浜辺で

「まだ、濡れていますか」

「ちょっと冷たいけど大丈夫です。暑いですし、むしろ丁度いい、かも?」


 2人は水族館からそのまま歩いて行き、まさに大地と海の境界線そのものである浜へと辿り着いていた。


 太陽は西へと傾き水平線へと今にも触れそうで、空には紅色の光が差し始めてグラデーションのかかった鮮やかな風景を創り出している。


 水平線の下は海。

 穏やかな波が浜へと打ち寄せている。

 さざめき、光の粒子、潮の香り。

 水のうねりは紅い光を帯びてきらめきながら砂浜を駆け上がり、やがて力尽き、果てる。


 砂浜は、光と波を浴び続けて熱と潮の香りを漂わせながら、果てることなく全てを受け入れて、ただそこに在り続けていた。


「これが海なんですね」

「来て、どうですか?」

「とても冷たくて、くすぐったいです。そして、綺麗です」


 笑顔で答える凜霞はワンピースの裾を持ち上げて素足を晒しながら、波の間際で水と戯れていた。


 凜霞は陽光を背に揺れて、その陰影は長くまっすぐに砂浜へと続いている。

 その影が途切れる辺りでみづきが足を投げ出すように座り、片腕でスカートを抱えてもう片方の手で砂に模様を描いていた。


「来れて、よかった。みづきさんと」


 みづきが凜霞に目を向ける。

 すると、凜霞がいつのまにか動きを止めていて、じっと正面からみづきを見つめ返していた。


 そして突然、凜霞が頭を下げた。

 はらりと、髪が揺れる。深く、水で濡れてしまいそうな程に。


「ありがとうございました」

「えっ、私?」

「はい。ここまで来られたのもみづきさんのおかげです」

「そんなことないよ? 初めからここに来ようと思ってたから。偶然、行き先が同じだっただけで」

「それでも本当に感謝しています。これで、私の願いはかなえられそうですから」

「ん……え? ここでやりたいことが、あるんですか」

「……昨日言ったことには嘘がありました」

「うそ、ですか?」

「私にとっては……」


 突然、荒れた風が吹きすさび、涼香の髪とスカートが激しく乱れる。しかし、涼香はそれを押さえようともせず微動だにしなかった。

 やがて凜霞は再び体を起こし、感情の読み取れない表情でみづきをじっと見据える。


 凜霞の体は夕日を背に暗く沈んでいるが、その瞳だけは一層蒼く輝いていた。


「聞きたくない、かも」


 今度はみづきの方が顔を伏せ、目を反らして微かにつぶやく。だが、みづきの言葉は誰にも聞き入れられることなく波の音に紛れて消えていった。


「ここが終着点。帰る予定は元々なかったのです」


 みづきはぴくりと体を震わせて、目を見開いて凜霞と目を合わせ……うろたえるように顔を反らす。


 凜霞がくるりと海の方を向き、数歩前に進む。すねまでが水に浸かり、波が当たって飛沫を散らしていく。


「ええと、それは、つまり……」

「このまま、水に還ろうと考えていました」

「え? 待って……よく、わからない」


 みづきは頭を抱えるようにしながら、砂浜と凜霞の間で視線を泳がせる。やがてゆっくりと頭から手を離し、呆然とした表情で話を続ける。


「ほかの場所へは、行きたくないの?」

「海を見ることができたら、それでいいかな。と思っていました」

「何かあったら救急車、って」

「あれは嘘です。実は、海を眺めながらそのまま朽ちていくのもいいな、って考えてここを選んだのです」

「ここで……終わっちゃう、の」

「はい、これが本当の私です。貴重な時間と思い出を奪ってしまって申し訳ありませんでした」

「だから――」

「ですから私達、ここで別れましょう。今度こそ、さようなら」


 海を向いていた凜霞は再びみづきの方を振り向き、笑顔を投げかける。しかしみづきは顔をそらしたままで凜霞を見ておらず、凜霞は少し寂しげな表情になった。


 みづきは顔をそらしたままで、凜霞に問いかける。


「……こんな終わり方は、イヤだよ」

「本当にすみません。できるなら、こういう形で終わりたくはありませんでした」

「それなら、今からでも――」

「あの時、何故あの電車に焦って乗り込もうとしたのでしょう。そうしなければ、問題はなかったのです」

「……みづきと会いたくなかった、ですか」

「会いたくなかった訳では――」

「ちっちゃくて、子供だから……かな」


 みづきが顔を伏せて、かすれた声でつぶやく。


 その様子を伺いながら凜霞はポーチの中に手を入れて、何かを探り当て、その手を目の前で広げる。

 掌にはちょうど手に収まる大きさの熊のぬいぐるみが乗せられていた。

 凜霞はそのぬいぐるみを懐かしむように見つめながらみづきに話しかける。


「見て下さい。この子を紹介します」


 みづきは顔を上げ、涙を貯めた目を凜霞の掌に向ける。


「ぬいぐるみさん、ですか」

「はい。ずっと傍にいてくれた、私の家族です」


 凜霞はそのぬいぐるみを大切そうにポーチに収めて、再びみづきの方に視線を向ける。


「そして友達になってくれたのは、みづきさんが産まれて初めてです」

「それなら、どうして出会わなくていい、みたいな」

「それは……貴方を巻き込みたくなかったから」

「みづきはもっとお話、したいよ」


 2人が口を閉じ、波の音だけが繰り返しざわめいている。お互いに視線を交わす中、軽く目を伏せた凜霞が口を開く。


「なぜですか? みづきさんは、帰ればご友人とお話できるではないですか」

「誰でもいいわけじゃ、ないんだよ」

「どうして、私と」


 みづきが少し戸惑ったあとで、はにかむような、拗ねたような表情で答える。


「凜霞さんは、みづきの『運命の人』だもん」

「あ、れ? それは信じていなかったのでは」

「あ……うん。実は、その、恥ずかしいんだけど、ちょっと」


 そしてみづきは立ち上がり、涼香の方へと歩き出す。


「だから。みづきはお話がしたいの。いっぱい。たくさん」

「……これ以上お話をしたら私の決心が揺らぎます」

「揺らいじゃ、だめなの? みづきと一緒にいれる間だけでいいから。もう一度、ここに来るから」

「それは……無理です」


 凜霞は一歩ずつ後ずさり、海へと沈んでいく。

 膝までが水に飲まれてワンピースの裾が海に浸かり、波に揺られている。


「やだ……やだ。やだよ!」


 みづきが高い声で叫び、砂を巻き上げてよろけながら、海へと、凜霞の方へと駆けていく。


「どうして? なんで? みんな何処かに行ってしまうの? 置いて行っちゃ、イヤなのに」


 凜霞はみづきの切羽詰まった返答に、思わず振り返る。

 みづきは凜霞のほんの数メートルの所まで辿り着いていた。足首まで水に飲まれて、波と砂に足を取られてふらつきながら。


 みづきは荒い呼吸をしながら涼香に語りかける。


「こんなことやめようよ。せっかくお友達になれたのに」

「駄目……近づかないで下さい。これ以上は」

「どうして仲良くなるのがイヤなの? 教えてよ。みづき、よくわからないの。どうしたら、凜霞さんのことがわかるの?」


 凜霞は俯いて動かなくなってしまい、苦しげな表情で口を開いては閉じてを繰り返す。

 やがて意を決したように下を向いたままで、言葉を投げつけるように独白する。


「みづきさんは、きっと離れて行ってしまうから」


 凜霞は目をきつく閉じて、絞り出すような声を上げる。


「私は足手まといで、何の役にも立たなくて。珍しいのは今だけで。いずれ飽きる日がきます。だから……」


 みづきの表情が少しだけ柔らかくなり、凜霞へ穏やかに話しかける。


「教えてくれて、ありがと。凜霞さんの気持ちが少しだけわかって、嬉しいよ」


 みづきは少しだけ首を傾げ、頬に手を当てて話を続ける。


「でも、凜霞さんはみづきの『運命の人』だよ? お友達と、さよならはできないけど……凜霞さんがみづきの一番なんだから、そんな悲しいことにはならないと思うの」

「そんなこと言われたら……どうしよう……でも、帰りたくない。あそこには戻りたくないのです。終わりの日を待っているだけの毎日なんて、もう」


 凜霞が一歩、また一歩と引き下がり、海に飲まれていく。


 みづきは小さな悲鳴を上げながら目を見開いて駆け出し、胸まで水に浸かりながらようやく凜霞の腕に手が届く。


 凜霞は恐怖の表情で手を引き、みづきと繋がることを拒絶する。


「戻ってください! こんな深いところまで来たら危険です」

「凜霞さん、一緒に、帰ろ」

「みづきさん、聞いて下さい! 来ては駄目」

「ね、みづき、凜霞さんと……」

 

 あ、という小さな声と共に、波に煽られたみづきの体が大きく傾く。


「みづきさん!」


 凜霞が手を伸ばし、指先同士が触れ合う。

 しかし、その手を握ることはできないまま、みづきは水に吸い込まれるように波の合間に消えていく。


「みづきさん、みづきさん! どこ⁉」


 凜霞は必死に、水を掻くようにして輪を描くように波打っているところを目指した。そして首まで濡れてしまうことも構わずに膝を折って前かがみになり、水の中を手で探る。


 間もなく確かな手応えを感じ、それを両手で押さえて持ち上げようとする。


 華奢な体が、次いで顔が水中から引き上げられた。

 みづきは苦しげに弱々しく咳き込んで、言葉にならない声を上げる。


「ぅあ、っっ。り、うか、さ」

「危ないって言ったでしょう! なんで、どうして」

「イヤ、だから。1人、なんて」

「そんな、困ります。どうしましょう、どうしたらいいの。私なんか、どうでもいいのに」

「みづきと一緒にいれば、きっと、寂しく、ないよ」

「できません! それとこれは話が違います!」

「きっと、できる、から」

「わからないのです。私はみづきさんにとって、一体何なの」

「……です」

「みづきさん? ……みづきさん!」


 みづきの体から力が抜けて、水に沈み込みそうになる。

 凜霞は返答のないみづきを抱き抱えて、浅瀬へと向けて藻掻く。

 しかし、その表情は苦しげ、というより苦悶の物へと変わり、肌が青ざめて色を失っていく。

 もう一方の手で左の胸を押さえながら、顔にへばりつく髪を掻き分けることも出来ず、歩き続ける。


 ただ、浜を目指して。


 左胸が――心臓が軋みを上げて焼け付いている。体中が燃え上がるように痛い。いくら呼吸をしても、苦しい。酸素が肺から行き渡らない。

 ただ前に進みたいだけなのに、水が、空気でさえも立ちはだかって、前へと進めない。


 砂浜は、手を伸ばせば届きそうな距離なのに、足が前に出せなくて。

 立っているだけでも体が重くて。

 

 目の前が暗くなって。

 心臓と、心が、痛くて、辛くて。


 それでも。


 みづきさんだけは、絶対に。

 私のせいで失うことだけは、許されないから。


 私はどうなろうとも構いません。

 

 どうかみづきさんを。


 助けて、下さい。

 



「……か、さん。 凜霞さん。 凜霞さん。 凜霞さん」


 耳元で、かすれた声が聞こえた。


 それはとても疲れ切った声で、それでも私のことを心配してくれているようだった。


 その子の、名前は……そう、


「み……づ、き」

「あ、気がつきました……よかった」

「ここ、は?」

「砂の上、としか。よくわかりません」

「無事なんですね。よかったです」

「みづき、凜霞さんの目が、覚めないかと、思って」

「泣かないで下さい。もう、大丈夫ですから」

「苦しくないですか。ごめんなさい、まだ、体に力が入らなくて」

「……平気です」


 本当は、左胸に重苦しい痛みが残っています。


 けれど、それはまだ私が、みづきさんが生きているという証。

 それなら今はそれでいいです。

 心はもう、辛くないから。


 凜霞の耳元で、みづきの吐息と共に、控えめなささやきが耳を撫でていく。

 背中に柔らかな温もりを感じる。


 みづきが、涼香に覆い被さっている。


 その感触とぬくもりがあまりに心地よくて、凜霞は頬が砂に伏していることも構わずに、みづきが一人で動き出せるようになるまで、身動きを取らずに全てを受け入れていた。


「凜霞さん。今、話をしてもいいですか」

「はい。なんでしょうか」

「私、お願いがあるんです」

「私に願うこと、ですか。どうぞ、遠慮なく」

「あのですね。これからは、凜霞ちゃん、って呼んでもいいですか」

「ああ……はい、いいですよ。凜霞でも、凜霞ちゃんでも。なんとでも」

「いいんですか! よかった。もし断られたら、ってちょっと不安になっちゃいました」

「そんな。私がみづきさんのお願いを断るわけはないじゃないですか。でも、その代わりに、私も同じお願いをしてもいいですか」

「はい! みづきも、なんでもいいよ」

「なら、みづき先輩。で」

「え……え? せん、ぱい……ですか?」

「だって、私は14歳。中学3年生ですから」

「え、えぇぇぇぇええええええ‼ 年下だったの! 本当に⁉」

「本当です。よろしくお願いしますね。みづき、せんぱい」

「嘘、なんでぇ⁉ こんなに大人だし大きいのに……もう、やだぁ」

「嫌いに、なりましたか」

「……好き」

「私もです」


 疲れ果てて、海へと還っていく黒い蝶。

 しかし運命の糸が繋がり、海の底で白いクラゲと出会う。


 蝶は涙のしずくで力を取り戻し、再び空へと飛び立って行く。

 2人で、共に、連れ添って。


 ずっと命のある限り。

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