【短編】さくらの季節
柊れい
さくらの季節
朝のホームは、いつも通りの喧騒に包まれていた。人の流れは時計の針みたいに規則的で、乗り遅れたらすべてが狂ってしまう――そんな緊張感を抱えながら、俺もその一部として流れに飲み込まれる。
「相馬、今日も眠そうだな」
クラスメイトの木村が、肩を軽く叩きながら隣に並んできた。俺は軽くうなずいて返事をしたが、実際のところ、眠いというよりは気分が沈んでいた。
最近、どうも気持ちが重い。何か特別な理由があるわけじゃない。ただ、日々が単調すぎて、目の前の風景が薄くぼやけて見えるような感覚が続いている。
「それにしても、さくらちゃん、今日も元気そうだよな」
木村が視線を向けた先、北条さくらはいつも通りの派手な笑顔でクラスの中心にいた。周りの女子たちが笑顔で彼女に話しかけている。さくらは明るくて、誰にでも優しい。けど、俺にとってはその存在がどこか遠くて、なんだか現実味がない。
「お前さ、北条と話したことあるのか?」
木村の問いに、俺は肩をすくめる。「ないよ。話しかけられたこともないし、こっちから話しかける理由もないしな」
「お前なぁ、もっと社交的になれよ。あの手のタイプ、男子からは結構モテるぞ?」
「いや、別に俺は興味ないし」
本当は嘘だ。正直、さくらにはちょっと興味があった。あの明るさ、元気さ、何もかもが眩しくて、俺とは違う世界に生きてるように思えた。自分なんかが近づいたところで、どうせすぐに忘れられるだけだろうと、そう思っていた。
「興味ないわけないだろ。さくらちゃんが相馬に話しかけたら、お前もびっくりするんじゃないか?」
木村がニヤニヤしながらそう言うけど、俺は無言で前を向いた。正直、何を話せばいいのかすら分からない。クラスの人気者と俺が話すことなんて、たかが知れてる。想像するだけで気が重くなる。
だが、そんなことを考えている間も、さくらの笑い声が耳に入ってくる。彼女は特別意識していないだろうけど、やっぱり俺にとっては、その存在が目立ちすぎる。彼女の声が響くたびに、なんとなく胸がざわつく。
++++++++++
次の日、俺はいつも通り学校に着いた。何も変わらない平凡な朝。クラスメイトたちはそれぞれグループに分かれて話しているし、俺も特に誰とも話すことなく席に着いた。だが、その日は少し違っていた。
「おはよう、相馬くん!」
突然の声に、俺は驚いて顔を上げた。そこには、さくらが立っていた。いつもは俺の方を見ないはずの彼女が、なぜか俺に声をかけてきた。
「……お、おはよう」
思わず返事をしたが、なぜ彼女が俺に話しかけたのかが理解できない。木村の冗談が頭をよぎった。「さくらちゃんが相馬に話しかけたらびっくりするだろ?」……まさにその瞬間が訪れたわけだ。
「今日、放課後に少し時間ある?お願いしたいことがあるんだけど」
彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔に少し驚きながらも、俺は「うん」と返事をした。本当に、なんで俺なんだろう。まったく意味が分からない。
++++++++++
放課後、俺は約束通り、校門の前でさくらを待っていた。正直、何が起こるのか全然予想できない。彼女が俺に何を頼むのか、その理由がさっぱり見当つかない。
すると、さくらが校門から駆け寄ってきた。
「待たせてごめんね! 急なお願いでびっくりさせちゃったよね。でも、どうしても相馬くんに頼みたくて」
「うん、別にいいけど……何を頼みたいの?」
「実はね、今度友達のサプライズパーティーをやろうと思ってて。相馬くん、手伝ってくれないかな? 男子が少なくてちょっと困ってるの」
……パーティーの手伝い? 俺はてっきり、もっと個人的な頼み事かと思っていたが、どうやら違ったようだ。少し拍子抜けしたものの、これでクラスの他の男子と一緒にワイワイできるなら、それはそれで悪くないかもしれない。
「いいよ、手伝う。俺でよければ」
「ありがとう! 本当に助かるよ。じゃあ、今度の金曜、放課後にまた集まろうね」
そう言って彼女は軽やかに手を振り、そのまま走っていった。
俺は少し呆然としながら、彼女の背中を見送った。なんで俺に頼んだんだろう。クラスの中でもっと目立つ男子がいるのに、どうして俺なんだ? それにしても、突然話しかけられて、まるでこの一週間が何か大きく変わるような気がする。
その日から、さくらとの距離が少しずつ近くなり始めた。
++++++++++
次の日から、さくらは何かと理由をつけて俺に話しかけてくるようになった。廊下ですれ違うときに「おはよう」とか、昼休みに「一緒に食べない?」とか。少し前までは、さくらが自分から俺に話しかけるなんて想像もしていなかった。それが、急に頻繁に声をかけてくるようになった。
クラスの他の連中も、最初は驚いていたようだが、次第にそれが「普通」になっていった。もちろん、俺としては毎回心臓がバクバクしているわけだが、さくら自身は至って自然体で、何事もなかったように接してくる。
「相馬、最近さくらちゃんとよく一緒にいるな」
昼休み、木村がニヤニヤしながら話しかけてきた。「お前、ついにモテ期が来たんじゃないか?」
「いや、別にそういうんじゃないし……ただの偶然だよ」
「お前、そうやって気づかないフリするの得意だよな。でもさ、さくらちゃん、ちょっとお前に気があるんじゃねえか?」
「そんなわけないだろ」
俺は冷静を装いながら返事をするが、心の中では少し動揺していた。確かに、さくらが俺に対して特別な感情を持っているようには見えない。彼女は誰に対してもフレンドリーだし、俺にだけ特別親しいわけでもない。
だが、それでも俺の中で何かが変わり始めているのを感じた。彼女が笑顔で話しかけてくるたびに、何かが少しずつ揺れ動いていく。今まで無関係だと思っていたはずのさくらが、急に身近な存在に感じ始める――そんな感覚。
しかし、この時の俺はまだ知らなかった。彼女が抱えている秘密を。そして、その秘密が、俺たちの関係をどう変えていくのかも。
++++++++++
その日の放課後、俺たちは例のパーティーの打ち合わせをするために集まった。教室に集まったのは、さくらを含めて5人。ほかのクラスメイトたちも手伝うことになっていたが、俺は完全に浮いていた。女子たちはキャッキャと盛り上がり、男子もそれに乗って楽しそうに話している。そんな中、俺は特に話すこともなく、少し離れて座っていた。
「相馬くん、これ見て!」
さくらが突然、俺に話しかけてきた。スマホの画面には、パーティーのアイデアや飾りつけのイメージが表示されている。カラフルな風船やリボン、テーブルクロスなど、さくららしい明るくてポップなデザインだ。
「いいんじゃない?賑やかで、さくららしい感じだし」
「あ、ほんと?よかった~。こういうのって、意外と難しいんだよね。相馬くんの意見も参考にしたいなぁ」
俺なんかの意見が役に立つのか?と思ったが、どうやらさくらは本気で俺の反応を気にしている様子だ。俺は少し戸惑いながらも、スマホを見つめるさくらの横顔に目をやった。彼女の横顔は、いつも笑顔で輝いているが、今日はどこか儚げに見える。なぜだろう?こんなに元気そうなのに、彼女が何かを抱えているような気がしてならない。
「……相馬くんは、こういうパーティーとか得意じゃないよね?」
不意に、さくらがそんなことを言い出した。俺が目を見開くと、彼女は少し笑って続けた。
「だって、ずっとあんまり話さないし、周りを見てるだけって感じだから。でも、そんな相馬くんにお願いして本当に良かったって思ってるんだ。なんか、頼りがいがあるし……一緒にいると、安心するんだよね」
「そ、そうか?俺は全然そんなつもりじゃなかったけど……」
なんだか不思議な気分だ。俺みたいなやつが「頼りがいがある」なんて、そんなこと言われたことはなかった。さくらが笑顔でそう言うたびに、俺の心の中が少しずつ温かくなっていく。
パーティーの準備は順調に進んだ。打ち合わせを重ねるたびに、さくらとの距離も自然と近くなっていく。彼女はいつも明るく振る舞い、みんなを笑顔にするが、時折見せる一瞬の沈黙や、ふとした表情の陰りが、俺の胸に引っかかっていた。
ある日、俺は思い切って彼女に質問してみることにした。
「さくら、なんか最近……すごく元気そうだけど、なんか無理してないか?」
突然の質問に、彼女は一瞬驚いた顔をした。しかしすぐにいつもの笑顔を浮かべ、
「えっ、何それ?全然大丈夫だよ!」
と軽く笑って見せた。
「そっか……でも、何かあったらちゃんと言えよ。俺にはそんなに頼れないかもしれないけど」
「ふふっ、ありがとう、相馬くん。ほんとに優しいんだね」
そう言って彼女は微笑んだが、その微笑みにはどこか寂しさが混じっているように見えた。それ以上追及することはできなかったが、その日のさくらの笑顔は、いつもよりも少しだけ遠く感じた。
パーティー当日、準備は滞りなく進み、みんなが楽しそうに過ごしていた。さくらもその中心で明るく振る舞っている。俺は遠巻きにその様子を見守りながら、彼女の姿を目で追っていた。
「相馬くん、楽しんでる?」
さくらが突然俺の近くにやってきて、少し頬を赤らめながら話しかけてきた。彼女はいつものように明るい笑顔を浮かべているが、どこか疲れているようにも見える。
「まあ……楽しいよ。さくらが頑張ってくれたおかげだし」
「そっか、よかった。私も、今日がすごく楽しいんだ」
そう言って、さくらは少し遠くを見つめるように目を細めた。その瞬間、俺は彼女に聞きたかったことを思い切って口にしてみた。
「……さくら、本当に大丈夫か?最近、ちょっと無理してるように見えるけど」
彼女は一瞬動きを止め、俺の目をじっと見つめた。その目は、普段の明るさとは違う、深い悲しみがこもっているようだった。
「…大丈夫だよ!心配してくれてありがとう!」
彼女の笑顔はいつもの笑顔だった。少し感じた違和感は俺の思い過ごしだったのだろうか。
++++++++++
いつも通り教室でぼんやりとしていた俺は、不意に背後から声をかけられた。
「相馬くん、ちょっとお願いがあるんだけど!」
その声に驚き、振り返るとそこには満面の笑みを浮かべたさくらがいた。「またか」と思いつつも、なんとなく嫌な予感がした。
「えっと、何か用?」
「うん、ちょっと手伝ってほしいことがあってね。いいでしょ?」
「いや、何を手伝うかにもよるけど……」
俺が返事をする前に、さくらはすでに俺の腕を引っ張っていた。力強く引っ張られるままに立ち上がり、教室の外に連れて行かれる。
「ちょっと、どこに行くんだよ!」
「部活動の手伝い! 今日、みんなが来れなくて人手が足りないんだよね。だから相馬くんに助けてもらいたくて」
「いや、俺は部活に入ってないし……」
「そんなの関係ないよ! 大丈夫、簡単な作業だから!」
そう言うと、さくらはさっさと廊下を歩き始めた。俺は心の中でため息をつきながらも、逆らうわけにもいかず、彼女の後を追った。
さくらが所属しているのは文化祭実行委員会で、どうやら今日は展示物の準備をする日だったらしい。教室に入ると、そこには色とりどりの画用紙やら、装飾品が山積みになっていた。
「ほら、これをこの箱に詰めてね! あと、あっちの机の上にある道具も並べてくれる?」
「おいおい、これ全部やるのか?」
「うん! でも、二人でやればすぐ終わるよ。頑張ろう!」
さくらはにっこり笑い、手際よく作業を始める。俺もやるしかないと思い、無言で画用紙を箱に詰め始めた。
時間が経つにつれて、俺は気づいた。さくらは確かに明るくて社交的だが、その一方で、何かしら突拍子もない行動を取ることが多い。これはただの一部分に過ぎなかった。
次の日、教室で自分の席に座っていると、再びさくらがやってきた。
「相馬くん! 今日もお願いがあるんだけど!」
「またかよ……今度は何だ?」
「宿題見せてほしいんだ。ちょっと忘れちゃって、困っててさ」
「宿題くらい自分でやれよ……」
「だって、昨日相馬くんに手伝ってもらった分、疲れてて寝ちゃったんだもん!」
そんなわけあるか、と心の中でツッコミを入れながらも、さくらの頼みを断るのはどこか難しい。結局、俺は彼女にノートを渡す羽目になった。
さくらは満足げに「ありがとう!」と笑顔を浮かべて俺のノートを写し始める。俺はそれを横目で見ながら、なんだかやたらと巻き込まれている自分に、少し疲れを感じ始めた。
その週の金曜日、放課後になった途端にまたさくらが俺の前に現れた。なんとなく予感がしていたが、また何かに巻き込まれるのだろう。
「相馬くん、今日も付き合ってくれる?」
「今度は何だよ……」
「一緒に出かけようよ!放課後ってどうせ暇でしょ? せっかくだから、ちょっと外に行こう!」
「え? いや、別に暇じゃないけど……」
「大丈夫、大丈夫! 相馬くんが嫌でも楽しませるから!」
そう言って、さくらは強引に俺の腕を引っ張る。俺は反論する間もなく、彼女に連れられて学校を後にした。
その日の行き先は、近くのショッピングモールだった。特に用事があるわけでもない俺は、さくらに連れ回されるままだった。
「ここ、最近できたばっかりなんだって! 見て回ろうよ!」
さくらは楽しそうに言いながら、次々と店に入っていく。俺はただその後ろをついていくしかなかった。
「ねぇ、この服、どう思う?」
彼女は服屋に入るなり、さっそくピンクのカーディガンを手に取った。まるで彼氏にファッションチェックを求められているようで、なんだか落ち着かない。
「似合うんじゃないか? さくらっぽいし」
「ほんと? じゃあ買っちゃおうかな!」
そんな調子で次々と店を巡り、気づけば夕方になっていた。俺は体力が尽きかけていたが、さくらはまだ元気そうだった。
「ねぇ、今日楽しかったでしょ?」
さくらが突然俺に聞いてきた。
「まあ、悪くはなかったけど……お前、本当にタフだな」
「ふふ、ありがと!相馬くんも結構付き合ってくれて、楽しかったよ。これからもよろしくね!」
さくらはそう言い残し、夕日に向かって駆け出した。俺はその背中を見ながら、なんとなくこれからも振り回される未来を予感していた。
++++++++++
その後も、さくらの「お願い」は続いた。放課後に何度も「ちょっと手伝って」と言われたり、昼休みに「一緒にご飯食べよう」と誘われたり。部活動の手伝いや、さらには彼女の友達のグループにまで連れ出されることもあった。
「お前、最近さくらとやたら一緒にいるな」
クラスメイトの木村が、昼休みのある日、俺に声をかけてきた。そう言われて改めて思うが、確かに最近、俺はさくらといる時間が増えていた。
「いや、俺もなんでこうなったのか分からないんだけど……気がついたら、巻き込まれてるって感じだよ」
「へぇ、そういうのって羨ましいな。お前、やっぱりモテ期来たんじゃねえの?」
「…だといいな…ただこれは振り回されてるだけだ」
俺が言い返すと、木村は笑いながら「ま、頑張れよ」と肩を叩いて席を立った。モテてるなんてことはない。さくらはただ俺を使い勝手のいい存在だと思っているだけだ。それに、俺も別に彼女のことが好きってわけでもない……はずだ。
そう思いながらも、最近の自分の心境の変化に気づき始めていた。さくらの突拍子もない行動に巻き込まれるたび、最初は面倒だと思っていたはずなのに、次第にそれが普通になり、どこか心地よくすら感じている自分がいる。
そして、次第に俺は彼女との時間を待ち望んでいる自分に気づいていくのだった。
++++++++++
最近、俺の生活は以前とは大きく変わっていた。クラスでは、いつの間にかさくらと一緒にいる時間が増え、気づけば毎日のように彼女に振り回されている。以前なら面倒だと思っていたはずの出来事が、今では当たり前のように感じられるようになっていた。けれど、それ以上に不安や戸惑いが心に渦巻いていた。
さくらはどうして俺にばかり絡んでくるんだろう?
そう思わずにはいられなかった。彼女はクラスの人気者だ。誰とでも仲良くなれるし、いつも笑顔で楽しそうにしている。そんなさくらが、なぜ俺なんかにこんなに関心を持っているのか、理由がまったくわからない。
「相馬くん、今日も一緒に昼ご飯食べようよ!」
さくらが、いつものように声をかけてくる。クラスメイトたちはちらりとこちらを見て、少し興味深げな視線を送ってくるのが分かる。俺が軽く手を振って断ろうとする前に、さくらはすでに俺の机の前に座り込んで、ニコニコとお弁当の包みを広げていた。
「なぁ、さくら……」
「ん? なに?」
俺は口を開きかけて言葉を飲み込んだ。どうして俺ばかりに絡むのか、そんなことを聞くのは不自然だろうか。でも、これ以上何も知らないまま振り回され続けるのは辛かった。俺の胸の中で、さくらの存在がどんどん大きくなっている気がしていたからだ。
「いや、何でもない……」
結局、言えなかった。
++++++++++
そんな日々が続くうちに、クラスメイトたちの反応も少しずつ変わってきた。
「おい、相馬。お前、さくらと付き合ってんの?」
休み時間に、木村がニヤニヤしながら声をかけてきた。周りにいた数人の男子も興味津々といった様子で、俺の顔をじっと見つめている。
「いや、そんなわけないだろ。ただ、あいつが何かと俺に頼んでくるから……」
「へぇ? でも、あんなにしょっちゅう一緒にいると、他の奴らも勘違いするぞ。あ、もしかして相馬、お前もさくらに気があるとか?」
「な、なんでそうなるんだよ! 俺はただ、巻き込まれてるだけだって」
俺が否定すると、木村たちは「そうか〜?」とからかいながら、笑い声をあげて去っていった。
彼らの言葉に少しだけ苛立ちを覚えたのは、自分でも驚きだった。さくらと俺が一緒にいるのは、ただの偶然の積み重ねだし、特に特別な関係でもない。それなのに、なぜ俺はこんなにも心が揺れ動くんだろう?
その日の放課後、またもやさくらが俺を呼び止めた。
「相馬くん、今日も付き合ってくれるよね? ちょっと寄りたいところがあってさ!」
「え? またどこか行くのか?」
「うん、今日こそは相馬くんが喜んでくれる場所だと思うよ。ちょっとお楽しみにしてて!」
彼女の言葉に、俺はなんだか嫌な予感がした。以前にも何度か「付き合って」と言われて振り回された経験があるし、今回もその延長だろうと想像がつく。それでも、俺はなぜか断れずに、彼女について行くことにした。
目的地は意外にも、近くのカフェだった。大きな窓が印象的な落ち着いた雰囲気の店内に入ると、さくらはいつもとは違う真剣な表情で俺を見つめた。
「ねぇ、相馬くん。最近、なんか悩んでない?」
「え? なんで急にそんなことを……」
「だって、なんだか元気なさそうだったし、みんなの前でもちょっとぼーっとしてたからさ」
さくらの言葉に、俺は言葉を失った。自分でも気づかなかったが、どうやら彼女は俺の内心を見抜いていたらしい。
「いや、別にそんなことはないけど……」
俺は無理やり笑顔を作って返事をしたが、彼女はそれを見透かしたかのように首をかしげた。
「そっか。でも、なんかあったらちゃんと話してね。私で良ければ、力になるから」
その言葉に、俺の胸が一瞬締め付けられるような感覚がした。さくらは、俺を気にかけてくれている。でも、その理由がまったくわからなかった。
「……さくら、お前はどうなんだよ。なんで、そんなに俺に構うんだ?」
思わず、俺の口からその問いが飛び出した。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「え、なんでだろうね? なんとなく、相馬くんが放っておけないっていうか……いつも一人でいるのが寂しそうだったからかな」
「寂しそう、か……」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。確かに、俺は友達が少なく、クラスの中でも孤立している方だ。それを自覚していながら、特に変わろうとは思っていなかった。そんな俺にさくらが絡んでくる理由は、ただの気まぐれだったのかもしれない。
でも、どうして彼女のそんな言葉に、俺はここまで心が揺れるんだろう?
次の日、学校ではさらに妙な噂が広がっていた。
「相馬とさくら、やっぱり付き合ってるんじゃないか?」
「なんか、最近やたら一緒にいるよな」
「まさか、相馬にそんな甲斐性があるとは思わなかったけど……」
廊下を歩いていると、クラスメイトたちのそんな声が耳に入ってくる。俺はそのたびに、心の中で否定しようとした。だけど、どこかで自分自身もその噂を否定しきれなくなっていることに気づいていた。
俺は、さくらのことをどう思っているんだろう?
彼女に振り回される毎日が、最初は煩わしいと思っていたはずなのに、今ではそれがないとどこか物足りなく感じる。彼女の笑顔を見ると、自然と嬉しくなるし、何より、彼女のためなら少し頑張ってもいいかもしれないと思う自分がいた。
でも、それが「好き」なのかどうかはわからない。そもそも、さくらの行動には一貫性がなく、彼女の本当の気持ちが読めない。彼女が俺に対して何を考えているのか、何を求めているのかが、まったくわからなかった。
そんな日々の中で、俺は次第に自分の気持ちに気づき始めていた。
さくらが俺に絡んでくる理由を考えるたびに、心のどこかで「彼女も俺に好意があるんじゃないか」と思う自分がいた。だが、それが確信に変わることはなく、さくらの行動はますます理解不能なものに思えてくる。
「相馬くんってさ、ホントにわかりやすいよね」
ある日、さくらが何気なくそう言ったとき、俺は少し驚いた。俺は自分のことをそんなに簡単に見透かされるような人間だとは思っていなかったからだ。
「いや、そんなことないと思うけど……」
「ううん、相馬くんはすごく優しいんだよ。だから、私はついつい頼っちゃうんだ」
「……頼るって、ただ俺を便利に使ってるだけじゃないか?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ」
さくらは、まるで意味深なことを言うように笑いながら、俺の顔をじっと見つめた。その視線が、どこか心に引っかかる。そして、俺の中に渦巻いていた感情が少しずつ形になり始めるのを感じた。
俺は、さくらのことが――
だが、その結論にたどり着く前に、さくらが突然「じゃあ、またね!」と言って、教室を飛び出していった。俺はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
その夜、俺は布団の中で何度もさくらのことを考えた。彼女の笑顔、突拍子もない行動、そして、俺を振り回しながらも気にかけてくれるその優しさ。
俺は、やっぱりさくらのことが――
答えはもう、目の前にあるのに、それを認めることができない自分がいた。明日、俺はさくらに何を伝えるべきなんだろう?
俺の心はまだ、さくらの真意に戸惑い続けていた。
次の日になればまた絡まれる。きっとその繰り返しの日々になるのだろう。この時はそう考えていた。しかし…
++++++++++
さくらが学校に来なくなってから、気づけば一ヶ月が経っていた。
最初の数日こそ「風邪でもひいたのかな」なんて軽く考えていたけど、日が経つにつれて胸騒ぎが大きくなっていった。だんだんと心のどこかで「何かがおかしい」と感じ始めていた。教室でいつも隣にいた彼女の姿がない。あの騒がしくて、明るくて、笑顔が眩しかったさくらが、ただいなくなるだけで、こんなにも世界が変わるものなのか――。
学校の帰り道、無意識のうちにスマホを手に取る。
「さくら、大丈夫か?」
送信ボタンを押してから、深い溜息がこぼれた。これで何通目だろう。彼女からの返信は一切ない。もう何度も同じようなメッセージを送り続けていたが、彼女からは全く返事が来ないままだった。だが、それでも俺は送るのをやめられなかった。さくらが何をしているのか、何を考えているのか、少しでも知りたかった。
自分でも、こんなにも彼女のことを考えていたなんて気づかなかった。毎日のように振り回されて、面倒だと感じていたはずなのに、いざ彼女がいなくなると、こんなにも寂しい。
「さくら……」
小さく名前を呟いた瞬間、スマホが震えた。画面を見ると、「さくら」からの名前が表示されている。俺は驚きで一瞬固まったが、すぐに応答ボタンを押した。
「……相馬くん?」
電話越しに、久しぶりに聞くさくらの声。少し弱々しく聞こえるのは気のせいだろうか。
「さくら……お前、どうしたんだよ! ずっと連絡なかったから、心配してたんだぞ!」
俺の焦りが、声にそのまま現れてしまった。さくらは一瞬だけ黙り込んだ後、ぽつりと「ごめんね」と謝った。
「ちょっと……体調が悪くて……」
「体調? そんなに悪いのか? 何かあったのか?」
俺は立ち止まり、思わず声を荒げた。電話の向こうからさくらの呼吸音が聞こえる。彼女がどこかで涙をこらえているような、そんな気がした。
「相馬くん……会って話したいんだけど、いいかな」
彼女の静かな声に、俺は心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。
「……わかった。いつ? どこで?」
次の日の放課後、俺はさくらが指定した公園にいた。
桜の木の下のベンチに腰掛け、俺はずっとスマホを握りしめていた。心臓の鼓動が異様に早い。手のひらには冷たい汗がにじんでいた。どうしてだろう、さくらの話を聞くのが怖かった。
しばらくして、入り口にさくらの姿が現れた。母親らしき女性も一緒にいるようだ。その女性は気を利かせてくれたのかどこかへ行った。それにしても久しぶりに見る彼女の姿は、どこかいつもと違って見えた。彼女の明るい笑顔は、影を潜めていた。
「待たせた?」
「いや、俺も今来たところだ」
俺は立ち上がり、ぎこちなく笑った。彼女が目の前にいるというのに、言葉が出てこない。座りながら、彼女の顔をちらりと見た。肌が少し青白い気がする。やっぱり、何かがあったんだ。
「さくら、お前……」
「相馬くん、ごめんね」
さくらは唐突にそう言って、俺の言葉を遮った。
「本当は、こんな風に迷惑かけたくなかったんだけど……でも、ちゃんと話しておかなきゃって思ったの」
彼女の瞳に、一筋の涙が浮かんでいるのを見て、俺の胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
「俺……お前に言いたいことがあるんだ」
俺は、その言葉を振り絞った。心臓が高鳴る。ずっと言いたかった言葉が、喉の奥まで来ている。けど、同時にその言葉が怖かった。言ったら、もう引き返せない気がして。
「俺、お前のことが――」
「相馬くん、待って」
さくらが、俺の言葉を止めた。
「言わないで。……私には、答える資格がないから」
彼女の涙が、頬を伝って静かに流れ落ちた。俺はその光景に、どう反応すればいいのかわからなかった。彼女が何を言いたいのか、頭の中で整理できない。
「答える資格って……どういうことだよ?」
俺の問いかけに、さくらは唇を噛んで、視線を逸らした。そして、しばらくの沈黙の後、彼女は小さな声で言った。
「私……2年前に、一度白血病を発症したんだ」
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。耳鳴りがする。自分の心臓の音しか聞こえない。
「治療して、なんとか寛解したんだけど……先月、再発しちゃったの」
再発――その言葉の重みが、俺の胸にのしかかる。信じられなかった。目の前にいるさくらが、そんな病気を抱えているなんて。
「そんな……じゃあ、今はどうしてるんだ? 病院は? 治療はしてるのか?」
俺は混乱した頭で、なんとか言葉を絞り出す。さくらは小さく頷いた。
「うん。今は退院して、通院で治療を受けてる。でも……」
さくらの声は震えていた。俺はどうしたらいいのかわからず、ただ彼女の顔を見つめていた。
「だからね、相馬くん。私……相馬くんと付き合うことなんて、できないよ」
さくらは、そう言って泣きながら微笑んだ。彼女のその笑顔が、俺の心を鋭く抉った。
「でも……」
「私、普通の青春が欲しかったんだ。中学は病院がほとんどだったから。高校では病気のことなんて気にせずに、友達と遊んで、笑って……恋愛だってしてみたかった」
さくらの涙は止まらない。俺は何も言えず、ただ彼女の言葉を聞くしかなかった。
「相馬くんはなんか1人でいること多くて私と重なって見えちゃって、なんかごめんね。でも相馬くんと一緒にいると、本当に楽しかった。だから、つい……ずっとこうしていられたらいいなって思っちゃって。でも、それは私のわがままだったんだよ」
「そんなことない……俺は、そんなの関係ない。お前と一緒にいたいんだ!」
俺は、衝動的に言葉を吐き出した。自分でも驚くほど、強く、そして切実に。彼女の病気が何であろうと、俺は彼女のそばにいたい。そう思っていた。
でも、さくらは首を振った。
「相馬くん、ありがとう。でも、これ以上、私はあなたを巻き込むことはできない。あなたには、もっと明るい未来があるから」
俺は、それ以上何も言えなかった。さくらの決意のこもった瞳が、俺の言葉を封じてしまった。
「……さくら……」
俺は彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。言葉が出てこない。さくらはそんな俺に、静かに微笑んだ。
「ありがとう、相馬くん。私、こんなに誰かに大事にされて、嬉しかったよ。今までの人生の中で、一番幸せな時間だった。」
その言葉が俺の胸に刺さる。さくらが言っている「一番幸せな時間」というのが、これからも続かないことを前提にしていることがわかってしまうからだ。俺はそれを認めたくない。だけど、彼女の瞳の中には、強い決意と静かな諦めが混ざり合っていて、何も言い返せなかった。
「俺……」
どうすればいいんだ。さくらを救いたい。俺は彼女を失いたくない。だけど、彼女の気持ちは変わらないだろう。俺がどう言ったって、彼女は俺を受け入れない。病気のことも、さくら自身のことも、俺にはどうすることもできない。
「俺にできることがあるなら、教えてくれよ……何でもするからさ……」
俺は喉の奥から、言葉を絞り出すように言った。けれどさくらは、また少し寂しそうに微笑んだだけだった。
「ううん、相馬くんにはもう十分すぎるくらい、してもらったよ。私、最初はただ一緒に青春を過ごしたかっただけなんだ。それがこんなに楽しくなるなんて思ってなかった。相馬くんのおかげで、私は自分が普通の女の子なんだって感じられたんだよ」
彼女の言葉は、まるでこれから先を考えないでいいと言っているようだった。
俺の心の中で、どこかで理解しなきゃいけないと感じている部分があった。彼女が言おうとしていることは明白だった。彼女の中で、この関係は終わりを迎えようとしている。
でも、俺はそれを受け入れることができない。さくらがこれからどうなってしまうのか、そんなことを考えたくもなかった。
「俺……お前が好きだよ、さくら」
とうとう、その言葉が俺の口から零れた。言わずにはいられなかった。たとえどんな結果になったとしても、これだけは伝えなければならなかったから。
さくらは驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと瞳を閉じた。再び目を開けた時、彼女の目は涙で潤んでいた。
「ありがとう、相馬くん……」
彼女はそれだけ言って、静かに立ち上がった。
「でも、やっぱり答えは変わらないんだ……私には、もう時間がないから……」
その言葉は、静かで優しい響きだった。彼女は俺を見つめて、微笑んだ。その微笑みが、どうしようもなく悲しかった。
「元気でね、相馬くん。ありがとう」
さくらはそれだけ言って、俺の前から去っていった。俺は彼女の背中を追おうと立ち上がろうとしたが、足が動かない。彼女の背中が遠ざかっていくのを、ただ見つめることしかできなかった。
その後、俺は何度もさくらにメッセージを送った。だけど、もう彼女からの返事は来なかった。
そしてさくらは家庭の事情により学校を辞めたと担任から伝えられた。
++++++++++
さくらが去っていってから、俺は彼女のことを考えない日は一日もなかった。あの日の彼女の涙、それでも微笑んで「ありがとう」と言ったあの言葉。胸が痛むたびに、俺はどうしてもさくらに会いたいという気持ちを抑えられなかった。
あれから一年近くが経ったある日、スマホに突然メッセージが届いた。画面を見ると、差出人は「さくら」だった。信じられない思いでメッセージを開くと、そこにはシンプルな一言が書かれていた。
「会いたい」
【短編】さくらの季節 柊れい @hiiragi2024
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