sectⅧ 誘拐

 プロ野球オープン戦直前の東京ドーム駐車場の出入口には、これからエネルギッシ

ュなライヴをするために会場入りする河原奈美のその姿を、一目見ようとするファン

の群れが集まっていた。

 そこに、数台のスモークガラスのクルマが入ってきた。

“キャー”と、ひときわ歓声が沸いた。

 その中に、メグミも混じっていた。

 メグミは、デジタルカメラのレンズをズームアップして連写していった。

 ファインダーは、各車のナンバープレートを狙っていた。

 メグミは、モバイルパソコンにデジタルカメラとデータ通信仕様のPHSをセット

して撮った写真を送信した。

 メグミからの送信データを、コージは運輸省の陸運支局のロビーでノートパソコン

のモニター越しに受け取っていた。

 メグミの撮影したクルマのナンバーを、所定の申請用紙に書き込み、窓口に提出し

た。

[登録事項等証明書]を受け取り、該当するクルマの所有者を洗い出した。

 コージは、【佐藤 恵美】という名とその現住所を確認すると、コインパーキング

にあったシーマのウインドウに薄く特殊なスチールを差し込んでドアロックを外した。

 ドーム内の観客総立ちの中で、河原奈美はライヴを成功のうちに終えた。

 公演終了後、駐車場には数台のクルマに混じって、奈美の運転するロータス・エス

プリが轟音を響かせて出てきた。

 熱狂的な追っかけが警備員をかいくぐるようにして、ドッとめ寄って来る。

 前後のクルマと警備員にガードされるようにして、ロータスは公道に走り去る。

「あ、あれだ!」

 メグミが、ロータスのナンバーをチェックしながら叫んだ。

 コージが、シーマをスピンターンさせる。

「尾行すンじゃないの?」

 リアウインドウから、ロータスのテールライトを見ながらメグミが聞いた。

「首都高に乗るまでは護衛車がつくだろーし、それに、刑事ドラマのよーなクルマの

尾行はすぐ相手にバレるンだよ」

 コージが、言った。

「TVや映画はみンなインチキなンだ」

「そ。現実はもッとシビアなの」

「ストーカーがそンなにメンドいなンて。じゃ、どーすンの」

「あのジャリタレのヤサは調べがついてるから、先回りして待ち伏せる」

 コージは、カーナビソフトを操作しながら話した。

「パパラッチになれるよ、コージ」

メグミは、さも感心したように言った。

 ロータス・エスプリが、互いに高い塀に囲まれた高級住宅の林立する成城に到着し

た。

 ロータスのリトラクタブルライトに、突然、飛び出してきたベビーカーが映った。

「ッ」

 奈美は、急ブレーキを踏んで、クルマから降りた。

 そこで、後ろからスタンガンをかまされて、気を失ってしまう。コージとメグミが

シーマを路上に捨て、ロータスに奈美を拉致して乗り逃げした。

 窓からベイエリアの夜景が一望できる、億ションと呼ばれる超高級マンション最上

階にあるペントハウスのミキシングルームで、その音楽プロデューサーは新曲のサン

プリングをしていた。

 その時、パソコンに電子メールが入った。

 モニターに《河原 奈美、売ります》というメッセージと共に、今日付けのスポー

ツ新聞を持たされた奈美の写真が映っていた。

 プロデューサーは、携帯電話を取って奈美の所在確認をマネージャーに問い合わせ

た。

 悪質なイタズラではなく、現実に誘拐されたという事実が浮かび上がってきた。

 奈美が次に気がついたのは、身体を縛られた状態のワンルームマンションだった。

「ッ」

 奈美の眼の前には、特殊部隊のような目出しマスクをかぶり、半透明の薄い手袋を

はめた男女がいた。

「ここはどこッ。あなた達、誰! アタシをどーする気」

 奈美が、ヒステリックに叫んだ。

 メグミは、黙って声変えスプレーを吸い込んだ。

「ユーカイッて、知ッてる?」

 そして、アヒル声で答えた。

「えッ」

 奈美は、一瞬押し黙り自分の置かれいる状況を把握しようと頭を巡らした。

 その間、コージはモバイルパソコンでインターネット通信をしていた。

「わあ~ッッッ」

 奈美は、錯乱して思わず暴れ出した。

 メグミが、すかさずスタンガンを浴びせた。

「ギャッ」

 奈美が悲鳴を上げて、その場に昏倒した。

 今回はスタンガンのパワーを弱めてあったので、意識を失うほどではなかった。

「今夜はオールになるよ」

 メグミが、冷たく言い放った。

 奈美は、倒れたままコージの背中越しにモニターを覗いた。

 《ドル建てで、アメリカ経由の電子マネーを換金して、中国の地下銀行に送金しろ。

  入金確認次第、商品を発送する》

 コージは、リズミカルにキーボードを叩いて、文面を作った。

 《$1,000,000》

 コージは、身代金の金額をタイプした。

「アタシは、そンなに安くない」 

 奈美が、おもむろに言った。

「何?」

 コージが、声変えスプレーを吐き出しながら聞いた。

 生の声を聞かれたくないという配慮からだ。

「1ステージのチケット分だけで、その3倍はあるわ」

 奈美の言葉に、コージはニヤリと笑いながら金額を300万ドルに打ち直した。

 日本円(1$=133.35)で、約4億である。

 ベイエリアのペントハウスでは、奈美のプロデューサーが携帯電話で広告代理店と

交渉の真っ最中だった。

「明日のライヴを、キャンセルした場合の損金と、保険の計算だ」

 プロデューサーは、相手からの返答を冷静に聞いた。

「ああ、そうか。じゃ、中止でも赤字にはならないンだな…」

 それだけ聞けば充分だった。

 冷徹なビジネスライクを信条にするからこそ、この業界で現在の地位にいるのであ

る。

 何しろ、彼の手がけたシゴトの売上高は、音楽業界の三分の一を占有していたので

ある。

 飛ぶ鳥を落とす勢いの彼は、いったん電話を切り、“110”とボタンを押し直し

た。

 利潤さえ追求できれば、シンガー一人の犠牲など必要経費だった。

 コージとメグミが奈美を拉致監禁した場所は、ウイークリーマンションだった。

 身元を問われないラブホテルのように安易に、そして長期間借りられるので犯罪者

の潜伏先には実に好都合だった。

「B級アイドルを、メジャーでブレイクさせるのが得意な超売れっ子プロデューサー

とデキてるアンタのためなら、カネは惜しまンだろ」

 コージが、タバコを吸いながら話した。

「でも、ケーキのよーに賞味期限がチョー短い、使い捨てのインスタント・シンデレ

ラの代わりはいくらでもいるから、ダメかもね」

 メグミは、敵意?き出しでイヤミを言った。

「あなた達がやッてるのは、ただのタカリじゃないの。人の成功をねたむ、クズのや

るコトよ」

 奈美が、気丈にも負けずに言い返した。

「クズね……前に、誰かにも、そー言われたッけ」

 コージが、メグミを見て言った。

「そー。カスにね」

 メグミがそう答えた後、2人が笑い合った。

「な、何よッ」

 意味の分からない奈美は、コージとメグミに不気味さを感じて動揺した。

「何のコネもカネもねー、クズとカスでも欲はあンだぜ」

 そうコージが言った時、モニターにメールが入った。

 《奈美と同時交換なら、取引きに応じる。 小田 哲也》

「ほーら、きたぞォ」

 コージは、キーボードに向かった。

 《明朝9:00 リアルタイムで、人質の解放を映像で送信する》

「せめて、明日のライヴには間に合わせてくれるンでしょうね」

 奈美が、毅然とした態度で言った。

「アンタの、そのプロ意識は尊重するよ」

 コージは、メールの送信ボタンを押しながら言った。

「あなたとは社会的ポジションが違うけど、アタシと同じ匂いを感じるわ」

 奈美は、コージに寄り添うようにしているメグミに向かって喋り出した。

「売れなくなッたら友達になれるなンて、調子こいたコトほざくつもり」

 メグミが、答えた。

「アタシは、仕事とおカネに恵まれてるけど、オンナは好きな男と一緒にいるのが一

番よね」

「ふン。オトコ一人のために、今の生活全てを捨てる度胸もないくせに」

「夢のためには、やりたくないコトもしなくちゃいけない時も、あるのよ」

「オトナになれッて、ゆーンでしょ」

「水と空気と、好きな男があれば良いなンてのは、バージンの夢物語よ」

「まわりがどーだろーと、あたしはコージのためなら、いつでも死ねるわ」

「そのパワーのベクトルを他に向ければ、あなたは今とは異なる人生を送れるはずよ」

「チョイ前までのあたしは、誰からも必要とされない、社会のカスだッた……けど、

コージにだけは、あたしのココロをあげられる」

「クズとカスが、傷をなめ合ッてるだけじゃないの。安上がりな純愛ゴッコを見ると、

吐き気がするわ」

 メグミは、その言葉にキレて奈美の顔を痛烈にビンタした。

 その瞬間、両手を縛られていた奈美がメグミの顔に唾を吐き返した。メグミが血相

を変えて、奈美に飛びかかろうとする。

「その辺で、やめとけ」

 コージは、メグミを制止した。

「うるさいよ。コージは、口をはさまないで!」

「そーよ。ギャラリーは、引ッ込ンでなさい」

 2人の女は、睨み合いながら言い放った。

「オー、コエー」

 誰も観ていないTVの放映時間が終わり、画面は砂の嵐に切り替わっていた。

「トイレ、行かせて」

 奈美が、言った。

 トイレの前で、メグミは奈美の縄を解いた。奈美は、無言のまま用を済ませて出て

来た。

 そして、両手を差し出した。

「いーよ」

 メグミは、縄をブン投げて言った。

「……身代金が、支払われなかッたら、アタシを殺すの?」

 奈美が、メグミの瞳をまっすぐに見ながら聞いた。

「あンたのカレシしだいだ。でも、あたし達、殺しはやらない。そこまでしたら、マ

ジでクズとカスになるから……」

 メグミも奈美の眼を見て、キッパリと答えた。

 池袋駅周辺に、通勤途中のビジネスマンやOLが、忙しげに歩いている。

 駅の西口でハザートを点滅させたロータスが駐車していた。

 車内時計が“9:00”を表示している。

 取引きの時間だ。

 後部シートに、当日の日付が見える位置でスポーツ新聞を持たされた奈美の姿があ

った。

 両手を縛られた上、シートベルトで固定され、ガムテープで口を塞がれてマスクま

でされていた。

 その姿がそのままデジタルカメラに撮られる。

 運転席でサングラスをしたコージが、指紋を残さないように手袋をはめながらノー

トパソコンのキーを叩いた。

 助手席には、同じくサングラスと手袋をはめたメグミがジッとモニターを見つめて

いた。

 ─“9:05”

 写真を送信してから、5分が経過した。

「シカベルこきやがッて」

 コージが、予想していたように言った。

「ゲロゲロ」

 メグミが、奈美をチラリと見て言った。

「どーやら、賞味期限が過ぎたらしい」

 コージは、奈美を一瞥しながら言った。

 2人の冷たい視線に、奈美は恐怖の表情をした。

 臨海副都心の一等地にあるペントハウスに置かれたパソコンモニターに、ロータス

のドアが映し出されていた。

 続いて、柄の部分が回転して刃が?き出しになったバタフライナイフの映像が映っ

た。

「ッ」

 モニターを見る音楽プロデューサーの小田の表情が変わったのは、ナイフの刃が直

角にドアに触れた時だった。

「おい、何をする気だ!」

 その鋭い刃が、ロータスのドアを真横に引っ掻いたのだ。

「よせーッッッ」

 小田は、モニターを叩きながら絶叫した。

「このロータス・エスプリは、『007/私を愛したスパイ』の撮影で使われた、世

界で一台しかないレアモノなンだ」

 本来、ミッドシップエンジンのため2人乗りのロータス・エスプリだが、撮影カメ

ラマン用の改造シートで奈美はコージの解説を聞いていた。

「カーマニアの小田が、イギリスのオークションで、10億円の値で落札した超ゲロ

高の逸品だ」

 コージは、そう言いながらパソコンで銀行口座の照会をした。

 モニター上に、振込みの金額が映った。

「やッぱりな。ヤツには、オンナよりクルマのほうが大事なンだ」

 コージは、勝利したように言った。

「サイテー」

 メグミが、横で言った。

「女が宝石を好むよーに、男はクルマに魅かれるンだ」

 と言いながら、コージは入金したカネの振替作業をした。

 中国人が経営する闇の地下銀行は顧客IDやそのプライバシーに全く触れない事で

その信用を得ている。

 ヤクザなどもマネーロンダリングに使用しているこの銀行のシステムは、まず日本

と中国それぞれに換金屋が常駐して、電話回線で出入金の確認をする。

 換金するカネは密輸入の形で双方の国に補填される。

 換金手数料は一律5%なので、金額が多いほど正規の銀行を経由するより安上がり

なのだ。

 そして、何よりも税金がかからない。

 こうして集められたカネは香港のチャイニーズ・マフィアが出資するフロント企業

の活動資金になる。

 貧しい寒村の中国人が多額の借金と生命のリスクを犯してでも、日本に密入国する

理由にはその事情があった。

 密入国である以上、日本でまともな職があるはずがない。

 中国本土で犯罪を働けばそこにはいられないが、他国で稼いだカネを持って帰れば

故郷の家族を養える。

 たとえ、それが汚れたカネでもだ。

 為替レートが格段に違う日本の円はそれほど魅力なのだ。

 衣食住に不自由のないコギャルやチーマーが、ブランドの購入費や遊ぶカネ欲しさ

でやる売春やカツアゲとは質が違う。貧困ゆえの犯罪である。

 貧者から搾取されて生まれた富は分配されて当然という思想は、古来より世界で続

いている。

 そこに宗教が絡むと、より複雑なものとなる。

 弱肉強食だからこそ、貧富の差が生まれるのだ。

 強者になる者はヒト・カネ・宗教など使える道具は何でも使用する。

 それに騙されるのが弱者になる。

 しかし、弱者のままで終わりたくないという者はさらに弱い者を作り出そうとする。

 こうして、貧富の格差は拡大していくのだ。

「目的は果たした。もう、自由にしていーぞ」

 コージの指示に、メグミが奈美の口からマスクとガムテープを?がした。

「その大事なロータスをもらッたアタシは、クルマより大切な存在だわ」

 耳だけは自由になっていた奈美は、口が利けるようになった瞬間に堰を切ったよう

に一気にまくし立てた。

「バーカ。それは税金対策だ。その証拠にクルマは会社名義だ。車検証見たコトねー

のか」

「……」

 コージの理論的説明に、奈美は押し黙った。

「アタシのよーにゲーノー人やッてると、付き合うオトコも仕事がらみの、いわゆる

広い意味での社内恋愛しかないの」

 奈美は、別の切り口で議論を持ち出した。

「そーゆー結婚は、自爆ッてゆーンだよね」

 メグミは、それを皮肉った。

「パパラッチの眼を気にせず、自由に一般ピープルと交際できるあなたが、羨ましい

と思うわ」

 奈美本人は、割と本音を言ったつもりだった。

「けッ。イチイチ、ムカツくオンナ」

 本心であるからこそ、メグミに取っては逆に気に障ったのだった。

「クルマの横に映っているステ看板を、拡大して下さい」

 小田のペントハウスに張り込んでいた刑事の一人が、モニター上に静止画面で映っ

ているロータスのドアを見て言った。

 小田は、マウスを操作しながら、映像をピンポイントでドラッグして拡大した。

 電柱にくくり付けられたテレクラの広告に、池袋店とあった。

「池袋だ!」

 刑事の一人がそう言うと同時に、他の刑事達も行動を開始した。

 新宿や渋谷で、わざわざ池袋の店のカンバンを上げる必要などない。

 池袋とステ看板にあるのならその駅周辺に間違いないのだ。

“緊急連絡! 池袋にマルヒ(容疑者)確認。付近の車両は、急行せよ”

 ロータスの車内で、コージは警察無線を傍受していた。

「ちッ」

 と、舌打ちをしながらクルマを発進させた。

 Uターンしようとした時、後ろからパトカーがサイレンを鳴らしながら迫ってきた。

 前に進もうとすると、路線バスが道を塞いでしまっている。

 やむなく、コージは歩道を横切って路地に車首を向けた。

 路地を抜けると、そこにもパトカーが集結していた。

 コージは、ロータスの車体をバウンドさせながら強引に縁石に乗り上げた。

 池袋西口駅前広場、有名なナンパスポットの通称ナンパコロシアムと呼ばれる大広

場にロータスが入ってきた。

“これは、映画の撮影ではありませン。危険ですから、今すぐ広場から退避して下さ

い!”

 パトカーからの呼びかけに、広場にいた人々が何事かと逃げ出した。

 コージ達の乗るロータスは、広場の中央で停車したままパトカーに包囲されて、袋

のネズミになっていた。

 車内で、コージはガスマスクを付けた。

 奈美にガクマスクを付けさせた後、メグミも付けた。

 駅前商店街の街頭テレビに、臨時ニュースのテロップが流れている。

 ナンパコロシアムには、TV中継車とパトカーの間に報道陣と警官、そしてヤジウ

マがごった返していた。

 コージは、準備していた煙幕弾に火を点けた。

「マルヒは、武器を使用しました!」

 現場にいた警官が、無線機に怒鳴った。

 ロータスが、激しい煙に包まれた。

 コージは、あらかじめ切断しておいたロータスの床を開けた。

 床下には、マンホールが見える。

「逃がすよ」

 メグミが、奈美の縄を解きながら言った。

「ああ。こッちも、バックレだ」

 コージは、車外に押し出される奈美を見ながら叫んだ。

 開放された奈美は、報道カメラと銃を構える警官隊を見てパッと表情を変えた。

「撃たないでッ、彼らを」

 奈美は、もうもうと煙を上げるロータスの前で、ガスマスクを外して訴えた。

 それはまるでTVドラマのヒロインのように、大げさな身振りだった。

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