第5章 要塞へと
戦略会議
「で、どうだったん」
太陽は傾いて、暑いけれども強烈な日差しは失われつつある。
2人は亜紀と再び合流して軽自動車に乗せてもらい、ペンションの部屋まで連れ返してもらっている。
今日もまた、亜紀がお茶とお菓子を携えて部屋へと訪れてきていた。
「この写真に映っている2名の人物については全く情報がなく、この鍵が最後の手がかりになりそうでした」
「なるほどね」
「あと、病院に関する噂があります。真夜中になると、内科病棟に白いワンピースの女性が現れるらしい、という話です。その他にも怪談めいた話がいくつかありました」
「白いワンピースの女性……か。年齢とか、わかるか」
「いいえ。不特定の人物が掲示板に書き込んだ内容ということで、詳しくはわかりませんでした」
手際よくお茶を配る手を止めて、亜紀が片方の手を頬に添えて考え込んでいる。
そんな亜紀に変わって涼香が配膳を行いながら、少し待ってから亜紀に問いかける。
「ところで亜紀さん、蛍さんについて何か思い出すことはありませんか」
「え、あいつ? うーん、そうだなぁ……。あいつとは幼稚園の時からの腐れ縁でな。昔は仲良かったんよ。確か、公園であたいがいつまでも砂を掘っていて、蛍が『もう帰ろう、怒られちゃうよ!』とかショボいこと言ってきたけどガン無視してたら夜になって、結局2人で親に殴られたりとかな」
「それは亜紀さんが相当に悪いような気がしますが」
「そうか? あいつも楽しそうだったぜ? だったような気がするんだが……。で、友達だと思っていたんだけど、中学くらいからあんま近づいてこなくなったんよ。気にさわることをした記憶もないし、ついてこないというだけで近くにはいるし。情報の授業でパソコンをいじるとき、マジわかんねーってなったときにはすぐ来て協力してくれたんだよね。でも目は合わさないし、近寄ると逃げていくんだよ。なんでだと思う?」
「近くにいるのに目を合わせない……心当たりは、ありますね」
「私のこと?」
「本人の前で言うのは気が引けるのですが、その通りです」
「ねぇ、凜霞ちゃん」
凜霞が振り向くと、みづきがじっと凜霞の目を覗き込んでいる。
凜霞が顔を傾けて目を反らすと、みづきが頬を両手で押さえて無理矢理に正面に戻してくる。
凜霞が視線を逃がすと、顔を引き寄せて目の前に近づける。
頬がぷくっとふくらんだみづきの顔が凜霞の視界いっぱいに映っている。
「みづき先輩、あの、私、困ります」
「みづきも困っています」
「いえ、その、目を合わせたくない、というわけではないのです」
「どうして? みづき、何かいけないことしてる? 教えて、何でも直すよ」
「あ、そうではなくて……むしろ私の方が……。ああ、どういえばいいのでしょう」
みづきに至近距離から瞳を覗き込まれてしまい、凜霞はめずらしく困った表情で支離滅裂な返答をしている。
そんな涼香に見かねたのか、亜紀が、パン、と手を打ち鳴らして2人の注目を集める。
「おー、何となくわかったわ! センキュー。ところで、蛍はあたいのことを何か言ってなかったか?」
みづきが音に驚いて、体を反らせながら手を離してしまう。
解放された凜霞はみづきに引っ張られていた体を起こして表情を立て直し、手ぐしで乱れかけた髪を整えながら亜紀の方を振り返る。
「それについては、私からは申し上げられません。知りたいのであれば本人へとご確認下さい」
「そりゃあそうだよな。んー、どうすっかなぁ」
亜紀が決まり悪い表情で、肘を高く上げて頭をガリガリと掻いている。
「亜紀さんにしては珍しく悩まれていますね」
「やっぱ、そう見える? 実はなぁ、あいつとは高校からずっと話をしてないんよ」
「高校となると2、3年どころではないですね」
「実はあいつ、学校に突然来なくなってな……そのまま中退してるんよ」
「会いに行ったりはしなかったのですか」
亜紀は片手を腰に当てたままもう片方の頭を掻いていた手を止めて、そのままゆっくりと下げて顔を覆う。いつもの芯が感じられない少し弱めの口調でぼやく。
「あいたた……それなんだよなぁ。今考えりゃあそうすりゃよかったとは思うんだが、あんときはあたいも色々あってね。それ所じゃなかったんだ」
「私には過去に何があったのか、わかりません。けれども本人にまだ連絡が取れる以上、やはり今からでも蛍さんに確認すべきなのではないでしょうか」
「まぁ、な。……わかった、その件はあとで何とかする。で、病院の件はどうする? お前達は明日が最終日なんだろ? 行くなら今日しかねぇと思うんだが」
「はい、その通りなのです。本当に申し訳ないのですが、できれば今日中に連れて行ってはもらえないでしょうか」
「おぅよ、あたいは午後はフリーだから、夕飯を早めに済ませて今から行くぜ」
「みづき先輩は、どうしますか。無理に行かなくても――」
「ううん、行く! 行くの。私も連れて行って、ね」
みづきは不安そうな表情で凜霞の服の袖をつまみながら、ただ頷いて覚悟の意を示した。
亜紀がおやつを下げて、キッチンワゴンに夕食を乗せて戻ってくる。
おひつにご飯、大きいお椀に一杯の肉じゃが、そして三つ葉と椎茸のすまし汁。
多少音が出るのも構わずに、亜紀がスピード重視でトントンと配膳を済ませていく。
「そうと決まれば、まだ日があるうちにできるだけ動きたい。行儀も何も気にしないでいいから食ってとっとと行くぜ!」
「いただきます!」
すぐに挨拶を済ませて各自料理を口にしていく。
「この肉じゃが、塩分が控えめなのに味がよく染みていて、柔らかくて美味しいですね。病院で出てくるものとは全然違います」
「そうか、そりゃよかったな」
亜紀が視線を合わせずにぶっきらぼうに答える。その不自然さにピンときたのか、凜霞が更に問いを重ねる。
「もしかして、これは亜紀さんに作って頂いたものでしょうか。なんとなくですが、朝のお味噌汁に似た感じがします」
「よくわかったな……そうだよ、あたいが作ったよ。レパートリーが少ないからこんくらいしか出来ねぇの。悪かったな」
「いいえ、むしろお料理から、私に楽しく食事をして欲しいっていう想いを感じます。とても美味しいです」
凜霞が深々と頭を下げると、亜紀はそれを遮るように手の平を凜霞に向けて腕を伸ばす。
「あぁもぅ、言うな! だからあたいが食いたいもんを作っただけだって。頭を下げる暇があったら黙って食え」
「はい、わかりました。それでは改めて、頂きます」
そうして手早く夕食を済ませたあとで、亜紀は再びキッチンカートに食器を載せて廊下の先に消えていき、しばらく経ってパンパンに道具が詰まったナップザックを背負って戻ってきた。
「さて、行くか。とりあえず家にあるものをかき集めてきた。タオル、水筒、懐中電灯2個。それと軍手、スナック類に飴玉、あとは簡単な救急セットだな。まさか金づちやノコギリまではいらんだろ」
「そうですね。何が起きるのか想像もつきませんが、物を破壊してまで無理矢理に侵入したいわけではないですから」
3人は再び車に乗り込み、亜紀はハンドルをさばいて海と逆方向の、山の奥へと車を導いていく。
人気のない、茂みの多いうねった山道を走ること20分程度、亜紀が車を減速させて空いた路肩に停める。
「ここだよ」
「何にもない、ですけど?」
「そうだな。その林の奥が病院だったんだ。今では見る影もないが、な」
停まった場所はかろうじて車が3台は停められる程度の雑草にまみれた狭い空間で、周囲は木や蔓に阻まれていて道路から外れて奥に進む道は見当たらない。
3人は車を降りて、改めて周囲を見渡してみる。
木々の上からは人工的な角張った建造物が頭を覗かせていて、そこに何かがあるのはわかるが全容は伺いしれない。
そして眼の前には人間や獣がなんとか通れる程度の道、というか草の切れ目がある。
それ以外には行ける道が見当たらない。
3人は立ちつくしながら林の中の暗がりを見つめる。
「あんまり行きたくないです……」
「ああ。だが、他に道がねえし、日暮れまでには時間がないんだよ」
「気乗りはしませんが、行くしかないようですね」
亜紀、凜霞、みづきの順番で雑木林の中に侵入する。
空は枝葉で塞がれて薄暗く、土や草の湿った匂いが夏の暑さとともに充満している。
雑草が足に絡みついてわずらわしい上に、水滴のついた無数に編み込まれた細い糸――蜘蛛の巣と、その中で獲物を待ち受けている主のほうが、よほど気味が悪い。
唯一、毒を持つような動物や羽虫は見かけないことが幸いだった。
亜紀が落ちていた木の枝を拾って蜘蛛の糸を切り裂き、その中に住んでいる主が枝を伝って手に取り付く前に、遠くに放り投げる事を繰り返している。
「ヤベぇなこいつら。うっざ」
「何かいるの⁉ 私、虫は……」
「おぅ任せろ。ガキの頃から草の中這いずり回ってるのは伊達じゃねーぞ。ただ数が多すぎて面倒くせぇな、これは」
「変わりましょうか。虫は平気だと思います」
「凜霞は心臓が悪いんだろ、いいから黙ってついてこい。いいか、何かあってもここで助けは誰も来ねえんだぞ。わかってるのか?」
「そうですね……本来、私が来れるような場所ではありませんでした。本当に申し訳ありません」
「いや、あたいが言い過ぎた。わりぃ」
少し強めに状況を諭した亜紀は、明らかに気落ちして苦悩の反応を示す凜霞――そういえば、人生に追い詰められて海に還ろうとしていた事実を思い出し、慌てて謝罪を込めた声色で返答を返す。
曲がりくねった狭い道を、蜘蛛の巣を排除しながら進む。
じりじりとではあったが距離的にはそう長くもなく、地面が土からアスファルトに変わったかと思えば林が途切れ、唐突に何もない空間へと抜ける。
その空間は地平線まで見えようかと見紛うくらいに広大で、半分くらいが駐車場、残りはコンクリートの壁で周囲を固められた重厚な砦――廃病院で占められていた。
すでに太陽はどこかへと消え失せて、周囲は薄闇に包まれている。
凜霞は額の汗をハンカチで拭い、水筒の水を口に含み、周囲を見回してみる。
その蒼い瞳に映るものは、薄闇に沈む要塞のような廃墟。鬱蒼とした木々。薄灰色の空。
一見、廃墟であること以外には何も問題はない。
しかし凜霞は胸の中にざわめきを感じ、それは一向に収まらなかった。
この胸騒ぎ……警告は一体、何なのでしょうか? もしかして何かがいるのでしょうか。
いいえ。
見える範囲では何も、生命の気配は……ありません、全く。
……全く?
それは、おかしいような気がします。人はおろか、獣や鳥の気配さえ感じられないのは。
凜霞はため息をつきながら、再び汗を拭う。
……暑いです。
それだけならいいのですが、じめじめとした湿気が体中にまとわりつく感触が……そして真下から熱を持った光で体を照らし出されるような、嫌な感触があります。
ゆっくりとしゃがみ込み、黒いアスファルトに指先で触れてみる。
熱い! ああ、太陽に照らされて熱を持ったのですね。これでは、私達は熱したフライパンの上に乗せられた魚と同じ。早くどこかへ移動したいのですが、汗が……。
水を補給しなければ。
亜紀さんの言うとおり、ここで倒れたら迷惑がかかると言う問題では済まされないし、何よりも、みづき先輩との約束――生きる事を諦めない、ということは何としても果たさなければいけません。
けれど、水を飲み過ぎても近くにお手洗いはありませんし……困りました。
再び立ち上がり、周囲を見回してみる。鬱蒼とした林はすでに薄暗く、そして鳥も虫も鳴くことなく静寂を保っている。
もしこんな場所が賑やかならそれはそれで異常なのですが、だからと言ってここまで何の気配もないと……むしろ何処かに人が潜んで待ち構えているような気がしてしまいます。そんなことはあり得ないのはわかっているのですが。
いずれにせよ、こんな無人の土地を女性3人だけで訪れていいはずはありません。恐ろしいのは、虫や獣のようなものだとは限らないのですから。
「お前ら、疲れてないか? 大丈夫なら、早めに行くぜ……凜霞、どうした?」
「ああ、すみません。問題はありません……何も」
亜紀が静けさを払うように皆に声をかける。
立っている所は、白線が規則的に描かれているアスファルト――駐車場だ。
その白線はすでに掠れて黒い地面にはヒビや裂け目が入り、その隙間からは雑草やねじれた細い木が芽生えている。
人の手が入らずに崩壊しかけているというだけで、目立った物は何もない。
恐らく、ここでいくら時間をかけても何も新しい発見はできないように見える。
3人は特に申し合わせることもなく、かつて無数の患者を救っていたであろう巨大な建造物に視線を向けて、共に歩き出した。
駐車場から廃病院へは、人の背よりも高い塀で行く手を阻まれていて、その塀の1か所に、大型車でも通れるくらいの巨大な門がある。
3人はその門を通って塀を越え、正面を仰ぎ見る。
その巨大な建造物は、遠方からは万人の侵入を阻む新造の要塞のように見えていた。
だがここまで近寄って観察すると、壁は色が褪せて所々に亀裂が入り、表面に隙間なく敷き詰められていたタイルは所々が剥がれ落ちて地面に堆積していた。
この数年間誰の手も入っていないことは明らかだった。
3人は初めての光景にそれぞれの反応を見せる。
亜紀はタオルで汗を拭きながら渋い表情で周囲を見回している。
凜霞は呼吸さえ抑えて慎重に聞き耳を立てていて、みづきは興味津々で廃墟を見上げている。
みづきはガラスの自動ドアにぴょんと跳ねるように近づいて目の前に立ち、両手と顔を密着させて中を覗き込む。
だが明かりがなくて、奥に非常に大きい空間があるという以外には何もわからない。
亜紀は廃墟の外にある庭を観察する。
しかし、元々植え込まれていた植物と後から生えてきた雑木が入り込んで迷路のような様相を示していて、調べ始めることさえ難しい。
みづきがくるりと振り向いて亜紀の元に戻り、庭の方を向きながら亜紀へと話しかける。
「亜紀さん。写真で撮られてた場所って、たぶん庭だよね?」
「多分な。ただ、写真の場所がどこだか全然わかんねぇんだよな」
凜霞が聴覚からは何も問題がないと判断したのか、落ち着いた表情で会話に加わってくる。
「上から見下ろせれるのなら、違ったものが見えてくるのかもしれません」
「やっぱり凜霞ちゃんは頭がいいんだぁ……」
「上……屋上か。あんまり行きたくねぇな。だが、このまま下から探すのは無理だよなぁ」
手を取り合っていちゃついているように見えるみづきと凜霞のことは考えないで、亜紀は廃病院を見上げる。
ここからは、夕暮れ色で塗りつぶされたヒビだらけの病院と、弱々しい光を放つ灰色の空。それしか見当たらない。
仕方ねぇ、登れるところを探してみるか、と言いかけたその時、同じく空を見上げているみづきがポツリと呟いた。
「ん、残念」
「何がだよ」
「夕焼けを見たかったのにな。凜霞ちゃんと一緒に」
「そういえば、昨日は綺麗な夕焼けでしたね」
「うん。だから今日も一緒に見たいなぁ、って思ったの」
みづきが凜霞の腕に絡まりながらため息をつき、凜霞がみづきの頭をあやすように撫でている。
亜紀がその様子を見守りながら、苦笑いで語りかける。
「おーい、お前ら仲がいいのは全然構わないんだが、時間が……あ?」
「亜紀さん、どうしましたか」
「夕焼け、だと?」
亜紀は空を振り返る。
確かに、昨日の天は紅い夕焼けと蒼い星空で半分ずつに分けられて、水晶玉を覗き込んだかのような光景だったのを憶えている。
けれど、今日は……灰色の雲で塗りつぶされている。そして山の間際に目を向けると、雲がより低く、どす黒く、うねり、沈んでいた。
亜紀が振り返り、庭の先を指さしながら2人に号令をかける。
「みづき! 凜霞! 手分けして建物の中に入れそうな場所を探せ、大至急で。いいな!」
「わ、わかりました‼ でも、一体どうしたんですか」
「雨が、来る」
「本当ですか。ですが……私は急ぐことは出来ません」
「……だったな。お前はみづきの後を追ってサポートしろ。あたいは反対側を探す。行け!」
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