影を裂く
翡翠
第1章 沈黙
初夏の澄んだ青空の下、白石真奈は教室の隅で静かに息を潜める。
窓際の席から見える校庭ではクラスメートたちがサッカーボールを追いかけていたが、その中に真奈の姿はない。彼女はここ数週間、理由もなく体育の授業を休むようになっていた。
理由もなくとは、彼女の言い訳に過ぎない。
本当の理由は彼女自身にも明確には説明出来なかったが、それでも分かっていることが一つある。
教室や校庭に身を置くことが、苦痛で仕方がなかったのだ。
「また逃げてんの?」
そんな言葉が聞こえたのは、昨日の放課後だった。美咲が心配そうに真奈の顔を覗き込む。
その言葉が、真奈の胸の奥で引っかかる。
美咲の意図しない刃のような言葉は真奈の逃げ場を失わせた。
「…いやそんなことない。ただちょっと体調が悪くて」
無理に微笑むと美咲はそれ以上何も言わずにふーんと頷く。しかし、その表情には明らかに諦めが見えた。
真奈は、そんな美咲の態度にかすかな違和感を覚えながらもそれ以上追及することは出来ない。
美咲は真奈の唯一の親友だった。
小学校から一緒に過ごし、どんなことも互いに理解し合えていると思っている。
だが最近はその関係性がどこか変わってきているように感じた。美咲はいつも通りに接しているようにも見えるが、その笑顔の奥の感情が真奈には見えない。
真奈は自分のスマホを取り出し、震える指で画面をスクロールする。
SNSの通知は鳴り止むことない。彼女のタイムラインは人々の罵詈雑言で溢れていた。
「死ねばいい」
「お前は必要ない」
目に飛び込んでくる言葉の数々が、真奈の心を深く傷つける。その言葉が誰から発せられているのかも、彼女には分かっていた。
クラスの中で表向きは優しい顔を見せ、陰で真奈を追い詰めている吉田悠。
吉田は、表向きは教室の中心でいつも明るく笑い、教師からも全幅の信頼をおかれる優等生だ。
誰にも相談できない
真奈は胸の内で呟きながら、画面を閉じた。
今さら助けを求める相手などいるはずもない。親友だと思っていた美咲にも、本当のことを言えない。
彼女も、真奈がいじめを受けていることを微かに知っていながら、何もしないのだ。
むしろ美咲自身が少し真奈を避けるように見える。そんな彼女を、真奈は責められなかった。
なぜなら、美咲もまた吉田の影響下にあったのだ。美咲と吉田が秘密裏に付き合っている事を、真奈は偶然知った。
そのことが、二人の間にある壁を生み出す。
真奈がそれを知ったのは、ほんの数週間前のことだ。
放課後、忘れ物を取りに教室に戻った時、聞き慣れた美咲の笑い声が聞こえた。そこには、吉田と親しげに話す美咲の姿があった。真奈は息を呑む。
彼女は、二人がそんな会話を楽しむ関係にあるとは夢にも思わなかった。
その光景を見てしまった後、真奈はひどい罪悪感に襲われる。
美咲にとっては、誰にも言えない秘密だったのだろう。それを知ってしまったことが、美咲が遠ざける理由になってしまったのかもしれない。
だからこそ、真奈は何も言えずに黙っていた。自分がこの秘密を知らなければ、二人の関係は変わらなかったのだろうか。
だが、それも今となってはどうでも良い。
それから美咲はますます真奈に距離を置くようになった。そして、周囲からも次第に友人たちが姿を消していく。
「私が悪いの?」
真奈は自問自答を繰り返す。自分がこうなった原因を探し続けた。だが、心当たりもなく答えも見つからない。
その夜、真奈は目が覚めた。時計を見ると、深夜二時を過ぎていた。彼女は夢から現実に引き戻されると、スマホを手に取る。
電源を入れると通知が無数に溜まっていることに気づき心臓が早鐘を打つ。
「また、誰かが」
恐る恐る画面を開くと、そこにはSTという謎のアカウントからのメッセージが並ぶ。
そのアカウントは真奈をターゲットに、ありもしない噂を流し、彼女の生活を破滅させようとしていた。
"お前はもう終わりだ"
その言葉が、画面から彼女に迫ってくるようだ。まるで、その一言が存在そのものを否定しているかのような感覚に襲われ、真奈は震えが止まらない。
彼女を取り巻くすべてが、彼女を追い詰める刃に変わってしまったのだ。親友の美咲でさえも、その一部だった。
その日の朝、真奈は学校に行く支度をしながら、ふと鏡の前に立った。
そこには、見知らぬ少女が立っている。
やつれた顔、疲れ切った瞳。それはかつての自分自身とは似ても似つかない姿だった。
「私は…」
真奈は、そっと鏡から目を逸らすと、何事もなかったかのように制服に身を包む。
そして、いつものように家を出て、学校へ向かった。
その日の放課後、彼女は決断を迫られることになった。
ここで全てを終わらせるか、それとも何かを掴むために足掻くのか。真奈の中で、静かに何かが揺れ動く。
その先に、彼女の見つける答えが何であるのか、誰にも分からない。そして真奈自身でさえも。
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