探索
雨。
水滴が降っていると言うより、水そのものが地面に叩きつけてられているような光景。
地面は沼と化して土気色の水面を作り、遠くの林を逆さまに映し出している。
突風が襲いかかり、一瞬で水が吹き飛ばされて地面が露出して、また次の瞬間には沼に戻る。それを何度も繰り返している。
上を見てもシャワーのような水流で視界が遮られ、雲がどの程度立ちこめているのかさえわからない。
廃病院はまさしく要塞のような堅牢さで、叩きつける風雨程度では微動だにもしない。
しかしガラス窓のヒビや割れは放置されていて、雨は少しずつ枯れた軀体に侵入している。
さらに、雨の日の臭気、腐りかけた粘液がずるりと這い込むような嫌な匂いが建物の空いている所から音もなく滑り込んでいく。
1階に特に大きく割れ欠けた窓があり、その周囲には泥にまみれた複数の足跡が残されている。
そしてその窓の奥、廃墟の中の暗く冷たいコンクリートの上で、3人が床に座り込んでいた。
みづきが、誰にかけるでもなくため息のような声を漏らす。
「間に合ったような、間に合っていないような、でした。ね」
「んー、まぁ。ずぶ濡れにならんかっただけマシか」
「傘を持ってくるべきでしたね。考えてもみませんでした」
「傘っていうか、雨合羽が必要だったな。土砂降りだ、なんていう予報、一言も聞いてねー。考えが甘かったわ」
凜霞は濡れそぼった長い黒髪をタオルで拭いながら、みづきを横目でじっと観察している。
みづきは顔を下げて、腕を上げて髪のリボンを解いて、それを口でくわえながら濡れた髪をタオルで丁寧に拭きとる。
不満気な表情で頬を膨らませ、ショルダーバッグからコンパクトなブラシを取り出して何度も髪をとかし直す。
そして顔を上げたところで凜霞の視線に気がついた。
「あれ。凜霞ちゃん、見てた?」
「あ、はい。何か気になるのですか」
「あのね。私、髪の毛が細いから、中途半端に濡れてるとぐちゃぐちゃになるの。凜霞ちゃんは……濡れてもまっすぐだね。いいなぁ」
「私は髪が太いので乱れることはないのですが……短く切ると膨らんでしまい、まとまらなくなります」
「そうなんだ! だから長く伸ばしてるんだ」
みづきがクスリと笑いながら髪をリボンで左右に留めなおし、手鏡で髪型とコンタクトレンズの具合を確認する。
そして両手首に愛用のコロンを一拭きして、鼻に近づけて香りを確認する。
それに満足したのか表情を少し緩ませて全ての道具をバッグに戻し、立ち上がる。
水色のプリーツスカートをぱんぱんと手で整えて、凜霞の前に来てくるりと一回転する。
「凜霞ちゃん。私、変なところ、ない?」
「大丈夫です。綺麗ですよ、みづき先輩」
「そんなことないよぉ、綺麗なのは凜霞ちゃんの方だから」
とみづきは口では言いつつも、表情からは嬉しさを隠せないでいる。
「準備、おっけーです」
「私も行けます」
「だりぃけど、まだ日があるうちにできるだけ動かんとな」
3人は改めて周囲を確認する。
ここはとても長い空間であり、1方の壁には窓が一列に配されていて、その下にはひび割れた長椅子と干からびた観葉植物が残されたままになっている。
そしてその反対側の壁にはピンク色の引き戸の扉が5枚均等に配置されている。
真後ろは今まで座り込んで寄りかかっていた壁であり、行き止まりになっている。
前方は5枚並んだ引き戸の奥で横に折れて、通路は先に続いているようだ。
ここが通路の端部であることは疑いようもなかった。
「あの……」
みづきが滝のように窓を滴る雨を見つめながらつぶやく。
「ん、何か言った?」
「あのですね!」
ざんざんと降る雨の音、時折叩きつける風の音で、小さな声はかき消されてしまう。
みづきは亜紀の耳元に寄って声を張り上げる。
「屋上は、難しいんじゃないかなって」
「だな、それは後回しにしよう。で、何を調べるのがいいかね」
「私はまず、診察室を調べてみるといいと思います」
「診察室ってどこだよ」
「ここです」
凜霞が引き戸の扉を指さす。
「扉の上に番号が書いてあります。患者さんはこの長椅子で待機して、天井のスピーカーから放送で呼び出されていたはずです。もしかしたら処置室や採血室の可能性もありますが、部屋の中を見ればわかります」
「凜霞ちゃん、わかるの?」
「病院のことであれば」
「ずっと入院していたというのは伊達じゃあないな。じゃあこの辺から当たっていくか……おっしゃ!」
亜紀が一番近い扉に手をかけ、引き戸を勢いよくスライドする。
しかし扉の向こうはぼんやりと暗く沈み、何があるのか見当もつかない。
「何も見えません。誰か懐中電灯は持っていますか?」
「あ、私が持ってた……付けます」
みづきはバッグから懐中電灯を取り出す。
みづきには大きすぎて電源ボタンも固いようで、両手で力を込めてどうにかスイッチをスライドする……と、黄色みがかかった光が拡散した。
続いて亜紀がもう一つの懐中電灯を点灯して、前方に2重の光円が出現する。
その部屋には簡素な机や背もたれのない丸椅子、そして本棚やパイプベッドがあり、奇妙に配置されていた。
巨人が手遊びに部屋ごと引っかき回したかのような。
わずかに酸っぱさと苦さを混ぜたような、腐敗とは異なる乾いた臭いが部屋から溢れ出す。
「なにこれ。この臭い、イヤぁ」
「何がどうなるとこうなるんだよ……気持ち悪ぃな」
ケホ、ケホン。
凜霞が咳をして止まらなくなり、ハンカチを口に当てながらじりじりと部屋の外まで引き下がる。
凜霞は喉を詰まらせながら弱々しい声を上げた。
「ここ、カビの臭いがひどくて。駄目そうです」
「こういう所はあたいらに任せとけ。みづきは大丈夫か?」
「うん。私、部屋でジュースをこぼしちゃったりするから。耐性、あるかも?」
「おまえそれ……部屋ごと腐ってね?」
「腐ってないです! 全然臭くないですよ」
「お前の鼻が麻痺してるだけで、臭い出まくってるんじゃねぇか?」
「お母さんにもお友達にも何も言われてないですから! まったく、もぅ。亜紀さん、ちゃんと探してますか?」
「おぉ怖ぇ怖え。了解、真面目にやるよ……ただ、あたいは何を探せばいいんだ?」
「鍵がかかっている物です。棚やロッカーかもしれないし、小さな箱かもしれません」
部屋の外から、豪雨に紛れて凜霞のかすれた声が聞こえた。
「箱、ねぇ。そいつはちっと面倒くせえな、くさいだけに」
「ぶっぶー、つまんないです。0てん」
「うわ、ひでぇ」
「亜紀さん、真面目に探して下さーい」
「わかってるよ……だがこんなつまらんもんは、くだらないこと言ってねーとやってらんねえんだよ。おい、みづき。そこまで言うならお前が何かうまいこと言ってみろよ」
「え。わ、私ですか。うーん……と。軽いイルカ、クラゲが下落、ナマコの
「く、つまんな……てか、なまこのまなこって、めっちゃ言いづらいじゃん。みづき、それ10回言って」
「モチロンですよ。なまこのまなこなまこのまなこなみゃこにょにゃ……はい、言えました」
「全然言えてねぇわ!」
「早口言葉は苦手なんですよぉ、なら亜紀さんも……ひゃう!」
背中合わせで戸棚を捜索していた2人が衝突し、みづきが珍妙な叫び声を上げる。
「わりぃ、うっかり肘で小突いちまったわ。しかし面白い声を出すねぇ、みづきは」
「そ、れ、は! おしりを突っつかれたら、声も出ますよ。この人、変態でーす。お巡りさん、ここにヘンタイさんがいますー」
「はぁ? ……いくら呼んでも、こんな山奥に警察は来ねえんだよ」
亜紀の口調が低めのものに変わる。
亜紀の口元に笑みは残ってはいるものの、無表情でみづきを見下ろし、少しずつにじり寄る様は今までの様子とは明らかに異なる。
みづきは異変を感じ、亜紀を見上げながら半笑いの表情で後ずさる。
「ほら、逃げ道はねーぞ。覚悟を決めな」
「亜紀さん。えと……えと、どうしたんですか。ちょっと、怖い、ですよ?」
「さて、どうしたんだろうね。お前はどう思う?」
「あぅ、その……いじめ? る? の?」
「はぁ? お前をいじめてもなぁ」
「……わかんない」
「逆に聞くが、お前は何であたいを誘い込んでいるんだ?」
「え? え? 誘い込み……あっ」
みづきは足が何かにぶつかってバランスを崩し、ぴぃ、と小鳥のような悲鳴を上げながら後ろに倒れ込む。
その衝撃は下に敷いてあるクッションのようなものに受け止められて、それほど痛くはない。
みづきは少しだけ痛む後頭部を手で押さえる。
頭を少し上げて、体の下に敷かれている弾力のあるものを見返してみると、……それは乱れた毛布とマットレスが乗せられたパイプベッドだった。
何かを察したみづきの顔がみるみる紅潮していく。
「え……! こ、こ、これは違いますよ!」
「何が違うんだ? 言ってみろよ」
みづきは慌てて起き上がろうとするが、すかさず亜紀が足の間に体を割り込ませてくる。
みづきは上に逃げようとして這いずるが、亜紀がみづきを覆うように体を前に倒し、片肘を肩の上に思い切り付き降ろして身動きを封じる。
亜紀の顔からは笑みも消え、冷淡な表情でみづきを至近距離から見据える。
みづきはせめての抵抗で顔を反らそうとするが、亜紀は空いた手で顎を捉え正面に引き戻し、それさえも許さない。
「あの、みづきちゃんはこんなお遊びはしたことない、ので」
「どんな遊びならしたことあるんだよ」
「えと……くすぐりっこ」
「うわ、つまんな。あたいが『オトナのお遊び』ってやつを教えてやるよ」
「大人にはなりたい、です、けど……も! ちょっと、やだ……待っ……あ」
「ん? どこ向いて」
みづきが突然、目線を横へ向ける。亜紀もつられて同じ方向――開いた扉の方へと目を向ける。
扉の外から入り込む薄明かりの中に、黒い少女のシルエットがある。
その双眸は蒼く輝き、完全に亜紀の動きを捉えていて、それは野生の動物が見せる人間への殺意そのものに見えた。
亜紀は乾いた笑いを上げる。しかし、そのシルエットは微動だにもせず、その目はまばたきさえしていない。
――その手には、タオルを巻きつけた鋭いガラス片が握りしめられていた。
亜紀は両手を挙げて降参のポーズを取る。取らざるを得なかった。
「あ、あれはマジっすね……冗談、いや何でもないです、スミマセン。ほら、みづき。仕事を真面目にやれってば」
「は、はい。ごめんなさい……え? 私は真面目ですけど。どうして……」
その後、部屋と格闘すること約20分。
喉を痛めて時間とやる気を浪費しただけで、何も成果は得られなかった。
他の診察室も似たような状況の上に、冊子まで床に散乱していて、部屋を見るだけで足を踏み込む気力も出ずに、扉を閉じるだけだった。
「これさぁ、いくらここを探しても駄目じゃねえの? 何より臭いがキツいわ」
「喉がちょっとだけ、痛いです。うーん、他に先生のいる部屋って、ないんですか?」
「……ラウンジが、あるかもしれません」
「らうんじ? 何ですか、それ」
「私の病院には、先生たち専用の待機室や休憩室があります。その名前がラウンジでした」
「ラウンジねぇ。ま、何にしてもここよりはマシか。そっちを探してみようぜ」
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