先生の正体

「いいのかなぁ……僕が、亜紀先輩の服を着ても……」


 みづき、凜霞、亜紀はラウンジのソファーに座って休憩をしている。


 そのソファーの後ろにある衝立ての向こう側で、蛍は水浸しになった服を脱ぎ捨てている。

 ジジッ、とジッパーを下ろす音が雨音にまぎれて3人の耳に届く。


「そのままじゃあ風邪引いちまうだろうが。とっとと脱げって」

「うん。そうなんだけど……でも、シャツまで貸してもらっていいの? 本当に」

「問題ねーよ。お前、ブラ外してジャケットをそのまま着る気か。痛えぞ? それともあたいの下着を貸して欲しいのか?」


 亜紀は、上半身は灰色のスポーツブラのみで引き締まった腹部を晒し、下半身はジーンズのズボンを履いている。

 大胆な格好を隠そうともせずにソファーに座って足を組み、スポーツブラの裾をつまんで持ち上げ、指を離してパチンと音を立てる。


「い、いや、それはいくらなんでも! ……シャツのほうでいいです。ありがとう、亜紀先輩」

「おい、蛍。さっきから何であたいを先輩呼ばわりするんだ?」

「え……そ、それはぁ、そのぉ」

「うぜぇから呼び捨てにしろ。いいな」

「わ、わかったよ。亜紀……でいいんだね」

「あったりめーだろうがよ。で、お前はどうしてここにいるんだ? ほい、タオル」


 亜紀はナップザックからタオルを取り出して、そのまま腕を高く上げて後ろに突き出す。


 衝立の向こうからは湿った布が床に落ちる音が何回か聞こえ、その後で亜紀の手からタオルがするりと消えた。

 懐中電灯の光がガラス窓で反射して蛍の頭に当たり、奥の壁に大きく映し出されている。

 少女のような細身の肩と首が、頭を拭く手が、濡れて体にまとわりながらもさらりと流れていく長い髪が、影絵のように。


「君達が僕の部屋を出て行ってから、あることを思いだしたんだよ」

「私達が、ですか」

「うん。それを伝えようと思ったんだけど、電話はつながらないし、突然大雨が降り出すし……行き先はわかってたから」

「何に乗ってここまで来たんだよ。どうやってこの部屋に入った?」

「タクシーだよ。運転手さんに『本当にここで降りてもいいのか』って3回聞かれたよ。でも亜紀の車が停まっていたから、ここで間違いないと思って。それで土砂降りの中を走って、非常階段を見つけて昇ってみたら壊れている窓があったんだ。そこまではよかったんだけど、ねぇ……」

「雷、ですか」

「そう。まさかあんなに近くで落ちるなんて思わなかった。僕、光がどうしても苦手だから……」

「1人でよく頑張ったな。体はしっかり拭けたか?」


 ぱちん、ぱちん、とヘアピンを留め直す音が響く。


 そして蛍が、上半身はジャケットの中から白いシャツが長めにはみ出ていて、下半身はシャツの裾以外には何も覆われていない格好で、衝立の向こうから恥ずかしそうに内股で現れて来る。


「大丈夫かなぁ……見えてない?」

「まあ、しゃがまなければ大丈夫だろ。てかパッと見にはあたいの方がヤベぇだろ。どっちにせよどうせここには女しかいねえ。気にすんな」

「気になるよ! 上からだと隠せてるかどうか、わかんないんだよぉ……相変わらず大胆だなぁ、亜紀せん……亜紀は」


 亜紀のシャツは蛍には大きすぎて、ふとももの付け根までは隠してくれていた。

 だがあまりに頼りないのか、蛍はシャツの裾をつまんでしきりに下へと引っ張っている。


「おいおいシャツが伸びるつーの。伸びたらあとで買って返せよ、いいな」

「え、新しいのを買って返せばいいの? うん。買うよ! 絶対買って新品を返すね」

「おい、何ニヤついてるんだ?」


 伸びたら新品を買えという亜紀の言葉に、むしろ蛍はしきりに裾を引っ張り始める。

 亜紀は蛍のおかしな様子に怪しげな表情を向けつつも、それ以上追求はしないで会話を中断する。

 そして本題であった事務用の机に懐中電灯を定め、蛍に向けないように注意しながら照らし出す。


「準備もできたし、いよいよデスクを見てみますかね。行くぜ?」


 再び部屋の奥、乱雑に放置された机を見て回る。


 机は全部で4台。

 その上には風化した書類が山と積まれている。

 引き出しは開け放たれていて、鍵はかけられていないように見えた。

 引き出しのいくつかを確認してみたが、筆記用具や計算機やメモ帳ばかりで金庫のような物は全く見当たらなかった。


「かー、ハズレかぁ。で、ここまで来て拾ったのは蛍だけ。やっちまったぜ」

「ご、ごめん! 僕、いつも亜紀に迷惑ばかりかけて……」

「亜紀さん、少し言い過ぎなのではないでしょうか」

「……ですよ?」


 3人の視線が亜紀に突き刺さる。亜紀は観念したように目をつぶり、軽い舌打ちをした後に、ボソッと声を絞り出す。


「悪かったよ。あたいの口が悪いのはいつものことだろ? お前のこと、別に嫌いじゃねえから気にすんな」

「……ですが実際のところ、これで振り出しに戻ってしまいました。」


 凜霞は手ぐしで髪を整え、難しい表情を浮かべながらも話題を転換して考察を述べ上げていく。


「こうなると、あの埃だらけの診察室も全部探しなおす必要があるのかもしれません。それとも、あの写真の人物はお医者さんではなかったのでしょうか。技師さんの可能性も考えれば、検査室も確認したほうがいいのかもしれません」

「診察室。あそこは……うん。行く、よ」

「臭いんだよなぁ。ま、そうするしかねぇか」

「ま、待って! 行かないで。ちょっと、僕の話を聞いてよぉ」

「蛍さん、何か気になることがあるのでしょうか?」

「僕がここまで来た理由だよ。そう、とても大事なことなんだ。……写真に写っているのは、どの先生でもないんだよ!」


 蛍の言葉に誰もが沈黙する。

 そして、それぞれが異なる表情を浮かべて声を上げる。


「ぇえ……! 先生じゃ、ないの?」

「なるほど。そういうことですか」

「ん? あたいでもわかるように話してくれ」


 蛍は伏し目がちに記憶をたどりながら、自信がなさそうなよじれた口調で独白を始める。


「産婦人科の先生と小児科の先生が違う人だ、ということは2人に話したよね? そして、外科の院長先生の顔は憶えているし、もう、いない。残りは内科の先生なんだけど……やっぱり違うんだ。僕は昔、ここに通っていたから先生の顔はなんとなく覚えてる。だけど、いくら考えてみても、やっぱり記憶と合わないんだよ」

「つまり、あの写真の人はどの先生でもないのですね。となると技師さんか、あるいは――」

「その他の先生がいた。ってことなんだよ」

「ちょっと待て? あたいは全然わからんが」

「わかりました。では、簡単な質問をします。産婦人科や外科の先生がいるのですから、当然手術は行われていたはずです。ですが、麻酔は一体誰がかけていたのでしょうか?」

「ますいの先生が、いたの?」

「はい。もしかしたら非常勤の先生だったのかもしれませんね。ラウンジには机がなかったので、残る居場所があるとすれば――」

「そうなんだよ。手術室しかないんだよねぇ」

「よっしゃ! そうと決まったらさっさと済まるぜ」

「手術室……ですか? うぅ……い、行きます」

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