チートを捨てたい青年は死神少女と旅をする
雪山冬子
第1話 始まりと終わり
遥か彼方の地平線まで、梔子色の砂が広がっている。
波打つ砂は巨大な生き物のように柔らかな曲線を描いているが、その実、触るととても固く、熱い。
乾いた風が遠慮もなしに吹き荒んで、用心しても固い砂の粒が喉の奥まで入り込む。
思わず咳き込みそうになるのをなんとか堪え、ラントはぐっと息を飲みこんだ。
「相変わらず埃っぽいんだから。もうやんなっちゃう、こんな暮らし」
濃い紫色の瞳がくるくると回り、じっとラントを睨みつける。
「ねえ、そんな恰好で体痛くならないの? 喉が苦しいなら水でも飲めばいいじゃん」
そう言って見つめる瞳をラントは逸らす。
水があればとっくに飲んでいる。こいつ、それを知っているくせに。
「あ、もうないんだっけ。ごめんごめん、私飲まないから分かんなくてさ」
ふと少女は瞳を上げて、ラントの肩を揺らした。
「見てよラント! 夕日が沈んでいく」
促されるがまま、荷物と荷物の間から外を見る。馬糞が入った大きな壺に頭をぶつけた。
「綺麗ね、とっても」
空から地平線に向かってオレンジから赤に、赤から紫色に染まっていく。
昨日この荷車に乗り込んだ時に見た光景と同じだった。着の身着のまま揺られて、丸一日過ぎたのだと気づいた。
「嫌な色だ」
吐き捨てるように、しかし細心の注意を払って呟くと、まん丸の瞳が不満げにつりあがる。
「なによ、私の目の色みたいで綺麗じゃん。ラントはムードがないのよ」
まったく、となにやらぶつぶつ文句を垂れている。ラントはこれ以上口に砂が入らないよう、薄汚れた装束の襟元を口に押し当てた。
この砂漠地帯にやってきておそらく一週間が過ぎ、不気味な空の色にも少し慣れてきた。
どうやらこの地域は夜が長いらしい。であればその分窃盗や暴行なんかも多発すると思い身を固くしたものだが、過ごしてみればそれ程でもない。
夜が短い国でもただ歩いているだけで殺されそうになったことは何度もある。
そういう国に比べれば夕暮れが不気味なこの砂漠はいくらか安全で、しかもこうして荷車に身を潜めてしまえば自分などこの世に存在しないに等しく、そういう状況が一番安心するし、心地良い。
「ちょっとラント! 私の話聞いてんの!?」
厄介なのはこの女だ。昼夜問わず騒いでいる。そのほとんどがラントにとってはどうでも良いことで、ラントの人生のほんの僅かな平穏も、この女の雑音で消える。
「ねぇ、この空の色見てると、あの日のこと思い出さない?」
怒っていると思ったら急に猫なで声で話し始めた。
その必要もないのに、ラントと同じくらい身を屈めて寄り添うように寝転がる。
「この赤が火の色で、周りのオレンジが火の粉、それで紫が人の影。虫みたいに動き回って面白かったなぁ」
思わず眉間に皴が寄った。この女は、こういう話を平気でしてくる。
まるでいい思い出みたいに、郷愁に浸るように悪夢を語る。
「あの時ラントまだこんな子供だったもんね。私よりも背が小っちゃくてさ。可愛かったな」
「やめろ」
「どの時の話か分かってるの?」
「うるさい」
「そんな態度とっていいのかぁ。君が昔話を語り合える相手なんて、もう私しかいないんだよ?」
頬に肘をついて、紫の瞳がラントを覗き込んだ。
金もない、頼れる人もいない荒んだ旅で、旅なんて生易しいものでもないこんな暮らしにもかかわらず、できもの一つない透き通った肌。
瞳も唇も生まれたての赤子のように潤っていて、その微笑みからは余裕すら感じ取れる。
白く細い腕がラントの胸に滑り込み、肩に引っかかっていた髪が頬に滑り落ちる。
「やめろよ!」
飛び起きて叫んだ。女は無邪気に笑う。
「あー! ラントの負け!」
しまった、と唇を噛んで、フケだらけの赤髪を掻きむしった。
「誰だ!!」
聞こえる前には立ち上がって、すぐに荷車から飛び降りる。
砂の上ならどうにかなるだろうと肩から落ちて、案の定どうにかなったのだが、それでもやはり砂が固いおかげで痛い。
数日前から何も食べていないせいで機敏に動くこともできず、走ろうにも砂に足がとられ、ただ暴れているだけの有様だ。
「待てこの浮浪者が!」
馬にも似たジュークと言う動物があっという間に荷車を引いてやってくる。
熱帯地域で必ずと言っていいほど見かけるこのジューク、スタミナもあるし足も強く、砂漠を移動するにはなくてはならない動物だ、と以前働いていた農場で砂漠出身の農夫が話していたのを聞いたことがある。
顔が人の拳くらい小さくほとんど鳴かない温厚な生物だと思っていたが、こうして全速力で駆けてくるのを間近で見ると、やはり怖い。
いや、ジュークを怖い生き物たらしめているのは、その上に乗っている太った男のせいだろうか。
男はジュークから飛び降りると、体形に似合わぬ身のこなしであっという間にラントの首を掴み、砂の上に叩きつけた。
「この貧乏人の盗人が! 盗ったもん全部出しな!」
何も盗っていない、と砂に埋もれる口で必死に叫んだ。
しかし砂が口に入って上手く話せない。そもそもこの男は、貧乏人の盗人の話を聞くつもりもないのかもしれない。
二、三発頬を殴られ、伸びた身体を調べられたが、出てきたのは少量の小銭とヤシの蔓で作った水筒、そして紐でくくられた小さな布袋だけだった。
「何も盗ってないとなると……お前ただでこの砂漠を移動しようとしたな」
口の中いっぱいに血の味が広がっている。
焦点が定まらず、見えるのは薄ぼんやりした紫の空と、肩を揺らして何か叫ぶ小太りの男の影だ。
襟元を掴まれ上体を起こされたと思ったら、鼻にものすごい衝撃が走り再び地面に突っ伏す。
何がどうなっているかを考えられないうちに再び胸ぐらを掴まれる。
「丁度いい。お前みたいな浮浪者、死んだって誰も困らねえもんな。憂さ晴らしだ」
言ってから、何発も殴られた。こめかみや顎を生暖かい血が伝う。
こういう時はそう、意識がなくなってしまえば楽なのだ。
相手は痛がっている自分を見るのが楽しいのであって、うんともすんとも言わない人間をどれだけ痛めつけたところで、人形を殴っているのと変わらない。
つまらなくなると殴ることをやめる。いつもそうだった。
ただじっと、自分の意識が切れるのを待った。待っているうちに相手の息が切れてきた。
終わりの予感を感じると同時に、身体中の力が抜けてだらりと頭を垂れた。
どこかで女の笑う声がする。
笑い声を探そうとふと目を開けると、ジュークが退屈そうに足を折ってこちらを見ていた。
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