世界の終わりのシィラかんす

宮原知大

第1話 ただ、世界の終わりにて



 シィラかんすよ、やはりそれは横暴というものだよ


 ぽちゃん

 コバルトブルーの湖面に小さな波紋が生まれ、ああ、と一言言う間に消えた。

 もう正午過ぎというのに、目の前の大魚は残り半日を釣りに費やすつもりらしかった。しかも私を道連れに。


 なあシィラかんす。なんで君はそんな無謀を働くんだろう。

 私が言うとシィラかんすはぴちゃぴちゃと笑った。いや嗤ったのかもしれない。

 ”無謀“か、ずいぶん面白い言葉を使うね笹木君は。

 シィラかんすはねばねばしたものを口から出しながらこっちを見ている。それが何なのか私にはいまいち判然としない。昨日食べた鱒の残滓なのだろうか。かれこれ数年、聞くのも失礼に思えて切り出せずにいる。

 唯一つはっきりしているのはこういう時のシィラかんすは何を言っても聞かぬ、ということだった。

 君が理解しがたい朴念仁なのはよく知ってるけど、馬鹿なことは一人でやってもらいたいもんだね。

 毒づくとシィラかんすは体を小刻みに振った。今日はいやに機嫌がいい。

 ほら、別に只で釣りにつき合わせる気はない。こいつを持ってきたんだ。

 彼は懐から一升瓶を取り出した。昼下がりの淡い陽光に照らされて、瓶の表面がきらきら光った。

 越後の大吟醸だ。苦労して手に入れたんだよ。



 シィラかんすが田沢湖で一緒にマンボウを釣らないかと持ち掛けてきたのは一昨昨日の事だった。

 理由を聞けばマンボウの刺身が食してみたいのだという。

 馬鹿じゃないかと何度も諭してはみたものの効果は芳しくなかった。何しろシィラかんすの強情さと言ったら他に比するものがない。マンボウが淡水には生息しないこと、十分な量のプランクトンなしには直ちに生活が立ち行かなくなることを説いたが、田沢湖が海洋と非常に類似した環境なのだと主張する彼の論陣は固く、結局この通り、私が折れた。何しろ私がこの田沢湖について知っていることと言ったら、日本で一番の深度を誇ることぐらいであったのだから、論戦など望むらくもない。


 乾杯。乾杯。


 いやはやシィラかんす。こいつは上撰なのかな、美味しいねえ。

 釣り針を放ってしまってから言う。まあどうせ今日は彼の釣りに付き合わされることは分かっていた。美味い酒が飲めるだけ良かったというものだ。

 うん、やっぱりわかるかい。笹木君は辛気臭い割に目利きがいいものなあ、”こと“の前だったら随分高かったであろう代物だよ。遠くの知り合いがくれたんだ。

 辛気臭いとはずいぶん失礼だな。

 シィラかんすはちょっと笑った。そういえば「クラムボン」はくぷくぷ笑うんだったか、ちょうどそんな感じの笑い方だった。


 別に悪口でもないだろ?このご時世辛気臭く居られるのは一種美徳だと思うがね。もっと自分がつまらない男であることを誇りたまえよ。


 このご時世、か。確かにそうかもしれない。現に首府の人々はひどい堕落ぶりと聞く。


 しばらく空を眺めながら、世界の終わりについて考えた。

 やはり“こと”は本当に、ゆっくりと世界に終わりをもたらしているようだった。少なくともニュースによれば2031年以降に生まれた子供たちの内で15歳を超えて生き延びた者はだれ一人としていない。思春期を迎えると子供たちは抑えられていた水が一気に決壊するかのように種々雑多な症状に見舞われ、ひどい苦しみの中で死ぬのだという。無論“こと”の影響が目に見えるようになってから、子供を産む人なんて皆無に等しいから、幸いその様子を実際に見たことはない。

 世界が総手を上げながらカガクの成果たる、てくのろじぃいなるものがこの災厄になんの有効打も打てていないのは“こと”が結局人間自身の生み出した業だからなのだろう。

 今の人口減が続けばあと100年ほどで人類はいなくなってしまう、という。


 しかし、いささか長すぎるなあ。


 思わずつぶやくとシィラかんすはこちらを向き、ホーローマグカップに清酒を注いで、こちらに寄越した。

 笹木君は釣りの極意をご存じないみたいだね。

 尾びれをゆすりながら横目でこちらを見ている彼のクーラーボックスもまた、私のものと同じく空だったので、極意を知っている割に随分ご立派な釣果ですね、と言おうか迷ったがやめておいた。

 無心だよ笹木君。心を無にするのが大切だ。世界の終わりだのなんだの、そんなくだらないことを考えていちゃいけないよ。

 無心か。そういえば、シィラかんす。君は世界の終わりについて考えることはないのかい?

 世界の終わり、か。笹木君みたいに大きなことを考える性質じゃないからなあ。

 じゃあ一度もない?

 いや…。

 シィラかんすは水平線を見つめながら遠い過去のことを思い出しているようだった。


 世界の終わりと一言で言ったって、いろんなのがおもいつくからなあ。“こと”なのか僕が死ぬことなのか、はたまた別の何事かなのか。僕にはよくわからなくなってしまってね。肩肘張って考えるものなのかね。


 シィラかんすはまた笑った。今度はくぷくぷ、といった風ではなくひゅうひゅう、という感じだった。


 シィラかんすはシーラカンスなのに、私よりずっとものを知っているものだな、と私は思い、左手でマグカップをつかんで、一杯飲んだ。


 やっぱりいい味だな。うん、それはもう。




 数刻たち、田沢湖の湖面はもう、夕陽で赤く染まり始めていた。


 シィラかんすの釣り竿が大きくしなった、よもや釣り竿がちぎれてしまうのではないかと思うくらいのしなり具合だった。

 やはりマンボウはいるのかもしれないな。

 シィラかんすはしたり顔で言った。いるもんか。と言いながらシィラかんすに加勢して釣り竿を握る。釣り竿はいささか、彼の短い鰭には手に負えぬ代物だった。

 魚は得体の知れない怪力で湖の底へ潜り込もうと試みていた。私とシィラかんすは互いに重なりあうように釣り竿を掴んで対抗したが、主導権は暫しの間魚の方にあった。

 これは本当にマンボウかもしれないぞ。と心の中で思ったが口には出さなかった。

 数分にわたる格闘の後、ようやく獲物は活力を失い湖面まで浮かんできた。ぬらぬらした体に長い顔。もうすぐ死ぬかも知れぬというのにやけにのんびりした態度であった。

 無論マンボウではない。

 しかしその大きさと言ったらどうだろうか、水族館に居ても驚かない程の巨躯である。

 おや、これはピラルクーだね。

 シィラかんすは鰭を小さくたたいた。ぴらるくー。

 外来種だがね、珍しいよ、まだ日本にいるとはね。

 そういえば“こと”の前はこの外来種が旧首府の川で繁殖している。といった話をよく聞いたものだった。“こと”の直前に行われた外来種掃討で、日本では絶滅したと聞いていたが…。

 シィラかんすと一緒に、そいつを桟橋の上まで揚げる。

 今日唯一の釣果だね。

 シィラかんすはちょっとばかり苦笑した。

 ふむ、やはり、大きいな。

 この魚は世界の終わりのことを考えたりするのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを思った。

 このピラルク―という魚は太古より殆ど姿を変えていないらしいから、きっと白亜紀の大量絶滅の時には随分痛手を受けただろう。絶滅しかけたかも知れぬ。それでも姿を変えず、性懲りもなく同じような生き方を続けてきたのである。

 性懲りもなく。大方世界の終わりなどどうでもよいに違いない。

 ピラルクーの大きな目が微動だにせずにこちらを見ていた。

 食べてしまおうかね笹木君。


 シィラかんすが切り出した。ふむ、と頷きかけたが魚の眼をのぞき込んでみると随分澄んだ色をしていて、食べる気も失せた。老いた魚というのは人語に表しがたい威厳を身にまとうものらしかった、この魚然り、おそらくはシィラかんす然り。

 なあピラルクーよ、お前、食べられたいか?

 お前はなんだってそんな目でこっちを見るんだろう。なんだってそんなに素敵な目で生きていられるのだろうか。君の種族はもう日本にはいないんだとよ。


 結局じゃんけんをして食うか食わぬか決めた。シィラかんすはチョキが出せないので無論私が勝った。シィラかんすが不機嫌にならないところを見ればもともとさして食べたくもなかったのであろう。形式的な手続きである。


 つるりとピラルクーはもう真っ黒になった湖面の奥底へ消えていった。尾鰭が水面下へ没するとあとは波紋と静寂だけが残り、私は急に一人ぼっちになったような気がした。


 シィラかんすよ、今思ったんだけどね。

 ふむ。

 ピラルク―は本当に釣り上げられたのだろうかね。ああやってお別れも言わずに消えてしまうと、私は本当にあの魚と出会っていたのだろうか、と心配になってくるよ。


 シィラかんすは体を傾けて見せた。


 世界の終わりも昔のことも、考えてみればあやふやなものだね。きっと神様が肩肘張らず自分の思うままに居なさい、と言ってるんだろう。

 何事も余白があった方が面白いからねえ。


 シィラかんすの言葉を聞いて、そういえばシーラカンスには肩も肘もないのにな、とぼんやり思った。

 そして、ピラルク―がいるからにはきっとマンボウもいるのだろう。とも思った。




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