第五章
第29話
◇レイフ視点◇
二人はただ、身体を寄せ合い抱き締め合い、最後の時間に互いの体温を感じていた。
ズシンと地響き。恐らく〈ヘクソカズラ〉は復活を遂げたのだろう。
もう、時間が無い。
死が。
死の足音が。
パタパタと、こちらへ嬉々と歩み寄る。
「……レイフは……私の事、好き?」
しがみ付きながら落莫と、上目遣いで答えを求める。
「何だよ急に」
ようやく呼吸器系が落ち着き、命に換えて言葉を返す。
「いいから、答えて」
「……俺、分からないんだ。そういうの」
「今まで好きになった人はいないの?」
「……い……たのかもしれない。ただ、好きになっちゃいけない気がして」
頭の中に浮かぶのは、七年間傍にいた、アイボリーの髪の女性の笑顔。
「どうして?」
「何と言うか……復讐を成し遂げていないのに、自分だけが幸せに成って良いのかって。大切な人が出来てしまったら、ずっとその人の傍にいたい。そしたら人を殺して、犯罪者に成るのを躊躇してしまうんじゃないかって」
言葉にするのすら苦しい。
それでもこれは俺が決めた、俺の生きる為の道。
「だから、人を好きになる事が、その感情を認めてしまう事が……怖い」
それでも、ふと、在りし日の家族の笑顔と食卓が思い浮かぶ。
「俺の家族は多分、いや、絶対に復讐なんて望んでいないんだ。春のような人達だったから。でもその償いをさせないまま自分だけが、のほほんと生きるなんて、俺は、……俺自身が許せない。どんな綺麗事を言ったって、結局は、自分自身のエゴの為に、俺は復讐をしたいんだ」
目を瞑る。
悪夢なのか、それとも現実なのか。分からない。
ただ、夢であって欲しいと願うこの現実と向き合うのは、息が詰まる。
「……情け無い話だろ」
「ううん。それが貴方の決めた道なら、私は否定しない」
しかしその道も、今正に潰えようとしている。
振り返れば、苦しみ踠いた惨痛な道ではあったものの、それでも確かに、沢山の愛を貰った人生であった。
「最後なんだから素直に成れば? 私なら貴方の本心が何なのか分かるもの」
悪戯な眼差しでこちらを見上げる。
「もう一度訊くわね? 私の事、好き?」
「……うん。好きだよ」
君の頭をそっと撫でながら、俺の、溢れんばかりの心に任せて。
「ほら! 答えなんて本当は簡単に出るのよ!」
「……俺は君が好きなのか?」
「だって! さっきの言葉! 噓じゃないわ!」
君は弾むような笑顔を。
自分でも信じ切れ無い自身の答え。それでも君は、嘘を吐かない。
ならば、俺の想いだって嘘じゃない。
……そうか。俺は、君が、……好きなんだ。
「ふふ。嬉しいわ。……こんな最後もまあ、悪くないわね」
君は一瞬陰りを見せるが、しかし態とらしい頬笑みを取り繕う。
「どのくらい? どのくらい私の事が好き?」
「そうだなぁ……。例えば、君の命が助かるのなら、世界が滅んだって良いくらい、君が好きだ」
「そんな気障な台詞よくも真顔で言えるわね。……女の敵だわ」
「え!? うーん。……俺、嘘吐いてた?」
自分でも本当の気持ちは分からない。今まで押し殺してた分、俺は君に、本当に想いを伝えられているのだろうか。
「ううん。寧ろ嘘じゃないのが恐ろしいわ。……レイフって愛が重いタイプなのね」
「はは。そうかな? そうかもね……。重いのは嫌?」
「ううん。嬉しい。……嬉しい」
抱擁はより緊く、箍が外れ溺れるように互いを求め合う。
すると分厚い氷壁が振動。厄災が攻撃を始めたのだろう。
時間が無い。
この愛しい時間も、遂に終わりを迎えようとしている。
死。
余りに有り触れた、騎士の末路。
「……レイフは、私がどんな人間でも、好きのままでいてくれる?」
要領を得ない問い掛け。しかし君は震えている。声には出さなくとも、死の恐怖を感じているのだろう。
「言っただろう。この世界の何よりも君が好きだと。何があってもそれは変わらないよ」
「……本当?」
「本当」
どうせ最後ならば、心偽らざる愛を紡ごう。君の恐怖が、少しでも和らぐ事を願って。
「……もしも、助かる道が有るかもしれないって言ったら、レイフはどうする?」
「それは是非やるべきだね。君一人だけが助かるとしてもだ」
冗談半分。もう助かる道など無い。軋む音を立て、氷壁へ僅かな罅が。
「助かる時は二人でよ」
君は拗ねるように否定する。
「でも、……そうね。うん。……何がどうなるかは分からないけど、やってみる価値は有るわ」
意図が読めない。それでも俺は、今更彼女を疑ったりはしない。
「レイフ、目を閉じて」
氷壁の罅は縦横無尽に走り行く。
時間は無い。
理由は不透明であるものの、言われるがまま瞳を閉じる。
「閉じたよ」
「……待って、……心の準備が」
君の恥ずかしそうな声に何かを察してしまい、頬が紅潮する。
最後の時間。
意識は二人だけの世界に。君の熱い吐息が鼻先を擽る。しかし君は羞恥のあまり、最後の一・五センチを踏み出せずにいる。
少しの逡巡。
「どうか、私を、……恐れないで」
意を決し、君は遂に。
二人の唇は熱く重なる。
その瞬間、瞼をぼんやりと通過する光。違和感に瞳を開けば暗闇は息絶え、二人の足元から碧白い光と緩やかな風、そして
俺はこの光と風を、この絢爛を、七年前のあの日から知っている。
「……そう。……そうなのね。それが、私の、……本当の
そして君は俺の瞳を真っ直ぐ射抜き。
「レイフ・ロセインよ。再逢の魔女、ライラ・レーヴェンアドレールの名の下、貴方へ私の魔力を与えます」
魔女。
鼓膜を確かに揺らしたその言葉。君は現世まで命を継いだ、
銀の剣は白く淡い光を放ち、光の輪郭は結晶の粒となり、上へ上へと揺らめき途切れ、やがて消える。
「良い魔力ね」
絢爛の中からは純真な儚い声。そして一人の少女が現れる。
赫焉の魔女、テレーズ。
七年振りのその姿も、声も、あの日のまま。
「久し振り。七年ぶりね、主様。会いたかったわ」
呆然とし言葉を失えば、アルビノの少女はライラへ向き合う。
「初めまして。再逢の魔女さん。私は赫焉の魔女テレーズ。主様の正妻を務めているわ」
「初めまして。……そう。貴方がレイフを呪っているのね」
「まあ! 人聞きが悪い。貴方は妾。弁えなさいね」
「……そうなの? レイフ?」
女王様は鋭い眼差し。
「妻などいません」
死地においてなんと間抜けな問い掛けか。
「ですって。今はね、レイフの一番は私なの。貴方は過去の女なのよ。私達、さっきも愛を確かめ合ったばかりだわ」
顎を上げライラは勝ち誇る。
「ふふ。私達合わないみたいね。仲良く成れそう」
赫焉の魔女は余裕の表情を崩さずに、ただ微笑む。
「テレーズ、どうやってここに?」
君は四百年間、ヨリス村の霊堂の繭で眠っている筈。
「主様を流れる膨大な魔力。その容量だけは一級品ね。これなら私も顕現出来るわ。彼女はこれを使いこなせていない落ち零れみたいだけど」
ライラは唇を噛んでに瞼を伏せる。
魔女。
魔女とは王。
嘗て生命の頂点に君臨した存在。
確かに祝福と称した氷の威力は絶大だが、それでも伝承に詠われる魔女のそれとは程遠い。
「まあ、嘘を見抜く力は便利そうだけど」
テレーズは純真な笑顔のまま、ライラの絡繰りを見抜く。
……そうか、それも魔法の力に因るものだったのか。
「ライラ、貴方は知らなかったようだけど、どうやら貴方は接吻により契約者へ自身の魔力、その全てを移せるみたいね。時間制限は有るようだけど」
氷壁はそして軋む。
もう限界だ。
時間が無い。
「テレーズ、貴方の魔法で〈ヘクソカズラ〉を倒せる?」
気高き筈の君は懇願を有りの侭に。
「私は今封印されていてね。大した魔法を使えないの。でもね、貴方の魔力を受け取った主様がいるじゃない」
テレーズは俺の右手で白く光る銀の剣を指差す。
「今なら神速と膂力だけじゃない。私の魔法を扱えるわ」
碧白い光の舞台で白き魔女は歌うように。
「〈ヘクソカズラ〉、懐かしい名ね。あの子は魔力を吸収して回復する。上代を冠するに相応しい能力ね。でも関係無いわ。あの子の小さな器如きで、果たして私の魔法を受け切れるかしら? 要はお腹一杯にしてあげれば良いのよ」
唇には悪戯な笑みを。
「本当はあの子も可愛い子なのよ。いつも森で動物達と寄り添い、小鳥達と歌を歌い、小さく弱い穢蕊達を優しく撫でてあげていたわ。……でもね、人間だけが嫌いなの。本当は憧れてるくせにね。人間を認識すると途端に暴れ、徒に命を喰らう。愚かで悲しい命ね」
睫毛には憐れみを。
「貴方も人間に成りたかったのね」
奴が俺達の攻撃に寧ろ力を増していたのは、魔力を吸収し命へ還す事が出来るから。俺達が真に女神ヒルドレーナ様に祝福された者であれば、こうはならなかったのだろう。
「……レイフ、貴方もまた、魔女の力を」
遠雷のようにポツリ心弛ばせれば、魔女の絢爛は衰退し、光と風は消え失せる。
「勝ちなさいよ」
祈りを残してテレーズは姿を消す。
辺りは暗闇の中、ただ右手の剣だけが淡く光る。
「ママが言ってたわ。契約出来るのは最初の唯一人」
ライラの母もまた、命を繋いだ魔女だったのだろう。
君は俺を介抱しながら、優しくゆっくりと、俺達はようやく立ち上がる。
「私の血と名の存続を、貴方に賭けるわ。レイフ」
そして君は再び唇を求める。
絢爛は生まれない。
その瞬間、氷壁は轟音と共に崩れ去り、君の背後には〈ヘクソカズラ〉。肩より失われた筈の残りの二本の腕を生やし、体表には無数の眼球のみならず、首正面から腹へ直列に並べられた幾重の唇。歯並びの悪い臼歯が見え隠れし、紫の舌は長く、苦しそうに喘鳴と唾液を吐き続ける。どうやら俺達の魔力を吸って、完全復活を遂げている。
「私達は、秘密を共有する者よ。バディ」
眼球だらけの剛腕が、死が、すぐそこまで襲い掛かる。
ライラに左肩を支えられたまま、ただ本能のままに剣を振るう。
その瞬間、辺りは白く眩い光に包まれる。
生まれるのは温度の無い、果ての無い、無音の世界。
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