ラウンジ

 凜霞がドアノブを手前に引いて、すかさず亜紀が部屋に侵入し、懐中電灯で周囲を照らし出す。

 手前、奥、右、左。いずれにも人の気配はない。


「誰もいねぇよ。みづき、凜霞、入ってこい」


 亜紀はいつでも殴れるように懐中電灯を前に構え、後ろに向けて声を掛ける。

 みづきと凜霞はそろりと部屋に入って扉を閉め、周囲を伺う。

 やはり、動く物の気配はないように見える。


「それでは捜索を始めましょう。とにかく鍵が刺さりそうな物を探す、それだけです」

「大丈夫? 誰もいない、かなぁ」

「いねえとは思う、が? ……なんだこれ」


 亜紀が部屋の奥に向けて一歩を踏み出すが、そこで足を止めてしまう。


「どうし――」

「待て。動くな、喋るな」


 亜紀が腕を横に上げて2人を制する。姿勢を低くして、ライトで床を照らす。

 そして体を正面に向けたまま2人の方を少しだけ振り返り、小声で告げた。


「何か、いる」

「ぇ……りんか、ちゃ」

「大丈夫です、落ち着いてください。静かに、ゆっくり。深呼吸……しましょう」


 みづきは発作的に凜霞の腕に絡みつく。

 凜霞はそんなみづきを抱き締めつつ、亜紀をまねてゆっくりと膝を折って姿勢を下げた。


「すみません。ライトを借りますね」


 あらぬ方向を照らしているみづきの懐中電灯を受け取り、凜霞が床を照らす。


 床には埃が積もっているが、所々で光を薄く反射しているのが見える。

 よく観察すると、反射しているのは透明で薄膜の物資――水であることがわかる。

 だがそれは、雨漏りのように1か所に集中しているわけではなく、等間隔で連なりながら右へ左へと彷徨っている。


 それが水で濡れた足跡であることは疑いようもなかった。


「亜紀さん。廊下にはこのような足跡はなかったと思います」

「ああ。そもそも足跡自体がなかったと思うが……少なくとも濡れた物はなかったはずだ」

「つまり、どこかから侵入した人物が廊下を通らずに、この部屋だけを行き来していることになります」

「どこからだ? 階段は見当たらんが」

「階段の記載はありませんでした。地図上では」

「そうかい……参ったね。これは」

「ええと、何が、どうなっているの……?」

「要は、正体不明の何かが動き回っているってことだ」

「……!」

「ライト、いったん消すぞ」


 瞬く間に視界は闇に堕ちる。


 手を伸ばして触れない限り、皆が一体どこに居るのか。いや、目の前に何があるのかさえもわからない。


 瞬間だけ、遠く輝く閃光が3人を淡く照らし出す以外には、何も。


「ぴゃん!」

「あ、悪い。みづきか? これ」

「何で亜紀さんはおしりばっかり触るんですか……」

「いつもお前はなんでケツを向けてるんだよ。てかホントおもろい声で鳴くのな」

「あ、ぁ、あの。どうして、まだ触ってるんですか?」

「触れてねぇとどこにいるかわかんねーだろ。見えないんだから」

「わかりました。これでいいですか」

「おぅ、凜霞か……まさかお前と手をつなぐ日が来るとは思わんかったわ」

「貴方が触るとみづき先輩がけがれますので、やむを得ません」

「言ってくれるね。じゃ、代わりにお前の手をけがしてもいいのか?」

「……意味のない話はここまでにして、これからどうするかを真面目に考えませんか」

「それはそうだな。凜霞、この部屋の構造は覚えているか? 行き先は事務用の机があった場所だ」

「奥の左側ですね。ですが相手はすでに、こちらの存在を感知しているのではないでしょうか。もし潜伏しているのなら、このまま突き進むのは愚策かと」

「わーってるよ。だが、ここで朝まで我慢比べ、なんてのは御免だ。なぁに、1人くらいならゴツい男でない限りはなんとかなるさ」

「複数、あるいは刃物を所持していた場合はどうするのですか」

「そんなやつがここで徘徊している意味はあるか?」

「それを言うのなら、もし単独であっても動機は不明瞭です」

「それな。なら、こんな何もない場所で人を待ち構えているのはどんな奴だと思う?」

「想定ですか。……それは精神に異常をきたしているのか、そもそも人間ではないかのどちらかだと思います」

「ど、どっちも、やだぁ……」

「その通りです。ですから、帰りましょう。不確定要素には関わらないこと、それが一番安全です」

「おい、ここまで来てそれはねーだろ」

「ですが、万が一のことがあったら怪我程度で済むとは限りません。私の些細ささいなことで――」

「ごめんなさい、行けます。何でもありません。……亜紀さん、お願いします」

「よく言った、偉いぞ。あたいに任せておけ!」


 亜紀は懐中電灯に再び火を灯し、一気に立ち上がる。


 軽く周囲を照らして目を配るが、ソファー、衝立て、ホワイトボード、本棚、どこにも生命の気配はない。


 そして部屋の最奥へと向かう通路に懐中電灯の光を合わせ、一気に走り出す。


 目標地点で急ブレーキして横を向き、事務用机の裏側、入り口からは死角になっていた方向を照らし出す――


 すさまじい悲鳴が、雨音を退け、闇を切り裂く。


 亜紀も、みづきと凜霞も一瞬耳を押さえて立ちすくむ。


 だが、その叫び声には既視感があり、みづきと凜霞は気を取り直して亜紀の元に歩み寄る。

 亜紀が照らし出している物は、顔を手で覆い隠してしゃがみ込んでいる、パーカーのフードを深くかぶった、長い髪をピンで留めまくっている小柄の女性――それは、外見上は蛍に違いなかった。


 みづきが目を見開き、亜紀を見上げて叫び上げる。


「亜紀さん、ライトを消して! 蛍さんは光が苦手なんです。早く!」

「え? は? ……お前。蛍だって、マジ?」


 亜紀は懐中電灯を消してうずくまっている女性に近づき、パーカーのフードを脱がせて顔を覆っている手をゆっくり引き剥がした。


「……蛍じゃねぇか。あたいだ、亜紀だよ。聞け!」


 焦点が合わず意識がどこにあるのかわからない状態の蛍に、亜紀は顔を近づけて呼びかける。

 そのまま時折声をかけつつ様子を見ていると、蛍の定まらなかった焦点が徐々に亜紀へと集まっていく。

 そして、


「ああ、亜紀ちゃんだ。久しぶりだね」


 と僅かな微笑みを向けた。

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