雨の底の迷宮を歩く

紫陽花 雨希

プロローグ 【出会いは雨の底】

 私とアカネさんが出会ったのは、雨がさんさんと降る夏の日の、ビルとビルの間の生臭く世界の全てから見放されたような隙間だった。細切れにされた空には灰色の雲が流れ、青いプラスチック製のゴミ箱にはハエがたかり、壁にもたれて座り込んでいる女の黒髪からはぽたぽたと水滴が垂れていた。ぶかぶかの白いTシャツと擦り切れたジーンズ、泥だらけのスニーカー。投げ出された腕には、根性焼きの跡がいくつも残っていた。女が、私を見上げる。濁った目だった。ほとんど視力がないのかもしれないと思った。けれど、視線は確かに、しっかりと私をとらえていた。

「何?」

 女が、低い声で聞く。私は少し後ずさりした。けれど、逃げ出すことはできなかった。本能で、彼女を拒否してはいけないと分かった。そんなことをすれば、彼女はこのまま死んでしまうだろうと思った。あれから十年以上経った今となっては、ただのエゴであり思い違いだったとしか言いようがないが、そのときの判断によって私たち二人の運命は大きく変わった。

「探してるんです、ノートを」

「ノート?」

 ぼそりと呟いて、女は首を傾げた。

「空から落ちて来ませんでしたか? 五階にある塾の窓から、先生に捨てられちゃって。絶対に誰にも見せられないから、回収しないといけないんです」

 女は顎に手を当てて、考え込むような表情になった。しばらくの沈黙の後、

「雨で良かったね」

と言った。

「もし回収できなくても、雨に濡れてページが引っ付いたりインクが溶けたりしたら、誰も読めなくなるよ」

「だったら良いんですけど。もし万が一、誰かの目に触れたら、私は死ななきゃならない」

 女が、目を見開いた。私をじっと見つめて、それから、視線をそらした。

「一緒に探してあげる」

そう言って、ふらりと立ち上がった。私に背を向け、おぼつかない足取りで歩き始める。

「……大丈夫ですか?」

 女はひらりと手を振って答えた。

 私が塾の入っているビルの周りを一周してから戻ってくると、さっきと同じ場所に女が座っていた。立てた膝の上に、私のノートが置かれていた。

「ありがとうございます」

「中身は見てないから」

 女は地面に視線を落したまま、私にノートを差し出した。受け取って開くと、水性ボールペンのインクがにじんで、何が書いてあったか判別できなくなっていた。ほっとして、息を吐く。

「お姉さん、私、お礼しないと」

「別に要らない」

「そういうわけには、いきません。何か欲しいものはありますか?」

「何もない」

 独り言のように、女は呟く。うつむいたまま、私の方を見ずに、自分の殻にこもるように膝を抱える。

 ふん、と私は鼻から息を吐いた。そして、無理矢理、女の手を取る。女はぎょっとしたように手を引っ込めようとしたけれど、すぐに意識を失って崩れ落ちた。

 倒れた女の上に、いつの間にか弱くなった雨がしとしとと降り注ぐ。その腕は真っ白で、傷一つない。

「××様、ありがとう」

 私が呼びかけると、ふわりと肩に柔らかいものが触れた。青白いロングドレスを着た「彼女」が、私の肩を後ろから抱く。何かをささやくような声が耳元でするけれど、その意味は私には理解できない。温かく優しい手つきで頬を撫でられるから、彼女が私を愛していることだけは分かる。すっと、その手が消えた。

 私は女を置き去りにしたまま、大通りの方に体を向ける。せわしなく通り過ぎてゆく人々。私たちの存在に気付きもしない、他人の群れ。

 社会に向かって、私は足を踏み出した。夏物のセーラー服が、ぐっしょりと濡れて重かった。

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