光の消えた日
早朝の電車は、いつも通り混雑していた。窓の外には、灰色の空が広がり、ビル群がひしめき合っている。通勤ラッシュに乗り込んだサラリーマンたちは、皆無言でスマートフォンを見つめ、あるいは目を閉じて眠り、誰もが自分の世界に閉じこもっていた。音もなく進む電車の中で、彼はひとり、窓の外をぼんやりと眺めていた。
中山浩二、35歳。都内の広告代理店に勤務し、順調にキャリアを積んでいる。しかし、彼の表情には明るさがなかった。仕事の成績は良いが、それに対する達成感はない。昇進もしたが、心の中には虚無感が広がっていた。いつからか、自分が何のために働いているのか、何を目指しているのか、わからなくなっていた。
家に帰っても、部屋は暗い。電気をつけても、ただ光が広がるだけで、心に灯るものはない。かつては恋人もいたが、彼女との関係も、仕事の忙しさにかまけて疎遠になり、自然消滅した。彼は一人で生きることを選んだが、その選択が正しかったのかは、今でもわからないままだった。
電車が揺れ、次の駅に着いた。浩二は重い足取りで降りると、会社に向かうために改札を抜け、いつものように雑踏に紛れた。人々の流れに沿って歩きながら、彼はふと感じた。自分がこの世界で「生きている」という感覚が、どんどん薄れていっていることに。
会社に着くと、いつも通りの朝礼が行われ、上司が業績を褒めたたえる言葉を並べた。浩二も、その中で「優秀な社員」として名を挙げられたが、それを聞いても何も感じなかった。周りの拍手が空虚に響く中で、彼はただ冷めた目でスライドショーを見つめていた。
その日の業務も、いつも通り忙しく進んだ。クライアントとの打ち合わせ、メールの確認、デザインのチェック。次々とタスクをこなしていく中で、彼は時計を見つめる時間が増えていた。早く一日が終わればいい。そう思うたびに、焦燥感だけが募る。
昼休み、浩二はオフィスの近くにある小さなカフェに入った。注文したコーヒーを手にし、店の奥の静かな席に座ると、またもや窓の外を見つめた。通りを行き交う人々の姿は、どこか遠く感じられる。自分もその一部であるはずなのに、なぜか違う世界にいるかのような孤独感が押し寄せてきた。
突然、彼の視界に奇妙なものが映り込んだ。通りの向こう側に、一軒の古びた電器店が見える。店先には、古い白熱電球や、年代物のラジオが並んでいた。最近ではほとんど見かけなくなった、昭和の匂いを感じさせるような懐かしい風景だった。しかし、彼を引きつけたのはその雰囲気だけではなかった。店の看板には、こう書かれていた。
「光、取り戻します。」
「光?」浩二は、思わずコーヒーを口に運ぶ手を止めた。なぜその言葉が自分の心に触れたのか、理由はわからなかった。ただ、今の自分にとって「光」という言葉が、どこか遠いものに感じられたのは確かだった。まるで、自分が失った何かを指し示しているかのような気がした。
昼休みが終わる時間が迫っていたが、浩二はどうしてもその店が気になって仕方なかった。ふと立ち上がり、店を出ると、そのまま通りの向こう側へ向かい、古びた電器店のドアを押した。鈍い音とともに開いたドアの向こうには、薄暗い店内が広がっていた。誰もいないように見えたが、奥からかすかに声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から出てきたのは、歳を重ねた小柄な老婦人だった。白髪が肩まで伸びており、背中を少し丸めているが、その目は若々しく、どこか鋭さを帯びていた。
「何かお探しですか?」と、彼女は優しく尋ねる。
浩二は少し戸惑いながらも、正直に答えた。「いや、特に何かを探しているわけではなくて…ただ、看板の『光を取り戻す』って言葉が気になって」
老婦人は微笑みながら頷いた。「ああ、あの看板ですか。あれはね、少し特別な意味があるんです。光というのは、ただ目に見えるものだけではありません。心の中にある光も、時に消えてしまうことがあるんです」
その言葉に、浩二は驚いた。まるで彼の心の中を見透かしているかのようだった。
「あなた、最近、心の光が消えてしまったようですね」
そう言われた瞬間、浩二は言葉を失った。彼女の言葉は、まさに彼が感じていた虚無感を的確に表現していたのだ。
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
老婦人は微笑を崩さずに言った。「長年、この店で多くの人々と接してきました。皆、何かを求めてここに来るのです。光が消えた人も、失ったものを取り戻したい人も。そして、私はそのお手伝いをするだけ。もし、あなたが本当に光を取り戻したいと思うなら、これを差し上げましょう」
そう言って、彼女は棚の上から一つの小さな箱を取り出した。手のひらに収まるほどの大きさの木製の箱だった。
「これは?」
「これはね、光を取り戻すためのものです。使い方はあなた次第。ただし、開けるのは慎重に。自分が本当に必要だと感じたときに、開けなさい」
浩二は戸惑いながらも、その箱を受け取った。彼女の言葉には、どこか不思議な説得力があり、なぜか拒むことができなかった。
その日の午後、彼は会社に戻ったものの、箱のことが頭から離れなかった。開けてみようか、と思ったが、老婦人の言葉が脳裏に蘇る。「慎重に開けなさい」と。その言葉を信じ、彼はその日、箱を開けずに持ち帰った。
日が暮れ、家に戻った彼は、暗い部屋でその箱をじっと見つめた。光を失った自分の人生。成功しているように見えても、心の中は暗闇に包まれている。自分が何のために生きているのか、わからなくなってしまった今、彼には何が必要なのか。
そう考えながら、彼はついに箱の蓋をそっと開けた。
中には、一つの小さな白熱電球が入っていた。昔ながらの、今ではほとんど使われなくなったような古い電球だった。しかし、その電球は光っていなかった。
浩二はそれを手に取り、家の中を見渡した。電気のスイッチを入れると、部屋全体が明るくなる。それは現代のLED電球によるものだ。しかし、この小さな電球が示すものは、そういった実用的な光ではないのだろう。
彼はその電球をデスクに置き、しばらく眺めた。ふと、彼の心の中に一つの感覚が戻ってきた。何かを「見つけた」という感覚だった。自分の中にある光。それは、目に見えるものではなく、ただ自分の存在を感じさせるもの。彼は少しだけ微笑んだ。
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