【予告版】THE FOOL
木々沼 爽暇
Ⅰ
§1
「なんで盗もうとしたかって? それはとても、楽しいからだよ」
アルドア連合首都ミラザの商店街にて。おそらくイリーナは、これまでの人生の中で最も歪な出会いを果たした。それは、盗みを働こうとした子どもの語った動機が、彼女の想像をはるかに絶するものだったからだろう。 仮に、親がいないから、空腹に耐えられなかったからと答えていたのなら。孤児院などしかるべき機関にひきわたせばいいだけの話だった。
しかし、彼女の目の前にいる子どもはやむを得ず盗みを働いたのではない。まるで少年たちが野山を駆け回って遊ぶかのように……。
自ら進んで、非道徳に励んでいたのだ。
§2
今日のターゲットは食料だ。場所はこの町一番の活気で賑わう大通り。たくさんの露店が立ち並ぶ絶好のスポットである。雨上がりなのかところどころに水たまりがあり、俺はかがんでその一つを
みすぼらしい服、灰のような漆黒の髪と瞳。我ながら男か女か分かりにくい中途半端な顔。全くもっていつも通りの俺の姿だ。まぁ、何か変化があったほうが怖いけど。さて、寄り道もこのあたりにして、しごとを始めようか。
では、具体的に何をするのかというと、音を立てずに気配を消す。シンプルに聞こえるかもしれないが、これがとても難しい。そもそも気配というものは消そうと思って容易に消せるものではない。
ここからは持論だが、気配を感じるという現象は人間の五感よりも先に本能が生物のエネルギーを察知することで起こる。例えば人が動く(走る、物を持ち上げるなどする)と、力を込めた部位に向かってエネルギーが集まる。
この過程でエネルギーに波が生まれ、外界にも影響を与えている。本来人間では感知するのが難しいこの波を何かの偶然で感じ取ったものが気配なのだ。そして俺は、鍛錬によってこの波を完全に消せるようになった。
すると、どういう訳か人々が俺の方を見てから俺がそこにいると認識するまで五秒のタイムラグが生まれる。もちろん、このタイムラグには個人差がある。検証の結果、最速で気づかれたのが五秒だった。このことから、相手の視界に入ったとしても五秒間は好きに動けることになる。
ただし、「そこに何かいる」というように注意深く探されるとタイムラグは適用されず、あっさりと見つかってしまう。だから、音を立ててはいけないのだ。それから気配を消して大通りの入り口に入る。正直なところ、気配を消すのはターゲットを見つけてからでいいのだが、これは…… なんというか、俺がここにいたという
……。我慢の時間だ。焼き鳥、クレープなどいくつか目ぼしい商品を見つけるも、周囲の視線が壁となって近づくことができない。いや、やろうと思えば屋台付近の視線をすべて掻い潜ることもできるだろう。しかし、俺の注意がすべてそこに消費されてしまい、遠巻きに見つかる可能性が浮上する。つまり、ターゲットと五秒の隙がなかなか一致しないのだ。
そうやってチャンスをうかがいながら淡々と進んでいくと、だんだん人通りが増していく。何なんだ、この人ごみは。俺はかんかんだ! そんな俺を嘲笑うかのように太陽はさんさんと輝くのであった……
いよいよ集中力の限界か?
撤退という二文字が脳裏をよぎる中、大通りも中間地点に差し掛かろうとしたところ。ついに、絶好のチャンスがおとずれる。
まず、進行方向から左手にパン屋がある。どうやらちょうど目玉商品のトーストが焼きあがったようだ。パン屋から大通りの道に対して垂直になるように列ができている。並ぶ人数は八人。さらに進行方向右手。パン屋より二、三メートル奥の向かいで十数人規模の人だかりができている。中央にいるのは大道芸人か?
なんにせよ彼らが壁となり、大通りの奥からは物理的に俺を目視することが不可能となる。これで警戒する範囲が半減した。気配を消しつつ、見つからないギリギリまで屋台に近づき、タイミングをうかがう。いくら経験を積もうともこの瞬間だけは鼓動が高鳴り、呼吸が乱れる。落ち着けよ。
今だ。
周囲の視線が甲高く鳴り響いた硬貨に向けられたと同時に俺は一気に距離をつめ、袋入りのトーストに手をかける。この瞬間、俺は確かに勝利を確信していた。しかし、次の瞬間。背筋に、とてつもない悪寒が走った。
失敗だ。
俺は咄嗟にパン屋の店員に軽く腕をぶつけ、保険として用意しておいた
「あ! ちょっと、順番抜かさないでよ!!」
その後、思い切ってパン屋に並ぶ列を飛び越えた。多少音は鳴ってしまうが、仕方がない。一秒でも早くここを立ち去るのが最優先だ。俺はそのまま商店街を抜け出し、アジトへひた走る。町はずれのスラムに入り、いつもの廃墟で足を止める。追手はいないな。ようやく一息━━━ 。
「周到な作戦ね。これなら順番抜かしを
「……何の話?」
最悪だ。よりにもよって『魔術師』に目を付けられるなんて。でもあの時、あの場に魔術師特有の気配は全く感じなかった。なら一体、どこから俺は
「とぼけないで。ただ順番抜かしをしたのなら、あんなに慌ててあの場から逃げ出す必要なんてなかったはずよ。でも、あんたは私に気付いた瞬間、一目散に商店街から逃げ出した。しかも、あんたが逃げた先はスラムの廃墟。これが、あんたのやろうとしたことの確固たる証拠になると思わない?」
なるほど、うまく言いくるめて自首を促そうって
「へぇ、それは驚きだね。まさか魔術師がレイシストの集まりだったなんて。わざわざ教えてくれてありがとう。じゃあ、今から俺は嘘偽りない真実を言う。ほら、嘘を見破る魔術を使うなら今の内だよ。俺はついさっきミラザの商店街で順番抜かしをしてパンを買った。どう? 嘘はあった?」
このたいそうな翼を携えたウルラの魔術師さまが言うような証拠など、どこにも存在しない。なぜなら過程はどうであれ、俺は本当にパンを買ったからだ。
「……どうやら嘘はないようね。なら、あのパン屋の店員に頼んで、私の魔術で硬貨の所有権の履歴を
「……」
「次にその硬貨の直前の所有者を特定する。そして、あんたとその人との間で正当な取引が交わされてその硬貨を手に入れたということが確認出来たら、あんたの無実を認めてあげる。ごめんなさい、用心深くて。でも、全く問題ないわよね? あんたは今まで一度たりとも盗みをしたことがない。それが証明できるのだから」
なるほど、このパンを盗もうとしたかどうかではなく、俺が使った硬貨が盗品かどうかに論点をすげ替えるつもりか。…………詰んだな。
「はぁ~、こりゃ参ったね。そこまで織り込み済みだったのならどうようもない。そうさ、俺は魔術師さまに気づく直前までパンを盗もうとしていた。これでいい?」
「でしょうね。それで、あんたはどうして盗みを働こうとしたの?」
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