第三話 9月26日

 社会人五年目になった。

 感染症が落ち着いてきてから、厄介な仕事が舞い込んできた。

 かなり早めの納期なのに顧客からの要望は難しいものだった。

 人数も少ないため、この案件を早瀬先輩と二人で請け持つ事になった。


「俺煙草行くけど、お前も行くか?」

 と先輩に言われ、一つ返事で同行した。


 喫煙所は前に吸っていた誰かの紫煙が残っているのか、煙草の臭いで充満している。

「先輩、なんで自分たちっていつも厄介な仕事ばっかり振られるんですかね。」

「まあ、なんだかんだ俺たちって仕事ができるじゃん?これまでも無理な仕事も何とかしてきたし。だからだろ」

 何とかしてきた、と言うより何とかしなければならなかった、の方が正しい気がするが。

「なんか理不尽ですよね。仕事ができない上司はネットサーフィンばっかで、自分たちにその分負担がかかって。真面目に仕事してるのが馬鹿みたいじゃないですか」

 そう言うと、先輩は深呼吸をするように煙草を吸い、ゆっくりと紫煙を吐いた。

「それが世の中なんだよ」

 社会人五年目となってもその理不尽には納得がいかなかった。

 でも、それが世の中なのだ。そう思うしかない。

 頑張っていることでは評価されず、ただ年数その会社にいるだけで評価が上がっていく。

 上の立場の者でも、その仕事と真摯に向き合っている者でも無く、強い言葉で相手を威圧する者の無理な意見が採用される。

 ──それが普通の世の中だったら、クソだな。

 自分もゆっくり煙草を吸い、憂鬱な気分も一緒に吐き出すように紫煙を吐いた。


 デスクに戻ると、相変わらず上司はネットニュースの記事に釘付けだった。

 舌打ちをしたい気分だったが、心の中にしまっておく。

 そして自分たちが席に着くや否や、

「おい、早瀬」

 と上司が先輩に声を掛けた。

「はい、何でしょうか」

「ちょっとこれ、データ入力しといてくれないか」

 ちょっとの量ではない書類を指差す。

「いまある案件の方が優先度高いですよね?だったら後回しでも…」

「部長にすぐやるよう言われてるんだよ、お前、できるよな?」

 先輩は明らかに憤りを抑えきれない様子で、

「お言葉ですが、僕にはやらなければならない仕事があるんです。今、その仕事をするような時間はありません。あなたがご自身で取り組まれたらどうですか」

 ときっぱりと断りの言葉を放った。その言葉はとげとげしく、ただ聞いている自分にもとげが刺さったような感覚になった。

 先輩が上司に反論するのはこれが初めてだった。それほど、心の中の憤りを制御することが難しくなっていたのだろう。

 喫煙所では理不尽を飲み込んでいるような口ぶりだったが、相当耐えられなくなっていたのだろう。

 上司は噛みつかれたことへの驚きを一瞬表情に表したが、すぐに怒りを露わにした。

「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか!誰に向かって口答えしているんだ!俺が若い頃はな、言われなくても上司に負担掛けないように自分から仕事していたんだよ!それをお前は、俺からの指示を無視するっていうのか!何様なんだ!」

 上司の言い分は支離滅裂で、ただ自分の指示を受け入れられなかったことに対して都合よく怒るための言葉をぶつけている。

 空気がぴりつくのが分かる。自分はその話に混ざっているわけではないのに、自分の心がチクチクしたもので突かれているような気がしてくる。頭が重い。

 自分の心情なんか伝わることもなく、二人の言い合いは勢いを増していく。この空気を早く終わらせてほしいという願いも届くわけがない。


「早瀬、お前はもういい。お前がやっておけ」

 書類の束を自分のデスクに置かれ、上司はそのまま離席した。完全なとばっちりを受けてしまった。

「おい、お前やらなくていいよ。ほっとけ、あんなの」

 先輩からそう告げられる。そう言われて、放っておいたところで何の解決にもならない。かと言って自分には上司に盾突く勇気もない。

「いやいいですよ、これくらいなら2時間追加で残業すれば終わるので。残業代もらえるし」

 と誤魔化すように笑って言った。苛立ちと心のざわつきを誤魔化すように。

「悪い。巻き込んでしまって」

 少し冷静になった先輩は、目を合わせずにそう言った。


 先輩は何も悪くない。悪いのは上司だ。だからこの苛立ちをぶつける先を見失ってしまい、ただただ目の前の仕事をこなすことで気持ちを誤魔化すしかなかった。

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