急ぎ戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る