sectⅫ ハイジャック

 夜が明けた。

 コージとメグミは、花巻空港に向かった。

(07:30発 306便)

 スーツを着こなし、髪をオールバックにして、出張のビジネスマンを装ったコージ

とOL風に着替えたメグミが、ゲートをくぐった。

 コージのトラベルバックが手荷物検査の赤外線モニターに映る。

 ノートパソコン・携帯電話・目覚し時計・スタミナドリンク・液体洗剤2本・土産

用の地酒ボトル、そして、寝袋など……

 100席にも満たない小型旅客機が離陸し、車輪を格納しながら大空に飛び立った。

 朝一で本社の会議に出席する営業マンや旅行の親子連れで機は満席だった。

 機内のシートベルト着用のランプが消えた。

 コージがバックを持って、隣のメグミを一瞥してから席を立った。

 トイレのノブを薄い手袋をはめた手で回して、ドアを閉めた。

 内側をアルミホイルで囲った寝袋から、ガスマスクを取り出す。

 マスクをして、酸性とアルカリ性の液体洗剤をドリンク剤のビンに混入させた。

 たちまち、“シューシュー”と、ガスが発生した。

 コージは、素早くキャップを締めてポケットにしまった。

 残りの二種類の液体洗剤を地酒ボトルに全て混入させ、目覚し時計をタイマーにし

てガムテープで貼り付けて、即席のダミーガス爆弾を完成させた。

 そして、ノートパソコンを開け補助バッテリーケースに隠したロシア密航で入手し

たキーホルダー型短銃を取り出し、緊急用ブザーを押した。

「どうしました?」

 男女雇用機会均等法施行以前は、スチュワーデスいわゆるスッチーと呼ばれたCA

(キャビンアテンダント)が、ノックしながらドア越しに問いかけた。

 中からドアが開けられると同時に、映画『ターミネーター』で主演が付けていた防

弾サングラス・カーゴイルズをかけたコージが、短銃の銃身をCAの脇腹に突き立て

た。

「」

 CAは、カッと眼を見開いて、事態を察知した。

 コージは、手中に短銃をスッポリと収めて周囲から見えないようにしながらCAを

前に歩かせた。

 二人は、ファーストクラスの通路を抜けてコクピットの仕切り扉に進んだ。

 コージが、扉を開けるようにCAに促した。

 CAが渋る態度を示すと、コージはガスマスクをかぶり、内ポケットからドリンク

剤を取り出してキャップを外した。

「ッ」

 CAが、怪訝な表情をした時だった。

 “シューシュー”と、ドリンク剤から異臭が噴き出した。

 これを見て、CAは戦慄した。

「助けてッ。有毒ガスです!」

 CAは、たまらずにドアホンに叫んだ。

 扉が開くと、コージは短銃をCAの喉元に当てながら副操縦士と航空機関士の2人

にコクピットから出るようにアイコンタクトした。

 そして、CAを2人に預けるように突き飛ばして扉をロックした。

 コクピットはコージと操縦桿を握る機長だけの空間となった。

 コージが、キャップを締め直したドリンク剤とモバイルパソコンのモニターを、機

長に見せた。

《これはカルト教団がバラ撒いて有名になった毒ガスだ。同じモノがトイレに時限装

置付きで仕掛けてある。下手に触ると爆発する》

 機長が、モニターを読んでいる時、副操縦士からの機内無線が入った。

〝機長、トイレに爆発物らしい物を発見しました〟

「…分かった……」

 機長は、冷静に無線に答えた。

 その時、コージが外部無線装置を短銃で撃ち抜いた。

「何をするッ! 気は確かか」

 手袋をはめた指先で、コージがキーボードを叩いた。

 《指示通りにしないと、次は、お前を狙う》

「私を殺せば、機は墜落し、自分も死ぬのだぞ」

《パソコン上のリモコンで、乗客から先に殺るコトも可能だ》

「狂ってる…」

 機長は、モニターとコージを交互に見て呟きながら緊急時マニュアル通りハイジャ

ッカーを刺激しないように指示に従う事にした。

 窓外に、絨毯状に連なる積雲が見えている。

 機は成層圏を飛行していた。

《高度を100m以下に落とせ》

「バカな。危険だ」

 さすがの機長も、これには反論した。

《沖縄では普通に飛んでる高度のはずだ》

「米軍基地への、抗議行動のつもりか?」

《理由は後で説明する。指示通りにやらないと、この機は地下鉄事件の二の舞になる》

「…………」

 機長の脳裏に、全世界を震撼させた無差別テロがよぎった。

 機長は、操縦桿を倒しながらあるボタンを押した。

 306便は、ゆっくりと通常の飛行コースを外れていった。

 客室内のキャビンクルー用の緊急事態発生ランプが点灯した。

 クルー達は、予定外の進路変更に内心動揺していた。

「何だ?」

 そんな状況を察知した男性客の一人が、不審感から呟いた。

「ママ、怖いよォ」

 子供も敏感に反応して、騒ぎ立てた。

「心配ありませン。一時的な乱気流です」

 CAは、必死に弁明した。

 306便の高度計は300フィートを表示していた。

 コージは、携帯電話のディスプレイを見つめていた。

〝圏外〟のインジケーターが表示されている。

「機内で携帯電話は使わないでくれ。計器類が誤作動する」

《もっと下げろ》

 機長を無視するように、コージはキーを叩いて指示を出した。

 客室の窓外に、市街地が見えてきた。

「下に、街が見えるぞ!」

 客の一人が、叫んだ。

 その声に、他の乗客達が一斉に窓を覗き込んだ。

「ハイジャックだと」

 携帯電話で下界と連絡を取っていたビジネスマンが、通話相手に聞き返した。

「ハイジャックだッて」

 まるで伝言ゲームのように、客の間に連鎖反応した。

《キャビンを制圧しろ》

 コージからのEメールを、PDA(携帯情報端末)で、メグミが受信した。

 メグミは、コクピットにいるコージを客室からバックアップする手はずだった。

 ガスマスクをして、声替えスプレーを吸い込みながらメグミが立ちあがった。

「静かにしなッ!」

 メグミが、威圧するように叫んだ。

 そして、近くにいた若い女子大生風の乗客に、スタンガンを突き付けた。

「キャ~ッッッ」

 女子大生が、悲鳴を上げた。

 その声に、客室内が騒然となった。メグミが、女子大生にスタンガンを放電させた。

「うギャ」

 女子大生は、一声発した後グッタリと気を失った。

「お客様に、危害を加えないで下さいッ」

 CAが、その場に倒れ込んだ女子大生を介抱しながら果敢に、メグミの前に立ちは

だかった。

「スッチーのあンたから、みンなに説明しな。今、この機がどーゆー状態になッてる

かを」

 メグミは、CAに機内マイクを取って渡しながら言った。

「乗客の皆さん。どうか落ち着いて下さい。当機は現在ハイジャックされています。

全員、座席から離れないようにお願い致します」

 CAが、説明した。

「ゆーとーりにしないと、毒ガスをバラまくよ!」

 コクピット内では、コージがモバイルパソコンに携帯電話をつなげて、そのモニタ

ーを静観していた。

 待っているのだ。

 画面が反応して、インターネットに接続した。

 低空飛行を要求したのは、航空レーダーに捕捉され難い点の他に、モデムとして電

話回線を使用する携帯電話の電波の受信可能な高度を保つためだった。

 首相官邸のホームページが、映し出された。

《18億円を指定口座に入金しろ》

 コージは、首相宛てに電子メールを送信した。

「イデオロギー的な事ではなく、目的はカネか?」

 機長は、軽蔑したように吐き捨てた。

 フロントガラス越しに、東京の街並みの鳥瞰図が見えてきた。

 国会議事堂前では警官隊の整列する周辺を、TV中継車を連ねたマスコミ陣がごっ

た返していた。

【危機管理対策本部】と書かれた一室に、首相以下関係閣僚が緊急会議をしていた。

「航空会社によりますと、国内便のため機体の燃料が少なく、後1時間も飛行できな

いという事です」

 胸に桜田門のプレートを付けた警察官僚が、説明した。

「首都周辺で着陸可能な空港は、いくつあるのかね」

 首相が、聞いた。

「羽田をはじめ、民間空港と自衛隊の施設、および米軍基地を含めると5ヶ所です。

レーダー捕捉できない低空飛行のため、空自からスクランブル機を発進させておりま

す」

 官僚が作成した答弁書を見ながら、防衛庁長官が答えた。

「民間空港は全て封鎖し、救急車両と機動隊を配置します」

 警察庁長官が、自衛隊の出る幕ではないと言わんばかりの態度でキッパリと言いの

けた。

 このヤマは警察のシマだからだ。

 過激派もカルト教団もテロ対策は軍ではく警察の領域だと、日頃から強く主張して

いた。

 軍に武力行使の大義名分を与えると、その延長線上にはクーデターという行動も有

り得る。

 シビリアンコントロール(文民統制)にはかなりのボロが出ているが、そこで何と

か踏みとどまらなければ民主主義の理想から遠ざかってしまう。

「人命最優先で頼むよ。何しろ、賊はあの凶悪な地下鉄毒ガス事件を起こしたカルト

教団の残党という情報もある。で、身代金の手配は?」

 首相が、事務的に聞いた。

「この財政難の折、主計局の官僚が難色を示しましたが、航空会社と保険会社に緊急

融資というカタチで折り合いました」

 財務大臣は、さも自分の力でカネを都合できたかのように吹聴した。

「テロリストとの取引は、よど号事件以来しない取り決めになっておりますが、燃料

切れで空港に着陸した時に逮捕できると思います」

 警察庁長官が、自身ありげに言い放った。

 よど号事件は1970年代の大学紛争のさなかに起こった。

 日航機のよど号を数人の大学生が乗っ取り、北朝鮮に政治亡命した売国奴の事件で

ある。

 その時、日本政府は人質に対する人道上の見地から超法規的措置によりそれを黙認

した。

 しかし、失策だったという認識により以後、国家としてテロリストへの譲歩は禁止

された。

 この事件の犯人は、その後の拉致問題にも関係したという事実も判明するに至って

は、当時の対応が非難されても致し方ないものだろう。

 なめられた日本政府は、浅間山荘事件など国内外での過激派によるテロ行為に手を

焼くようになる。

 そして、国家転覆を惹起する事件は近年のカルト教団に続いていく。

 今、18億のカネを要求しているハイジャッカーは、その残党という情報もあるの

だ。

 政府が動揺するのも当然だった。

 岩手県を飛び立ってから4時間が経っていた。

 首都上空を、2機の自衛隊所属の戦闘機が急降下した。

 都庁ビルをかすめるように、狙撃隊を乗せたSAT(対武装犯特殊部隊)のヘリが

せり上がってくる。

 警察の武装ヘリがライトを点滅させて、モールス信号を306便に向けて送信した。

 ハイジャックされた航空機は都庁に影を落しながらゆっくりと、旋回していく。

「警察が交渉を求めてる」

 モールス信号を読み取った機長は、振り返ってコージに言った。

 コージは、何食わぬ顔でリズミカルにキーボードを叩いた。

《入金を確認しない限り認めない》

 という文字が、モニターに映し出された。

「あと、10分も飛べない」

 機長が緊張した面持ちで訴えた後、二分割されたモニターにテレビ放送が受信され

てきた。

“コクピット内は機長と犯人の男2人きりで、客室には若い女の共犯者がいるという

未確認情報が入ッております”

 レポーターが、ビルの屋上から航空機を見上げるようにして実況中継していた。

 その時、機体がガクンと大きく揺れた。客室内の乗客達が動揺した。

「ガス欠でエンジンが咳込んいでる。羽田に向かうぞ」

 そう言うと、機長が操縦桿を握り直した。

《ダメだ》

 コージは、モニター上で返答した。

「私には、この機を安全に着陸させる義務がある」

 機長は強い口調で言い切ると、進路変更した。

《人質に悲鳴を上げさせろ》

 コージからのメールが、メグミのPDAに受信された。

 メグミは、CAの身体にスタンガンを当てながらPDAの通話ボタンを押した。

 CAは、スタンガンの威力を知っていたので怯えきっていた。

“や、やめて下さいッ! キャー”

 コージの操るパソコンの内蔵スピーカーから、悲鳴が聞こえてきた。

「乗客には手を出すなッ!」

 機長が、血相を変えて叫んだ。

 モニターにはインターネットを使った航空機関連の検索データが映っていた。

 続いて、機内設計図のC・G(コンピュータ・グラフィックス)が現れた。

〝FUEL〟と、コージがインプットした。

 予備タンクの存在が確認された。

《予備燃料があるはずだ》

 コージは、パソコン越しに詰問した。

「くそォ…」

 機長は、臍を噛みながら操縦桿を元に戻した。

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