第3話

雪乃はホテルの入り口が見える路上、電柱と看板の後ろに隠れるよう立っていた。

夫と女性が出てきたところを撮るつもりでスマホを構えている。


(時間的に夫がもうすぐ出てくるだろう。しっかりと映像に残そう)


先程カフェで浮気の証拠集めについて検索した。

画像ではなく動画で残すのがいいと書いてあった。

けれど雪乃は夫が言い逃れできないように浮気現場の証拠を残そうと思っている訳ではなかった。

自分がちゃんと現実を受け入れられるように映像に残さなければと感じたのだ。


(私は康介を愛している。出会った時のまま、今もずっと彼のことが好きだ。けれど、その気持ちが一方通行なら意味がない)


さっき綾ちゃんが言った通り、惨めになるくらいなら諦めなければならない。

雪乃にはまだ子どもがいない。

自分は仕事もしっかりしているし、収入もちゃんとある。自分はひとりで生きていく選択ができる。


涙が頬を伝う。


(私は、強いからきっと大丈夫だ)



*******************



朝日が昇っている。疲れた様子で自宅マンションのドアを開ける雪乃。


昨夜はマンションに帰る事ができなかった。

ネットカフェで時間をつぶした。

康介の顔を冷静にみる自信がなかった。

康介には『綾が酔いつぶれたのでアパートまで送る。遅くなったのでそのまま彼女の部屋に泊まる』とメッセージを入れた。

雪乃が誰かの家に泊まるなど、結婚してから一度もなかった。

夫は少しでもおかしいと思うだろうか?

それとも、妻が帰らないのなら自分もラブホテルに泊まればよかったと思っただろうか。

何とも言えない表情で雪乃はダイニングテーブルにそっと鞄を置いた。


康介が雪乃が帰って来たことに気がついたのか寝室から出てくる。

部屋着姿でも所帯じみていないかっこいい康介だった。

背が高く短髪で清潔感がある。眼鏡をかけているから端正な顔立ちは優しく見える。


壁にかかっている時計を見ると今は朝の7時30分。



「おかえり。大丈夫だった?」

「ええ。ごめんね。綾ちゃんが酔っぱらっちゃってどうしようもなかったの」

「そうか、大変だったね。綾ちゃんって同期だったっけ?」


綾ちゃんは同期ではなく職場の後輩だ。

今まで何度も話をしたはずだった。それも康介は覚えていなかったのかと思い愛想笑いを浮かべて雪乃は「ウン」と頷いた。


「シャワーを浴びてないから、先にお風呂入ってくるね」


雪乃は寝室のクローゼットに着替えを取りに行った。

康介の顔を直視できない。

まるで自分の方が悪いことをしているみたいな気分になった。


「朝食を作っておくよ」


休日は朝食を作ってくれる夫。

家事も率先してしてくれて、仕事が忙しくても疲れた表情を見せない。


「ありがとう」


いつもと変わらず、優しい夫の態度。

雪乃は涙が出そうになるのを必死に堪えた。


雪乃は洗濯機の前に立っている。

昨夜着ていた夫のシャツの匂いを嗅ぐ。


(ああ……康介の匂いじゃない)


知らない香水の香り。

グッとシャツを握りしめる。



ダイニングテーブルに置かれたスクランブルエッグ、クロワッサンにカフェオレ。ヨーグルトにはベリーソースが添えてある。

用意してくれた朝食を無理やり口に運んだ。


食べられる気分ではなかった。クロワッサンは後で冷蔵庫にしまおうと思った。


「雪乃、誕生日おめでとう」


優しい眼差しで妻を見つめる康介。


「ありがとう」


「雪乃と結婚出来て、幸せだよ」


(誕生日は昨日だったわ)

無理やり笑顔を貼り付ける雪乃。


「今日はエグゼホテルのディナーを予約しているけど、大丈夫かな体調とか問題ない?」


エグゼホテルは最上級ランクのシティーホテルだ。

そこの高層階にあるスカイレストランはミシュランで星を獲得した人気店だ。


「ええ。大丈夫よ。けれど、今、少しだけ眠たいから午前中寝ちゃおうかな」


昼間から寝るなんて珍しいなと少し驚いて康介は眉を上げた。


「出かけるのは夕方からだから、ゆっくりしたらいいよ。昨日は職場の人に誕生日祝ってもらえたんだろう?仲良くていいな」


昨日は夫が接待だった(接待という名の浮気だったけど)から、誕生日は御馳走するからと言って、綾ちゃんが雪乃を誘ってくれた。綾ちゃんは先輩の雪乃に気を遣ってくれたんだと思う。


「そうよ。今の職場は人に恵まれていると思うわ。居心地もいいし楽しいわ」


「君が楽しそうで嬉しいよ」


夫の単純な笑顔が、以前とは違うように見えてしまう。

雪乃を上手に騙している人の顔だ。


「ごめんなさい。2時間くらい眠ってくるわね?洗濯機は回しているし、お昼はパスタでよければ、冷凍した作り置きのソースがあるからそれを食べてくれるとありがたい」


「ああ、わかった。昼まで寝てる?起こした方がいいなら一緒に昼ご飯を食べよう」


「私は適当に何か食べるから大丈夫」


そう言って朝食を終えた食器をシンクに運ぶ。

康介の食器も軽く流して食洗機に入れた。



寝室の夫婦のベッドに入った。


普段と変わらない夫の態度にモヤモヤする。

膝を抱えて寝室を見る。

寝室には、夫と一緒に撮った記念の写真がある。


昨夜はネットカフェで自分がやるべきことを整理した。


『夫と離婚する』


彼に慰謝料を請求したり、不倫相手を責めたりはしない。

雪乃は康介と円満に離婚する事を決意した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る