第四章

　◇レイフ視点◇

　窓から溢れる藤色の光。寝坊助な太陽は、ようやくその目を覚まし、新しい一日が始まろうとしている。

　幸いにも〈シレネ〉が姿を現す事は無かった。……まあ俺達は〈シレネ〉を探しに来たのだが、皮肉なものだ。

　おかげでライラのこの寝顔は穏やかなまま、スゥスゥと軽やかな寝息を立てている。隈も無くなり、少し顔色も良くなった。安堵も伴い、俺は思わずその頭を撫でる。

　そうして、少しずつ藤色の光も白く染まる。ちょうど暖炉の火が弱まりだした頃、ライラがそのフランボワズの瞳をちらりと覗かせる。

「んっ」

　ライラは大きな欠伸をし腕を伸ばす。瞼を擦り、お姫様は太陽と共にその眠りから目を覚ます。

「おはよう」

　撫でる手を離し、優しく声を掛ける。

「うん。……おはよう」

　そうしてライラは俺の撫でていた右手を握り、布団の中へ引き込みこちらへ寝返る。そして再び目を閉じた。

「まだ寝てて大丈夫だから」

　朝はまだ肌寒い。暖炉の火を絶やさぬよう、薪を焼べるべく席を立とうとすると、ライラにその手を引かれる。

「傍にいるって言ったでしょ。……嘘吐き」

　目を閉じたまま、ライラは口を尖らせる。

「暖炉に行くだけだよ。すぐそこだ」

　君は顰め面で握る手の力を強め、無言の返事。どうやらダメという事らしい。

「火が消えたら少し寒いよ」

「いい」

　即答。俺は甘えたがりのお姫様にもう少し付き合う事とした。やがて暖炉の火は細く白い煙へと姿を変える。

　君は本当は朝が弱かったんだな。思わぬ一面もまた愛おしい。にも関わらず、この村では常に日が昇る頃には準備を始めていた。その理由は結局、明かされぬまま。

「ふっ！」

　そんな思案を巡りに巡らせていれば、そしてライラは勢い良く、黒い下着のまま上半身を起こす。俺は神速の如く視線を横へ。視界の端で君は両腕を伸ばし筋肉を解す。

「おはよう！」

　張りのある声で本日二度目の挨拶。その顔には今や陰りは見えない。体調不良が長引かぬ事に安堵すれば、彼女は勢い良くカーテンを開く。

「良い天気ね！」

「カーテンは服を着てから」

　そうしてハンガーに掛けていた服と黒ストッキングを、何とか目線を逸らしたまま手渡す。

「ありがと」

　背中で聞く衣擦れ音は未だ慣れない。

「私が寝てる間、えっちな事したでしょ」

　君は俺の背中へお道化た声を投げ付ける。

「し！　してねぇよ！」

「……そう」

　俺の口からどす黒い文字は出なかったのだろう。ライラの疑う様子は無い。そして着替えの終わった君から肩を叩かれる。振り向けば、彼女の人差し指が俺の頬をぷすり。

「意気地無し」

　花のように君は微笑む。いつも通りに心臓が高鳴り胸は苦しい。

　……何だその挑発は。下唇を噛めば、今夜は襲っちゃえよ、と頭の中で小さな悪魔が囁く。

　いやいやいや。

　相手は病人で、況してや恋人ですらない。いくら魅力的な女性であっても、許される事ではない。

「ずっと守っててくれたのね。……ありがと」

　そうして君は振り返り、自身の眠っていたベッドを綺麗に直す。この廃村で、とも思うが、彼女なりの感謝の気持ちなのだろう。

「ライラ、そ、そう言って人を揶揄うのは止した方が良いかもな」

　赤面しながらコホンと咳払い。彼女は昨日、変わりたいと願っていた筈だ。

「知ってる」

　しかし明るい声で君はきっぱり。そしてベッドメイクを終えると、くるりと優美に振り返る。

「レイフには嫌！　止めないわ！」

　飛び切りの笑顔。そして俺の心臓は当然破裂し、口から見えない血を吐き出す。最後の力を振り絞り言葉を紡ぐ。

「それじゃあカノリア村に戻ろう。身体も洗いたいだろう」

「……えっち」

　調子の良い含み笑い。

「違う！」

　どうやらライラは変わる気の無いようだ。……まあ変わる必要も無いとは思うが。俺は有りの侭の、真っ直ぐな君が好きだ。……好き？　は？　いやいやいや、無い無い無い。落ち着け、レイフ。

「私、お腹が空いたわ。湖でお魚を取りましょう！」

「釣り竿も無いし、どうやって？」

「そんなの貴方の神速で水ごとズバッ！　よ」

　俺の神速と膂力はそんな事の為じゃない。多少ぼやきながら、結局マリミア湖で剣を振るう。少し遅れて水飛沫と虹鱒の少雨。その水滴は日差しを屈折させ虹を掛ける。綺麗だなと眺めていると、近くで自生していたタイムとレモンを摘んだライラが戻って来た。多少裕福であったのだろう空き家の冷暗室には根菜や塩、香辛料等が揃っており、ライラがササッと料理を振る舞ってくれる。虹鱒は丁寧に下処理をした後に香草や、添え物の馬鈴薯と玉葱と共に。塩胡椒にオリーブオイルで焼き目を付け、そして刻んだナッツは香ばしく、クセの無いタイムの爽やかな香りが食欲を唆る。酸味のアクセントを与える輪切りのレモンも添えられ、食卓を華やかに彩る。

「……美味しい！　ライラ、料理出来たんだな！」

　昨晩から何も食べていない俺はそのままペロリと平らげる。ライラはその様を嬉しそうに、ただ見つめる。

「好きなの。料理人もいなくなっちゃって、いつもアンネと一緒に作ってるわ。おかわりもあるわよ」

「おかわり！」

　確信。俺の神速と膂力は虹鱒の為に有ったんだ、と。

　その後、お世話になった空き家をピカピカに清掃し、宿代の銀貨を机に一枚置いて、昼過ぎに元コルエト村を出発。幸か不幸か、途中〈シレネ〉に出会う事も無かった。俺達は横並びで、ライラの止まらないお喋りにただ頷きながら、夕方前にカノリア村へ帰還した。