第8話

食事とお酒が飲める静かな和食店の個室に康介と共に座っている。

接待で使った事がある店なのか、高級感がありお洒落だった。


「夕飯は食べた?」


「ええ。食べたけど、何か軽く頂くわ」


「分かった」


康介は適当に注文をし、お酒はどうするか雪乃に訊ねた。

一杯だけ付き合うつもりでビールを注文する。


康介が何を話すのか気になった。

外での食事だから険悪なことにはならないだろう。

お互い大人だ冷静に話ができればいいと雪乃は思った。



「スマホを修理した。というか新しく買いかえた。データはそのまま移行できたよ」


「そうなのね」


「弁償してもらう約束だからね」


雪乃はふふふと笑った。

まさか最初の会話が、スマホの弁償の話だとは思わなかった。


「彼女と別れたよ」


「そうなんだ。すんなり別れられたんだ?」


「正直言うと、そうでもなかった」


やはりそうかと思った。

真奈美さんは少なくとも康介に恋愛感情を持っていた。

そうでなければ、子供を預けてまで会いに行ったりはしないだろう。


「私は巻き込まれたくないから、できるだけ早く離婚届にサインして欲しいの。今日、持って来たわ」


鞄の中から封筒を出した。私の分は記入済みだ。


「俺は、離婚するつもりはない。というより、もう一度チャンスをくれないか?」


無理だというより、嫌だった。

長引くのも嫌だし、彼が私との結婚にこだわる意味も分からなかった。


「住む場所もそうだし、会社関係の手続きもなんだけど、ちゃんと離婚してもらわなくては困るの」


「ああ。わかっている。だけど、俺は君と離婚する気はない。だから、離婚しないで済む条件を出して欲しい」


ネゴが得意な康介らしい言い方だなと思った。


*****************************


飲み物と料理が来た。

冬筍穂無、里芋田楽、黒豆みぞれ寄せがお上品な小鉢に盛り付けられていた。

デートで訪れたとしたらきっと素敵だっただろうなと雪乃は思った。


「なぜ康介さんが私との結婚生活にこだわるのか分からないわ」


乾杯はせずに、ビールを一口だけ飲んで康介さんに訊ねた。


「愛しているからだよ」


康介さんはこれからの話の中で、この甘い言葉を連呼するだろうと想像がつく。


「半年も妻を抱かなかったのに?」


「ああ。抱かなかったけど、君を愛している」


「体と心は別物だって言うけど、男性の言い訳にしか聞こえない文言よね」


雪乃はわざと嫌味っぽく言ってみた。


「言い訳というより、実際俺の場合、体の関係は愛がなくてもできた。けして許される事じゃないのは分かっている。本当に必要なのは君だって気付かされた」


「後悔先に立たずってよく言ったものだわ」


「ぐうの音も出ないよ」


笑い話にはさせない。冗談で済まされる話ではない。


「康介さんを責めたくないけど、遊びで他の人を抱いたあなたの事は軽蔑するわ」


「君は俺を愛していると言ってくれた。だから、それに縋りたいと思っている。もう嫌いになったのかもしれないけど。もう一度だけチャンスが欲しい」


「あなたのことは本当に大好きだった。こんな素敵な人、他にいないと思う。理想の旦那様よ」


「それなら……」


「その愛する人を繋ぎとめられなかった自分に嫌気がさしたの。身を引こうと思った。あなたは他の人でも愛せるんだろうって思った」


「体だけの関係だった。もう二度としない」


この話には終わりが来ないだろう。

雪乃は一気にビールを飲んだ。

埒が明かないし、無駄な時間だ。


****************************


康介の話に流されないよう、いったん別の話に切り替えた。



「私の居場所、よく分かったわね」


「あらゆるホテルに電話しまくった」


康介さんの、まさかのアナログ戦法に驚いた。

彼女との別れ話に雪乃との離婚問題、妻の捜索。

そこまで康介さんが必死になるほど、自分の存在が大きかったとは雪乃には思えなかった。


「結婚生活にそれほど重きを置いていたとは思えない。戸籍にバツが付くことがそんなに嫌なの?」


「戸籍がどうなろうが問題はない。ただ、離婚すれば君とは夫婦でいられなくなるだろう。俺は雪乃と他人になりたくないし、雪乃が別の人生を歩むのも嫌だ。俺と一緒にいてほしい」


ただの自己満足なのだろうか。

雪乃は康介がどれほど自分を傷つけたのかを知ってほしいと思った。


「離婚……離婚しないで済む条件を出して欲しいって言ったわね?」


「ああ。君と離婚しないで済むならなんだってする」


「じゃぁ、この先半年間、私が浮気をするわ」


「……え?」


「私が、他の男性に抱かれるの」


「それは……いや、そんな事君ができるはずがないだろう」


思っても見ない言葉に康介は唖然とする。

雪乃からそんな条件が出るなんて考えてもみなかったのだろう。


「できる」


「……や、できない。雪乃はさっき、遊びで他の女を抱いた俺を軽蔑すると言った。軽蔑するような事を君がするはずはない」


雪乃はどうかしらというふうに首を傾げた。


「私はこの先半年間、水曜と金曜に他の男性に抱かれるわ。食事に行ったりデートしたり、旅行に行くかもしれない」


「俺は旅行には行ってない」


「そんなの知らない」


「雪乃は他に好きな人がいるの?」


「いいえ」


「なら、そんな無茶なことできるはずがないだろう」



できるわ。体の関係は、愛がなくてももてるってあなたが言ったんだから。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る