人生はドミノ倒し

@mixxi

第1話

目の前に選択肢があるとしよう。それはどんな些細なものでも良い。サイゼでディアボロ風ハンバーグにするかミラノ風ドリアにするか、気になるあの子にフォローリクエストを送るか送らないか。そこには選択肢があって、自分の意思で決定しているように感じる。二つの未来を自由に選び決定する権利を持っているとも考えられる。

だが本当にそうだろうか。

決定に関与する要因は全て過去のものであり、その要因が今を生きる私達にとって変更不可なものである限り、そこに自由意志による選択肢はない、と私は考える。

私ならフォローリクエストを送る。それは幼稚園の頃には異性と親しく接してきた性格もあるし、他者に嫌われていても楽しく生きてきた経験があるなどといった明確な理由があったりなかったりだが、自分の性格、環境等に由来した決定である。そしてその性格や環境は過去の選択によって形成されており、フォローリクエストを送るかどうか選ぶ際の私は、私を形成してきた過去の選択を変更することはできない。つまり選択肢が与えられた瞬間、既に自分の選択は決定してると言える。したがって選択肢が与えられたときには既に未来は決定されており、そこに自由意志の介入は無いのだ。

となるとその私の性格を形成してきた選択も、帰納法的に自由意志が存在しない。つまり人生におけるどこかにドミノ(選択肢)のスタートがあり、そのどれか一つが倒された瞬間に次に倒れるドミノ(選択肢(以下略))は決定しており、その倒れたドミノが次のドミノを倒していく。もしその一番最初のドミノが赤子の頃にあるのであれば、それを選んで倒すのは親かもしれない。が、ここでも親に選択肢はない。何故なら親の選択も親自身の倒れてきたドミノによって決定しているからだ。そしてその親の親の親の、、、とドミノを辿った先には本当に初めのドミノ、ジェネシスドミノが存在するであろう。話が大きくなるが、地球が生まれた、はたまたそれよりもっと昔に倒されたジェネシスドミノによって我々の未来は既に決定づけられていると考えられる。それを知る由は今の私たちにはない。

これを運命と呼ばずに何と呼ぼうか。これを神と形容するのであれば納得がいく。私がこの文章を書いてる間にはこの文章の内容、そして、送信する相手も既に決定しているのだ。

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