キスで始まる、私と彼女のいびつな関係

水面あお

第1話 二人の関係性

 キスをされた。


 ファーストキスだった。


 初めてのキスはレモン味とか聞いたことあるけれど、動揺しきっていた私には味なんてわからなかった。 

 今まで感じたことのないような不思議な感触だけが深く刻みつけられた。

 

 軽く触れるだけ。

 

 それなのに、私の意識は全て吸い寄せられた。  

 同性なのに、心臓が大きく動いた。

 きっとキスなんてしたことなかったから動揺したんだと思う。


 けれど、なんでキスをされたのか、どうして相手が私なのか、何もかもがわからない。

 放課後にたまたま私と彼女だけが教室にいて、軽く話した程度。内容はキスで打ち消されてもう思い出せない。

 

 それでも、キスなんてする雰囲気じゃなかったのは確かだ。

 生まれて十六年、恋人なんていたことのない、恋愛とは無縁の人生を送ってきたのだ。

 いきなりこんな状況になって私は理解が追いつかない。


 唇が離れると、彼女の全体的な容姿が見えてくる。

 少し茶色がかった艶のある長髪。

 誘い込むような黒の瞳。

 そして、ほんのり色のついた柔らかな唇。

 その唇がさっきまで私に当てられていたのだと思うと、顔が熱を帯びた。


 蠱惑的な笑みを浮かべた彼女は、脳髄に植え付けるような刺激を私に残して「またね、葉月ちゃん」と風のように去っていった。


 茅野かやの咲月さつき

 

 それが私にキスしてきた彼女の名前だった。


 * * *


 昨日は放課後の件を引き摺り、うまく寝付けなかった。

 うつらうつらとした状態でなんとか先生の話を聞いていく。

 

 茅野さんが座る方をちらりと見る。彼女は普通に授業を受けていた。

 その真面目な横顔に、昨日の出来事が重ならない。まるで別人のようだった。


 

 気付けばまた、放課後を迎えていた。


 ぼんやりしていたからか、私以外に教室に残る人間は少ない。

 その中に茅野さんがいた。クラスメイトとのお喋りに興じている。彼女はクラスで人気者だった。フレンドリーで優しくて笑顔が可愛らしいと。

 しかし、からからと楽しげに笑うその顔は、やはり昨日の顔と重ならない。


 全てをなかったことにしたい私は、今が逃げ時だと思い、そそくさと帰り支度をして彼女らの脇を通り抜けた。幸いなことに、誰からも話しかけられなかった。


 廊下を進み、階段を降り、昇降口まで来てから溜め込んでいた息をどっと吐いた。

 

 ここまで来れば大丈夫。

 そう思って息を吐いたのに、背後から肩をトントンと叩かれた。

 驚いて変な声を上げそうになりながらも、ゆっくりと振り返る。


「葉月ちゃん、このあと時間ある?」


 茅野さんだった。

 平然と何食わぬ顔で私に語りかけてくる。


「……あります、けど」


 予期しない状況のせいで、馬鹿正直に答えてしまう。


「けど?」


「今から用事を作る予定なので、時間はなくなります」


 意味不明な受け答えをした。

 この程度で茅野さんが引き下がるはずもなく―― 


「それじゃあ行こっか」


「行くって……どこへ?」


 訝しむように目を細め、彼女へ尋ねる。


「わたしの家」


「…………え」


 * * *


 茅野さんの家はなかなか大きな家だった。

 彼女の自室は二階にあるようで、そこまで案内される。


 落ち着かない。

 正座した体勢のまま、足をむずむずとさせる。

 茅野さんは飲み物を取りに行くと言って出ていってしまった。


 気を紛らわせるため、主のいない部屋を見渡す。茅野さんの部屋は女の子らしくも男の子っぽくもない。無個性で、普通で、何の特徴もない部屋だった。


 そこに茅野さんという人を見出すことが出来ないほど、この部屋には際立つものがなかった。

 ごく普通の部屋なのに、寒気のするような異常さを覚えた。


「おまたせ」 

 

 茅野さんが手に盆を持ち、戻ってきた。

 麦茶を二つ、丸テーブルに置く。


 一口飲むと、緊張でわだかまっていた熱がいくらか冷やされた。

 

 茅野さんも対面に座り、麦茶を飲む。

 その唇に自然と目がいった。あの件を思い出すと、この場から逃げ出したくなるほどの羞恥に襲われる。


「ねえ、葉月ちゃん」


「なんですか、茅野さん」


 微かに睨むように彼女を見やる。 


「わたしに訊きたいこと、ない?」

 

「そりゃ、ありますけど」


 昨日の件とか、今のこの状況とか。

 訊きたいことしかなかった。


「質問にはちゃんと答えるから、いくらでも訊いてほしいな」


 私は少し間を開けてから、ゆっくり問い詰めた。 


「昨日の……あれは、なんのつもりですか?」


「愛情表現のつもりだよ」


 茅野さんは、にこやかに答えた。


「意味がわからないんですが。私のこと好きなんですか?」


「ううん、別に。でも……ドキッとしたでしょ?」


「……っ」

 

 彼女は昨日と同じ蠱惑的な顔を浮かべる。


「もう一回、してみる?」


「…………」


 する気ないんてないはずなのに、なぜか首を横に振れなかった。

 あの感触を、強烈で脳に刻み込まれるような焼き付く体験をもう一度味わってみたいと、私の知らない私が求めている。


「してみよっか」


 私の許可も取らずに、茅野さんは側にやってきて唇を近付けてきた。

 その動作は緩慢で、私が嫌だと言ったり、跳ね除けたりすれば容易に回避出来た。

 

 出来るはず、だった――


「……ん」


 無抵抗な私に、彼女の唇がそっと触れる。

 なんで……。

 ただ唇と唇が合わさっているだけなのに、私はすごく高揚感を覚えていた。

 こんな時間が続けばいいのに、なんて意味わからないことまで考えてる。


「どうだった?」


 唇が離れ、感想を求められる。


「別に……どうも」


「ほんとに?」


 茅野さんの顔をまともに見られない。

 きっと嬉しそうに笑っていることが、声音からは伺えた。


「すごくよかったでしょ? わたしも幸せだった」


 彼女の言うことを否定したいのに、本心は肯定したがっている。


「友達とも……してるんですか?」


「してないよ。葉月ちゃんだけ」


「どうして……」


「だって同じなんだもん。わたしも葉月ちゃんも愛されてない、誰からも。その愛に飢えたような暗い瞳を見ればわかるよ」


「…………っ!」


 まるで心の中を覗かれたようなその言葉に、ぞくりと悪寒が走る。

 親に愛されていないことも、友達関係がうまくいかないことも、この人に何もかも知られているんじゃないかと、全て彼女の手のひらなんじゃないかという恐怖が押し寄せてくる。


「わたし得意なんだ。人の本性を見破るの」


 なんてことのないように茅野さんは話し出す。


「キスしてる時だけさ、紛い物の愛を感じられない? 満たされたような気分になってこない?」


 その通りだった。私は茅野さんとキスしている間だけ満たされたような気持ちになった。自分はここにいていいんだと認められたみたいだった。

 

 きっと茅野さんも同じ気持ちなのだろう。

 だから私と、その感情を求めて共有するように唇を重ねるのだろう。


「また明日もしよっか」


 そう言って、何事もなかったかのように茅野さんは笑った。

 

 いびつな関係だ。

 私と茅野さんは別に友達でもないし恋人でもない。なのにキスだけする。

 

 こんなの一刻も早くやめるべきなのに。 

 私はきっと明日も、明後日も、その先もずっと、彼女とキスしてしまうのだろう。



────────



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