ブローチとぬいぐるみ

 ペンションの駐車場には黄色くて錆が浮きかけたコンパクトカーが停められている。

 それは複雑に加工はされているけれども、今はただの冷え切った金属の塊でしかない。


 亜紀が運転席にドスンと座って鍵を差込み、エンジンをスタートすると、イグニッションコイルに通電してスパークプラグに火花が走る。

 キュキュキュ、とエンジンが甲高いノイズを上げた後でブルン、と振動を起こし、金属の塊に火が灯り、命が再び宿り、蘇る。

 亜紀はラジオのボタンを押し込んで、適当につながったチャンネルのポップなメロディを口ずさみ、のんびりと窓の外の風景を眺める。


 突き抜けるような青空、手を入れようがないくらいに深く茂った雑木林。


 見慣れた黄色いペンションからはセーラー服を着た小さな女の子が駆け出して、その後からは黒髪、黒いワンピースの少女がゆっくりと歩いて後を追う。

 そしてみづきは亜紀が乗っている車の周りをぐるぐると走り回り、凜霞が追い付いたところで2人同時に後部座席に乗り込んできた。


 亜紀は2人が乗り込んだことを確認してから陽気に声をかける。


「全員シートベルト締めたな? 行っくぜぃ!」


 亜紀がシフトレバーをねじ込みながらクラッチとアクセルと絶妙なバランスで踏み込むと、車はするりと加速して山道を駆け降りて行く。

 直線で加速。カーブ直前にブレーキを踏みながらハンドルを切り、滑るようにターンして再加速。

 それは走り尽くしてルートを完全に把握しているドライビング。


 車は2人が倒れていた海岸を駆け抜けて、クラゲとナマコの水族館を通りすぎ、左右が崖にはさまれた狭い切り通しを超えると急に住宅地が広がって、その先には2人電車から降りたときの駅前商店街とは異なるもう一つの街があった。


「ほいじゃ、あたいは仕事があるから、何かあったら電話しろ。じゃ、また後で」


 二人を降ろした後で、亜紀はそう言い残して颯爽と車で走り去っていった。


 


「メモにはなんて書いてありますか」

「んとね、11時に喫茶店で待ち合わせ、だって。今9時半だから、まだ早すぎるかも?」

「そうですね。時間が余っていますが、どうしましょうか」

「もちろん! お店を見て回るのです」

「お店ですか。私、お金はあまりないのです」

「それは大丈夫。見るだけでも絶対楽しいです。私と『おデート』しましょう!」

「デート……あのデートですか? あの、私は一応女性なのですが……それはつまり、どういう」

「あ、違うの! 普通、恋人とお出かけするのを『デート』って言うよね? でも私のお友達の間では、仲のいいお友達と二人きりで遊ぶのを『おデート』って言ってて、それで……ええと、わかる?」


 みづきは顔を真っ赤にして両手を開き左右に振って、必死に訂正する。説明をし終わった後で、その両手を自らの顔に当てる。


「うわ、顔あっつい……ごめん、ね? これ、私のお友達の間だけで流行ってる『秘密のお遊び』なんだって」


 顔に当てた手指の隙間から、みづきは凜霞を上目遣いでちらりと覗き見ていた。


「一応お伺いしておきますが、そのお友達は女子だけなんですよね」

「もちろんだよぉ! 男子には絶対秘密なのが掟なの」

「それなら、はい、理解はできました。大まかに、ですが」

「じゃ、私と『おデート』して、くれますか?」

「よろしくお願いします」

「やったぁ! カップル成立だぁ。嬉しい! ありがと」


 みづきが両手を胸の高さに寄せて、ぴょんと小躍りし、そして凜霞の腕にするりと手を伸ばして腕を組んで、体を密着させる。

 みづきの子供らしい言動に似つかわしくない大胆な行為に凜霞が動揺し、切れ長の目を少しだけ見開いて、思いが口から漏れていく。


「みづき先輩、随分と慣れているようですね。驚きました」

「あ、私また……あの、ね? 『おデート』って、恋人ごっこみたいな『お遊び』なの。だから、腕を組んだり、手をつないだりもするんだよ」

「そ……んなものなのですか」

「うん。それでね? この前、みんなで腕を組んで歩っていたら、知らないおじさんに、邪魔だって怒られちゃって」

「皆って、何人ですか」

「その……8人。横一列で」

「それは邪魔そうですね、確かに。というか、普通、恋人同士は8人で繋がったりしないのではないでしょうか」

「でも、楽しかったよ?」


 みづきが反省の微塵もない悪戯っぽい表情で凜霞に笑顔を投げかけている。

 その笑みに軽い眩暈を覚えながらも凜霞は平静を崩さずに切り返す。


「まさか、みづき先輩はそれ以上の『お付き合い』はしていませんよね」

「私はないよぉ! まだお誘いに乗ったばっかりだし。あ、でも、もしかしたら凜霞ちゃんとは『あいびき』になるかも。どうしよう、誰もいない……よね?」

「な、なんですかそのいかがわしい言葉は」

「『あいびき』はほかのお友達に内緒で『おデート』をすることで、それを『げきしゃ』されたら『はっかく』になるらしいです」

「そうなんですか……何というか、これ以上は聞かない方がいいような気がしてきました」

「えぇ、『おデート』のこともいっぱいお話ししたいのになぁ。みづきのお話、聞いてくれないの?」

「え……ええ、とても聞きたいのですけれど、それはまたそのうちでお願いします」

「そっかぁ」


 みづきは凜霞の腕を引き寄せながら、少し拗ねた表情で目を伏せる。

 凜霞はみづきが自らに向けてくる寂しげな感情に困惑を感じながらも平静を装いつつ、太陽の光に眩しさを感じ、空いている手を額にかざして日光を遮る。


「この日差しは肌に悪いです。ですから、街の案内の方をお願いしますね。みづき先輩」

「うん、そうだね、わかった。まかせて!」


 そうして2人は腕を組んで歩き出す。


 この辺りは真新しい商店街で、木立と照明の整った遊歩道の周囲にはレンガでできた一軒家調の小洒落た小店舗が建ち並んでいる。

 雑貨屋、キャラクターグッズショップ、フランス料理……そして、


「あ、見てここ。大人、だぁ」


 ショーウインドウを覗き見ると、ビキニやパレオの水着、そして艶やかで生地の少なめな夏物の衣装が飾られていた。


「素敵……ですが、水着を買う必要はありませんよ」

「あ、違うよ。あっち」


 みづきがショーウインドウのさらに奥の方を指さす。

 凜霞は目を凝らし、奥の方の落ち着いた空間をよく見ると、金銀にキラキラと輝く小物類――恐らくジュエリーの類いが飾られていた。


「気にはなりますが、お値段が高そうではありませんか」

「うぅ……でも、もしかして9割引きかもしれませんし! 行って、みましょう」


 姿勢だけは前向きなみづきに引っ張られるように、凜霞はセレクトショップに入店することになった。


 みづきが自動ドアの前にぴょんと両足を揃えて飛び込むと、わずかな機械音と共に、奥から涼やかでアロマの効いたフレッシュな空気が漏れ出てくる。

 体に蓄積された熱が急速に引いていくのを感じながらも入場すると、入り口のそばにはみづきよりも背の高い観葉植物が飾られていて、葉をしならせて入場者を出迎えている。

 観葉植物を通りすぎると、そこには水着コーナーがあり、ショーウィンドウとは異なりワンピースタイプが多く展示されている。黒やゴールド、背中が大きく開いているものなどどう見ても学生には似合わない物が多く、みづきは物珍しそうにそれらを観察していた。


「やっぱり、水着を持ってくればよかったなぁ」

「どうかしたのですか」

「昨日海に行ったけど、水着は持って来てなかったの。見るだけの予定だったから」

「そうなのですか。でも結局、海に入ってしまいましたね」

「まさか服のままで海に入るなんて……あ! そうか。もし水着を着ていれば、何にも問題なかった……のかな?」

「そうですね。その代わり、亜紀さんに出会うこともなかったし、私の家族の手がかりも得られなかったかもしれません。不思議なものですね」

「それはそう、だけど。でも、凜霞ちゃんと海で泳ぎたかったなぁ。一緒に浮き輪でぷかぷかしたい。スイカを食べたい。かき氷も食べたい、よぉ」

「後半は何か違うような気がしますけれど……。私、水泳はできませんよ」

「泳げないの?」

「泳ぐ訓練をしたことがないのです。そもそも病院にプールはありませんし、心臓に負荷が掛かる行為は禁止されているので」

「そっかぁ、残念。でも、凜霞ちゃんの水着姿だけは見てみたいかも。細くて背が高いし、綺麗だろうなぁ」

「もしみづき先輩がお望みなのであれば、私、着ます。けれど、その時はみづき先輩も一緒に水着を着てくれますよね」

「ええぇ? み、み、みづきが着ても全然、楽しくもなんともないよ!」

「例え先輩自身が否定しようとも、それは違います。愛らしい……いいえ、大人の水着のほうがもっと素敵かもしれませんね。もしみづき先輩が着ていただけるのであれば、私も頑張ります」

「考えさせてください……あぅ」

「あら、それは残念です」


 みづきは凜霞の体と自らの体に交互に目を配り、そしてため息をついて落胆する。

 凜霞はみづきに声を掛けるでもなく穏やかな笑みのままで見下ろしている。


 やがてみづきは意を決したかのように立ち直ってこの場を離れ、目標のアクセサリコーナーへとようやく足を向けた。

 そこには人工の葉やツタがあしらわれた木製の棚があり、碧、蒼、ピンクのきらきら輝く宝石があしらわれた金や銀の造形物――ネックレスやイヤリングが、散りばめられるように飾られていた。


「わあぁ、きれい!」


 凛霞はそのうちの一つ、2個セットで飾られた小さなジュエリーを指さす。


「これ、みづき先輩によく似合っているとは思うのですが……どうやって使うのでしょうか」

「え? あ……これ、ピアスだ。私には使えないなぁ。はぁ、ちょっと残念」

「ピアスって、耳に穴を開けて通す感じですか」

「ですです」

「なら、開けてみたらどうですか」

「え! クラスでこっそり開けてる人もいるみたいだけど……でもうちの学校、ピアス禁止だよ? それに、針で、ぷす、ってするらしいですよ。痛いのは、ちょっとイヤだな」

「針ですか。注射とか点滴なら私、平気です」

「えぇ! 注射、やだぁ。きらい」

「私も自分に注射したことは、まだないですね。どんな感じなのでしょうか」

「自分に、注射……あぶないおくすり、的な? 何か、いろいろよくない感じがします」

「そうですね。残念ですが、やめておきましょうか」


 2人はピアスのコーナーを離れて隣に流れる。

 腕を組みながら、みづきが目を輝かせながら見回って、凜霞はみづきを見守るようにして連れられている。すると、


「うわ、これ」


 みづきが一つのアクセサリに目を留める。


 それは蝶のブローチ。シルバーをベースに、羽の部分は艶やかな黒いガラス。所々に蒼や碧のストーンがあしらわれてアクセントになり、落ち着いたデザインながらもよく映えていた。


「蝶、ですか。素敵ですが、みづき先輩にはこちらの方が可愛らしいのでは」

「あ、違うの。これ、凜霞ちゃんにどうかな? って」

「私ですか? どうなんでしょう。考えたこともありませんでした」

「これ、絶対似合うよ! ね、ね。買ったら付けてくれる?」

「みづき先輩が願うなら、もちろん付けます。ただ私、そんなに持ち合わせがなくて」

 

 凜霞が値札を見て小さなため息を付く。


「違うよ? 私が買うの」

「いいえ、それは……みづき先輩、お金を貯めるのはとても大変だったのでしょう」

「凜霞ちゃんに使いたいんです」

「そんな。もっと先輩が楽しいことに使えばいいのに、私なんて」

「私のプレゼント、受け取ってくれないの?」

「ああ、そう言われると……どうしましょう。私」


 突然のみづきの宣言に、手の甲を口に当てて戸惑う凜霞。一方みづきは純真な眼差しで凜霞をみつめ続けていた。

 凜霞は首を縦に振れずに視線はブローチとみづきを行き来していたが、みづきの目の端が潤み始めて、きらりと輝く水の粒が産まれて次第に大きくなっていくのを見て、眉をひそめて困惑の表情を強めていく。

 そして凜霞は目を閉じて、再び小さなため息を付いた。


「もう、ずるいですよ。先輩……わかりました。大切にします」

「やったぁ! ごめん、ね」


 観念した凜霞を見て、ニコリと微笑むみづき。笑った瞬間に、涙は頬を伝って溢れていった。

 凜霞がハンカチをポーチから取り出してみづきの目に添える。そしてハンカチを再びしまう代わりに、ポーチの中から手の平に収まる白くて丸いものを取り出した。

 それは、半球状のふわふわした白い体にふにゃふにゃの棒のようなものが沢山ついた、クラゲのぬいぐるみがついたキーホルダーだった。


「あれ? これ、水族館で見たよ?」

「はい。実は私、この子を購入していたのです」

「どうして?」

「恥ずかしい話ですが、みづき先輩と別れた先は、この子を思い出にして一緒に行こうと思っていたのです」

「私、離れたりしないよ」

「そうですね。だからこの子は私の元にいるよりも、お似合いの人の元へと行きたがっていると思うのです。みづき先輩、プレゼントの代わりにこの子を預かってあげてください」

「うん。ありがと、凜霞ちゃん。そしてクラゲの……クララちゃん、よろしくね!」


 みづきがクラゲのぬいぐるみを片手に乗せて、頭をそっと撫でていた。

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