第3章 愛される資格【2】
『お前は王に相応しくない』
ざらついた声に目を開く。暗闇の中で色とりどりに光る星々が眼前に広がった。美しい光景が、なぜか悍ましく見える。背筋がぞくりと寒くなった。
『お前はこの国を滅ぼす大魔王になる』
砂嵐のような声がまとわりつく。耳を塞ぎたくても、体が動かなかった。
『邪魔をしないでくれ。あと少しで上手くいくんだ』
悪寒が走るのと同時に、全身から汗が噴き出すような感覚に陥る。この場から離れなければならない。だが、足が動かなかった。
『どうしてこんなこともできないの』
『ひとりではなんの役にも立たないくせに』
『お前が民のために何ができると言うんだ』
やめてくれ、と叫んだ声は喉に張り付いたまま、ただ喘ぐように荒い呼吸を繰り返す。
『お前は邪魔だ。それから、あの女も』
『少しはお姉ちゃんを見習いなさい』
『お前はキングの期待に応えることはできない』
上手く息ができない。酸素を失った肺に圧迫されたように涙が出てくる。雫が落ちた足元で波紋が広がった。それに合わせるように溢れて来る不協和音。まるで耳元で囁かれているようだった。
『ああ、目障りだ。お前はいなくなれ』
『お前はキングを失望させる』
痛いほどに跳ねた心拍に視界が歪む。
『――お前を王に選んだのは間違いだったよ』
……――
やっと呼吸を取り戻すように大きく息を呑み、リベルは覚醒する。
カーテンの隙間から、仄暗い月明かりが漏れている。風もないのにチェストのランプの光が揺らめいていた。
鼓動が早鐘のように脈打って胸が痛い。短い呼吸を繰り返すのに合わせ、涙が止め処なく溢れてくる。体を起こすと、まるで鉛のように重かった。
なんて酷い夢だ。
(僕はこの国を滅ぼす大魔王になる。きっと……キングは僕に失望する)
もしかしたら、夢ではないのかもしれない。そう考えると息が詰まった。悪夢だなんて、都合の良いように解釈しているだけなのかもしれない。この部屋の外で、誰かが同じように囁いているのではないだろうか。それが事実なのだから、リベルに否定する術はない。
(僕を王に選んだのは間違いだった……。僕は、勇者に討伐される)
それ以外に、自分には何もない。だから、愛される資格なんてない。
誰か、と呼び鈴に手を伸ばして、すぐに思い留まった。この鈴を鳴らせば誰かが来る。自分の夢見が悪いだけで、誰かの眠りを妨げていいなんてことがあるはずはない。
枕に顔を
悪夢かどうか、朝が来ればすぐわかる。目の前の事実が捻じ曲げられることはなく、目に映るすべてが真実。だからこそ、この目を開くのが怖かった。あの闇が待ち受けていたとしたら。彼がそれに打ち勝てるはずはなく、きっと支配されるばかりなのだろう。そう考えると、ただ恐ろしかった。
* * *
無理やりに閉じていた目が深い眠りに落ちることはなく、コマ送りのように過ごしているうちにカーテンの向こうが白み始めた。溜め息とともに体を起こし、伸びをする。結局、よく眠れなかった。
散歩にでも行って来よう、と寝間着から着替えて寝室を出る。それと同時に、あれ、と不思議そうな声が聞こえた。
「レクス、どうしたんスか? まだだいぶ早いっスよ」
声のほうを振り向くと、ドアのそばにフィリベルトの姿がある。夜間警護のために寝室のそばに控えていたのだ。
「あ、そうか……。僕は勝手に出歩いてはいけないんだね」
「勝手にはいけないっスけど、自分はレクスの行動を制限しろとは言われてないっス。散歩に行きたいなら自分がお供しますよ」
フィリベルトの明るい笑みが、リベルの心を少しだけ軽くしてくれる。釣られて小さく笑うと、悪夢の残像が薄れるようだった。
「少し庭園を散歩したいだけなんだ」
「この城の庭園は見るだけで楽しいっスよ。自慢の庭園っス」
庭園には一度だけ足を踏み入れた。キングの行動に驚いて逃げ込んだときだ。あのときはじっくり見ている時間がなかったが、美しかったことだけは記憶に残っている。あの光景の中にいれば、少しでも夢のことを忘れられるかもしれない。
目覚めの前の城内はしんと静まり返っているが、時折、すでに活動を始めている使用人とすれ違う。丁寧に辞儀をする使用人に応えながら庭園を目指した。
「それにしても、随分と早いお目覚めっスねえ。何かありましたか?」
「少し夢見が悪かったんだ」
「疲れてるんじゃないっスか? 戴冠式を終えたばかりで暴徒騒ぎっスからねえ」
暴徒の脅威がリベルに届くことはなかったが、リベルの心に重圧をかけたのは確かだった。
「僕が王にならなければ、あんな騒ぎは起きなかったんじゃないかな」
「誰が王になられても、ああいった騒ぎは必ず起きますよ。キングだって、最初から全国民に受け入れられていたわけではないっス」
「そうなの?」
「はい。キングが代替わりされたのが、いまから三百年ほど前っス。先代は急病でしたんで、キングも若かったんスよ」
人間だった頃の感覚が残るリベルにとって、三百年という数字が膨大に感じられた。しかし、魔族は百歳を超えないと成人しない。つまり三百年前というのが随分と若い頃であることは想像できた。
「あちこちで騒ぎが起きたもんっスよ。いまでこそ落ち着いてますが、当時は酷いもんでしたよ」
「フィリベルトはその頃のことを知ってるの?」
「自分も子どもだったんてよくわかってはいなかったっスけど、レクスは産まれる前っスからねえ」
リベルは以前の世界のことを考える。国のトップが代替わりした際には、もちろん反対派の人間が大勢、存在する。しかし、町の使者を騙って王宮まで侵入した暴徒が存在するのはかなり大事なのでは、という気がした。そもそも世界が違うことで基準も変わる。紫音が暮らしていた国は抗争すら起こらない場所だ。
「僕は村にいたからよく知らないけど、人魔抗争があったんだよね」
「そうっス」
「その戦いは人間軍の勝利で終わったって聞いたんだけど、どうしてキングは討伐されたことになったの?」
リベルの問いに、フィリベルトは僅かに渋い表情になる。
「キングから何もお聞きになられてないんスか?」
「うん……特には」
「そうっスか……。自分も詳細は知らないっスけど、キングご自身がお決めになってそういうことになったらしいっス。おそらく、争いを鎮めるためだと思います。人魔ともに被害が甚大でしたから」
彼らは「抗争」と言っているが、その実、確かな「戦争」であったのだろう、とリベルは考える。現状、リベルの目に映るこの国にその痕跡は見えない。それでも、リベルが新魔王として支援しなければならない場所が多数あるはずだ。そうであれば、キングの判断は間違いばかりではないのだろう。
「でも、代替わりまですることになるなんて大事じゃない?」
「そうっスねえ……。争いを収めるための代替わりっスけど……」
快活なフィリベルトにしては珍しく、言葉を選ぶように口ごもる。フィリベルトは理由を知っているようだが、軽々しく口にできるようなものではないらしい。リベルとしても無理やり聞き出すような真似はしたくないため、小さく息をついた。
「僕が王になる必要はなかったんじゃないかな」
「そんなことないっスよ! レクスは王として認められたんスから!」
フィリベルトは力強く言う。そこまで力強く言われては、リベルは笑うしかなかった。
「まだ戴冠式を終えたばかりっスから。そんな重苦しく考える必要はないっスよ」
「そうだね……」
「キングを見てください! あれで王様だったんスから!」
悪気の一切ない屈託のない笑顔を見せるフィリベルトに、リベルは声を立てて笑う。
「それはキングに言ったら怒られるよ」
「いや~怒らないんスよね~」
キングなら「そうだね」と穏やかに微笑んでいただろう。そう考えて、リベルはまた小さく笑った。
昇り始めた朝陽に照らされる庭園はリベルの記憶よりはるかに広く、色とりどりの花が咲き誇り、丁寧に整えられた低木や、剪定された木々がその荘厳さを煌びやかに演出している。中央には噴水もあり、実家のほうがはるかに狭い、とリベルはそんなことを考えていた。
「これは、レクス」
頭上から掛けられた声に顔を上げると、庭師の男が帽子を持ち上げて辞儀をする。
「おはようございます。朝のお散歩ですかな」
「おはようございます。こんな早くから手入れしてるんですね」
「植物の手入れは朝が大事ですから。朝の手入れをしなければ、花は綺麗に咲かないのですよ」
「だから庭園がこんなに立派なんですね」
「恐縮です。レクスの目を楽しませることができているなら光栄ですよ」
王宮の庭園は国の権威の証明である。これだけ広く美しい庭園を誇るこの王宮で、リベルはその頂点に立っている。この国とすべての民を愛する新魔王として。
この世界の運命を変える者として、破滅の大魔王になるわけにはいかない。神と姉の存在によってリベルの運命も確変されているはずだが、シナリオの強制力があるかもしれない、と姉は言っていた。その力が働いたとき、自分に抗うことができるだろうか。それができなかったとしても、いまのリベルなら、案ずる必要はないのだろう。
「レクス。何を考えてるんスか?」
「……ううん。何も」
リベルは薄く微笑んで見せる。この世界の運命は、いまの彼らには関係ないことだ。
「そろそろ部屋に戻ろうか」
「うっス。もうイーリスも来てる頃っスね」
この国を心から愛する。この先、自分がどうなろうとも。
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