洋二ふたたび 東京戦争
井田雷左
第1話 賀籐兄妹 1
1
うだるような暑さの中、それは聴こえてきた。
それが最初は理解できなかったのは弓。
内容ではなく、誰から発せられたかが判らなかった。
いや、判ってはいたのだが、自分の母親が怒鳴るという行為をする、ということが理解できなかった。
母の荒げる声というものを初めて聴いたのだ。
夏休みで、自分がいるということを両親は知っているハズなのに、それをしたということは遂にきたのだな、と弓は思った。
両親に兄に自分の家族4人。
ありがちな家族構成に、ありがちな内容の一家だと思っていた。
ところが、弓は14年という短いが、それなりに濃厚な人生を重ねる度に、自分の家庭の異常性に気づいていった。
父親は出張や終電帰りが多いひとだったので、直ぐには気付かなかったが、ひと月くらい会わない時期が突然あった。
どうも母親には聴き辛い雰囲気が漂っていたので、兄に尋ねると「出張や終電帰りが多いんじゃないか」と視線をそらしながら答えた。
そういえば、ひと月は長いが度々出会わない日が続いたことがあったことに幼い弓は気づくが、同級生の女の子たちもお父さんとはそういうもの、と口々に語った。
ひと月の後に父親は何気なく朝に再会したが、次は母親がひと月いなくなった。
今思うと、父親の短い家出が本当に仕事の関係だか、不倫とかは判らぬが、母親の方は判る。
父親に対抗したのだ。
耐え忍ぶでも、大声で反論するのでもない、相手にも同じ目に遭わせるというのが母親のやり方であった。
ただ急いで付け加えれば、その特性が子どもたちに向かうことはなかった。
しかし弓にも兄にも子ども同士のケンカのようなものやライバルのような相手に対し、まさに応酬刑論めいた持論を母親は展開していた。
母親の不在時、父親が家事を賄った。
ムリをしてでも、急いで帰宅して、弓とその兄を育てた。
母親が帰ってくる。
父親はワケも聴かず、それが皮肉として機能するように、「おかえり」とだけは云った。
数か月後、又父親は帰宅しない数週間が続く。
父親の帰宅後に又母親が同じ日数家出をする。
そのシーソーゲームが数年続いた後、父親は家事をしなくなった。
弓とその兄はもう十歳を自分らが超えたからと当人たちは思ったが、単に面倒になったからだけだ。
最初は生ゴミ臭が台所からして、我慢できなくなった弓が指定曜日に捨てに行ったことから始まった。
そして弓はコンビニでサンドイッチやおにぎりを買い始めた。
買い食いが好きだったので、コンビニ各店舗や棚で新商品をあさるのは面白かったし、おこづかいはそれように増えたから不満はなかった。
「弓子、家庭科の授業で習ったんだ」
兄はそういうふうに云うと、弓をキッチンに誘った。
そこにはご飯と味噌汁と野菜炒めが並んでいた。
給食とコンビニめしが数週間も続いていたので、それらを弓はとても美味しく平らげた。
しかも料理の初心者、家庭科の授業の習ったままに味噌汁はダシを取るところから始めたので、久々に手作りの味を弓は堪能した。
―お父さんとお母さんがいなくとも、自分にはこの兄がいる。
弓はそう思い、家事をいつの間にか手伝うようになった。
女性としての恥ずかしさがあったのか、洗濯は弓の役目のなり、兄は炊事や食器洗いをし、掃除は気づいたどっちかがやるようになった。
その役割はいつの間にか母親が帰宅しても、そうなっていた。
弓も興味を持ったから、料理ができるようになっていた。
中学に弓が上がった頃から、両親の家出のターンは縮まり始めた。
兄は両親に抗議をしたらしいが、双方ともに、やんわりと相手のせいにすることしか云わなかったと弓は後に兄から聴いた。
そしてこの夫婦は遂に決壊した。
暑い夏に初めて聴く母親の声は不愉快以上の情報を弓にもたらすことはなかった。
内容は断片的に聴こえる単語でなんとなく判ったが、それを脳内で整理する気にはなれなかった。
玄関のドアが閉まる音がする。
果たして出ていったのは父親の方だった。
しかしさすがは夫婦である。
それは母親が出ていくための準備のため、その間に自分はいたくないから、父親は近所のパチンコ店に避難しただけだった。
今度は家出ではなく、別居なので、直ぐ来る運送業者をネットで調べ、電話し、急ピッチで出来上がった段ボールを赤帽は運んで行った。
去り際に母親は弓に「早くに迎えにくるからね」と告げた。
残暑の厳しい日、弓は自分の人生が回転することを悟った。
兄が塾の夏期講習から帰宅すると弓は顛末を語った。
「大丈夫、弓子は兄ちゃんと一緒だ」と答えた。
父親は何にも云わなかったので、兄は詰め寄ったが、その答えは兄の左肩を強く押し、転ばすことだった。
弓は兄と駆け寄った。
「大丈夫、弓子は兄ちゃんと一緒だよ」と弓は云われたのだが、ふた月後には夫婦の協議の結果、兄は父親が、弓は母親が引き取ることになった。
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