第一話 9月23日
今日は最近古典の授業で聞いた話を私なりに考えてみる。
はじめに。で書かれている通り、私は中学三年生なのだが、中高一貫校に通っているので、高校入試がないに等しい。
(内部進学は試験は受けるのだが、殆どが内申点での入学になる。)
そのため、高校内容に進んでいるのだが、古典の授業は比較的のんびりと進んでおり、おじいちゃん先生、(以後おじいちゃん)は小話も挟みながらの授業なのだが、それが個人的に凄く面白くて、クラスメイトが寝たり、内職している間に一人黙々と聞いている。
取り扱った内容は『徒然草』だったのだが、おじいちゃんはあまりこの作品が好きではない、随筆の中で最も面白いのは『方丈記』だ。と、語り始めたところからだった。
ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
一度は聞いたことあるであろうこのフレーズ。これは、川の水は絶えることはないが、同じ水ではない。つまり、川というものは存在し続けているが、その水は一昨日の雨水からきていたり、湧水だったりと一つも同じ道をたどって出来た水が流れているわけではないという、なんともそのままな意味なのだが、(少なくとも私はそう感じた。)そこには時代背景があってこその文章なのだという。
方丈記の作者、鴨長明は平安時代から鎌倉時代を生きた人物だ。平安時代末期、政権が武士上がりの平氏に変わったと思えば、いつの間にか、源氏に政権が変わっている。しかも、平氏は壇ノ浦の海に沈み、華やかだったはずの都は荒れ果てていた。その時に鴨長明は何一つして変わらないものはない、という無常感に辿り着く。そして、有名な冒頭の文章が出来上がった、らしい。
だが、おじいちゃん曰く、鴨長明自身、無常感に気づき、最後は狂ってしまうため、おかしな文章で終わっているらしい。
鴨長明が本当に狂ってしまったと解釈して話を進めると、「無常感」とは相当恐ろしいものである。現に日常で、無常感を感じることは多々あると考えていたが、どうやら、そんなものでもないらしい。無常感とは仏教の中でも大事だとされている感覚の一つだが、人が狂ってしまう感覚なんて、その境地に辿り着けることはないということなのだろうか。
おじいちゃんは一通り、時代背景などを語ったあと、こう呟くように言った。
「無常感ってね、恐ろしいんですよ。政権なんて目に見える、どこか他人事みたいなものなんて、まだマシだと思いますよ。愛も、友情も何もかもは変化していってしまうんです。だって、今年になってから、話さなくなった友達とか、小学校の頃好きだった子のこと今も好きな人の方が少ないでしょう。これが、きっと無常感なんですよ。私はまだ気づきたくないですけど。」
終わった瞬間、チャイムが鳴った。
今、世の中は推し活というものが流行っている。(ちなみに私も流行りに乗っているうちの一人だ。)
推しというのは基本画面上や、本などの中にいると思う。三次元でも、ライブで目にするよりも、推しのチャンネル、テレビなどの方が目にする機会が多いはずだ。再生すれば、「大好きだよ、」と言ってくれる。見ているだけで、幸せになれる。つまり、こちらの気持ちが変わらない限り、向こうは同じ気持ちで永遠に私に語りかけてくれる。それはある種、宗教に似ている部分があると思う。信仰とはこちらが、気持ちを一方的に伝えているのだ。そして、毎回同じ気持ちで神様は私達に寄り添ってくれる。
だから、きっと人々はのめり込んで行けるのだ。それは無常感に反している。
つまり、人は無常感から目を背けるべく、無常感に反したものを作り続けているのだ。それに気づいた私も、また目を背けようとまた推しを見るのだ。
今、書いていて気付いたのだが、私はどうこの話を終わらせる気なのだろう。これじゃあ、まるで、方丈記と同じようになってしまう。
正解もよく分からないので、私も欠けつつある月を見ながら、この世という暗闇に一筋の光があることを願って、南無阿弥陀仏と三回唱えてみます。
日常を呟く。 伊香輪 心陽 @koharu-1127
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