黒百合からヘリオトロープへひとつの嘘を

第二章

第10話

　◇レイフ視点◇

　コツッコツッと、革靴が大理石の床を踏み鳴らす。

　どいつだ？

　こいつか？

　思い出せ、あの姿。

　記憶の中を巡るのは、新月の闇の中、燃え盛る故郷の赤橙を鈍く反射するあの日の黒衣。

　あいつか？　違う。もっと背は高かった筈だ。

　あいつか？　いや違う。もっと筋骨が発達していた筈だ。

　そもそもどいつが聖騎士だ？

　どうにかして聖騎士紋章の刻印を確認出来ないだろうか？

　いや、命より重いとされるそれを、無防備にぶら下げている奴など一人もいない。

　足音の発信源である一人の巨躯な男が、上級騎士達が厳格な面持ちで整列する中、右奥の別の入口から正面奥の日の差す演壇へ登って行く。

　あの並んだ風格のある騎士達の中に、間違い無くいる筈だ。

　遂に、……遂にこの日が。

　……七年も待った。

　禮命の聖騎士。

　お前を見つけ出し、必ず、必ず、……殺してやる――。

　古めかしいルネサンス様式の騎士団庁舎の中。臙脂の絨毯を敷いた壮麗な講堂へ集められた俺達。恐らく今期騎士と成った同期だろう。五十人程であろうか。この張り詰めた緊張感の中でもなお、目を輝かせ浮足立っている者も少なくない。この栄誉ある中央騎士団へ初期配属にされた、という選民思想を巡らせているのだろうか。まあ、分からなくはない。百万の騎士を抱える騎士団の中で、この中央騎士団は僅か五百人。この日の為に血の滲む研鑽を積み重ねて来た者ばかりであろう。その中を勝ち抜いて、俺達は今、ここにいる。その夢と期待に溢れた横顔を関係無いと視線を外しながらも、どこか将来への希望を持つ者を羨ましくも感じてしまう。

　……違う。

　羨ましくなんてない。

　俺には関係無い。俺は世の中へ貢献するために騎士の軍門を叩いた訳では無い。

　忘れるな、決して。

　巨躯な男は階段の向こう、演壇の中央に立ち、太陽を背負い、そして止まる。

　音は消える。

　空気を飲み込む。

　何かが始まる、そんな予感が、した。

「君達の三割は一年以内に、三年以内に半分は死ぬだろう」

　明窓を突き刺す光の束の只中で、最上段から偉そうに見下ろす男は第一声に、並ぶ門出の若者達へ呪いを吐き出す。

　こんな春の足音が聞こえる嘉すべき日に。思わず胸中で苦笑が零れる。そして男は沈黙。最初は呆気に取られていた同期達も、言葉の意味を飲み込んだのか、段々と青褪めた表情へ染まってゆく。品定めするかのように男は見渡した後、ようやく口を開いた。

「死にたくなければ仲間を作れ。今日、ここにいる君達は自己を律し研鑽を重ね、凡ゆる苦難を乗り越えた勝者達だ。だが、自身の力に溺れ輪を乱し孤独になった者から、戦場では死んでいく」

　低く重々しい声に、隣から息を呑み込む音がする。

「怖いか？　怖いだろうな。それでも笑え、ヒヨッコ共。生きてる内に惜しみ無く。それがどんな艱難辛苦の最中であっても、勇気を奮って運命に抗い、笑うのだ。それこそが君達へ光り輝く勝利を与えるだろう。どうか君達のいずれが恐怖に打ち勝つ勇者と成り、この儂、騎士団長を継ぎ、国家の秩序の保全に貢献する事を願わん」

　一転して与えられた未来の希望に、若き騎士達の顔に少しずつ光が差す。

「ようこそ！　我ら中央騎士団へ！　歓迎するぞ！　ヒヨッコ共よ！」

　男が真紅のマントを棚引かせれば、それを合図に歓声が上がる。遠巻きに囲む上席達も如何にも態とらしく囃し立てる。

　老眼鏡を掛けた壮年の、しかし衰えぬ覇気を纏う男は英雄、獅子の聖騎士グスタフ。

　この騎士団百万人の頂点へ君臨する騎士団長。

　過去二度に渡り民主国との戦争から王国を防衛し、無実の者を牢から解放、私財を投げ打ち孤児院へ多額の寄付を収め、今も世界の安寧をその両の手で必死に護り続けている。

　俺でも知ってる平和の象徴。

　国民から愛される、騎士の騎士たる騎士の模範。

　俺もいつか……、と一瞬過ぎった思考を、首を振っては何度も掻き消す。

「それでは叙任式を始める」

　騎士団長の隣に立つ白髪で眼鏡の老人が口火を開く。対照的に背が低く萎れ、在るべき右腕が無い。ただ片袖だけがひらひらと宙を漂流する。

「名を呼ばれた者は前へ。主席、マテウス・リングホルム」

　そして鮮やかな金髪のスラっと背の高い男は、この厳かな空気を物ともせず、悠々と前へ。

「次席、座学首席、ライラ・レーヴェンアドレール」

　影が動く。

　その瞬間、色取り取りの花が舞い散り踊る。

　慌てて目を擦り、それが幻覚である事にようやく気付く。

　しかし、その紫紺の髪を靡かせてゆったりと歩くその姿は、まるで我ら人間に救いを与えん女神様のよう。厳かな講堂は一瞬にして、彼女の為だけの華やかな舞台へと姿を変える。

　……息をするだけで、こんなにも胸が苦しい。

「三席、剣戟主席、レイフ・ロセイン」

　目を奪われていた俺は、名前を呼ばれ現実へと帰還する。

　……え？

　これは前に出ればいいのか？　何も事前に話は聞いていないが。

　しかし先に呼ばれた二人は、当然といったように階段を上り前へ並ぶ。騎士学校や名門高校を卒業したエリート様は、こういった流れを熟知しているのだろうか。

　俺は慌てて金髪の主席の空いている右に立つ。

　……焦っていたのはバレてしまっただろうか。何と無く決まりが悪い。

「それでは、宣誓を」

　白髪の老人は促す。

　は？　ちょっと待ってくれ。宣誓って何だ？　何を言えば良いんだ？

　しかし、俺を待つ者などいない。

「我ら！　教会、寡婦、孤児、あるいは暴虐に逆らい女神ヒルドレーナ様に奉仕する全ての者の守護者と成らん！」

　二人の声に合わせて、心臓に右手の握り拳を当て、俺は小声で雰囲気を合わせる。

　……いや、絶対バレてる。

　そして騎士団長は、祈るように聖別を紡ぐ。

「正に騎士に成らんとする者、真理を守るべし。教会、寡婦と孤児、祈りかつ働く人々全てを守護すべし」

　騎士団長は優美な装飾が施された長剣で、俺達の左肩を優しく叩く。どうやらこれが儀式らしい。そしてくるりと踵を返した二人を見真似て、俺は列へ戻った。

　忸怩たる思いに支配され、叙任式が終わるまで、話を全て聞き飛ばした。

　◇レイフ視点◇

　騎士団長や他の上級騎士達は仕事へ戻り、俺達はフレデリク・シェルマン参事補と名乗った白髪の老人と共に、少し狭い別室へと移動した。どうやらオリエンテーションを開いてくれたらしいが、この老人の話は嫌に長ったらしい。その説明を要約するとこうだ。

　騎士団には俺達王都の中央騎士団の他に、王都と蒸気機関車が繋ぐ各四大都市を拠点に地方騎士団が配置されている。地方騎士団には任務受注の他に、それぞれの市や町を穢蕊からの警備、犯罪者の捜査や逮捕等の仕事が、週の半分ほど課されるらしい。まあ、俺達の小さなヨリス村には来てくれた事は無いが。

　また、その定常業務を免除されているのは、遊軍として重大な任務に集中する中央騎士団と、王都を守護する近衛騎士団のみ。

　最後に裏方の事務屋。騎士団に属していながら騎士とは呼ばれず、通称鳩と呼ばれている。この隻腕の老人もまた、鳩の所属だ。

　なお中央騎士団にはそれぞれ分派となる騎士隊が存在し、彼らには専用の制服が与えられる。裏切りや掛け持ちなんて御法度なこの世界。派閥に所属する彼らの忠誠を図る為だろう。騎士団は基本的に白の基調とするが、加えて真紅を象徴とする鷲の騎士隊。群青の梟の騎士隊。琥珀の鶸の騎士隊。それぞれの隊長が次期騎士団長を狙えるポストになるらしい。

　騎士の階級とは、その戦果に応じた職位が与えられる。

　俺達新人はただの騎士。

　一つ上がれば主幹騎士。ここまでは下級騎士と呼ばれ、騎士全体の九割を占める。

　その上は参事補、参事と呼ばれ、これは中級騎士を指す。参事補までで九十九パーセント。参事に上がれる騎士は一パーセントも満たない。

　最後は参与騎士。鶸の騎士隊長の職位だ。華々しい戦果を上げたほんの一握りしか登れない上級騎士。基本、地方騎士団長はここで頭打ちというのが不文律らしい。

　その上、遥か高みへ君臨するのが聖騎士。本来、騎士は姓と役職で呼ばれるが、聖騎士だけは畏敬と親愛を込めて聖騎士グスタフのように名で呼ばれる。百万の騎士の中、現在はたった七名だけ。しかも近衛騎士団長と鳩のトップの事務総長は現役を退いた後の名誉職として。現役は五人だけという。

　聖騎士に成るには少し特殊で、騎士団長の推薦と国王の承認が必要。王家は晴れて聖騎士へ昇格した者の祝福の真名を詳らかにする代わり、祝福の真なる力を解放するという。『禮命へ恤える緋』、とやらもその際に明かされた銘なのだろう。祝福の真名は最高機密。それそのものが秘密である事により、所有者へ絶大な力を与える。しかし他者へその全文を確信を以て認識されてしまえば、その度に女神ヒルドレーナ様の愛は穢れ、減衰し、果てに祝福は砂となって消えるという。故にその真名を知るのは現国王と聖騎士当人のみ。これは絶対のルールであり、聖授与式は公開されず、国王と聖騎士のたった二人のみで行われる。例え親族であろうとも暴く事は許されない。真名が何であるか、それを尋ねる事、それ即ち祝福を穢す事。聖騎士へ対しての最上級の侮辱に当たり、騎士団への背信行為として即刻処刑されるという。一方で王家はその秘密を握る事で、聖騎士が王家を裏切れないようにする、という絡繰りらしい。この時点で、片っ端から聞いて回るのは自殺行為のようだ。

　そして万人に一人、祝福を持って生まれた人間がいる。

　大前提として、祝福者しか聖騎士には成れない。同期の噂話を耳にすると、俺達の代ではマテウスとライラ、俺ともう一人いるらしい。俺の神速と膂力も祝福の力とされているが、当然これはテレーズの力。真に女神ヒルドレーナ様に祝福され、力を与えられたのは三人だけ。

　ここまで話すと、苦々しい表情のまま白髪の老人は重い腰を上げ、騎士紋章をそれぞれに配り始める。

　真鍮製のそれは、前面に国花であるマーガレットと星一つ、裏面には自身の氏名。ペタルチェーンが付いており首から掛けられるような意匠。開けば中は空洞であり、ロケットペンダントのように各々の大切なものを仕舞い込める。職位が上がれば星の数も増えていく。聖騎士のみ、十八カラットのイエローゴールドと宝飾を遇い、内側へ祝福の真名を刻印した聖騎士紋章を与えられるとのこと。

「移動する。付いてきなさい」

　そして俺達は案内されるがまま、日の当たらない庁舎の裏へ。

　……何だ？

　進む度に、一歩踏み出す度にそれは強くなってゆく。

　異臭。何だ？

　一歩進む。

　これは、錆びついた、鉄の匂い？

　一歩進む。

　……いや、違う。

　一歩進む。

　不意に、その輪郭が、ドロリと浮かぶ。

　一歩進む。

　俺は、この匂いを、……知っている。

　一歩進む。

　七年前のあの日、家族の下へ走ったあの夜。

　一歩進む。

　あの日と同じ、噎せ返るような血の匂い。

　扉を開ける。

　そこには、夥しい数の棺桶と、そこへ佇み、あるいは打ち拉がれる遺族の姿。

　……何だこれは。

「北西の任務へ出撃していた、鷲の騎士隊の中隊七十一名だ。結果は全滅。二日前に別動隊が遺体を回収してきたが、それも全てではない。どれも断片的なも（・）の（・）ばかりだ」

　老人は、どこか遠く、空を見つめて言葉を紡ぐ。

「皆、栄誉と立身を夢見て騎士と成る。しかし現実、待つの死だ。これが騎士の日常。聖騎士まで上り詰められるのは、ほんの僅かな幸運の持ち主だけ」

　これがシェルマン参事補の長ったらしい話の、躊躇いと逡巡の理由。

　見せたくなかったのだろうか。

　それとも、……見たくなかったのだろうか。

　そして白髪は、口惜しそうな目で振り返る。

「皆、死ぬなよ。命より大事なものは無い。団長や他の騎士に乗せられるな。……人は、死ねば、生き返らない」

　そして肩を落とし、目を伏せる。

「これで詰まらん老人の話は終わりだ。夜には懇親会がある。それまでは庁舎の中を見て回るがよい」

　隻腕の老人は目の前の惨劇に頭を下げ、黙祷を捧げる。そして、その死の光景を背に、いつも通りの日常へと戻って行った。