静寂に奪われる前に、

mii

デジタル保存

 僕はいつも目が覚める前に、何かを失った気がする。夢の中で何かを追いかけていたのかもしれない。でも、それが何だったのかは、目覚めた瞬間にすべてが霧のように消えてしまう。夢は忘れるために見るのだろう。窓の外を見ると、曇った空がぼんやりと広がっている。毎日変わらない景色。時計の針がどこを指しているかなんて、もはやどうでもいい。昼が来て、夜が来る。ただ、それだけだった。


 部屋の片隅には、使われなくなった大学の資料が埃をかぶっている。本来なら授業で使うはずだが、大学に行くことはもうないだろう。誰かの期待に応えるために生きるのが嫌になったのだ。それ以来、特にこれといってすることもなく、こうして日々を惰性で過ごしている。誰かと繋がる必要もない。そんなことを思うようになったのは、いつからだろうか。


「デジタル保存」――この言葉が耳に入ると、無意識に眉をひそめる自分がいる。この技術が登場してから、社会は急速に変わっていった。意識をデータとして保存し、死後もデジタル化された新しい世界で再び「生」を得ることができる。誰もが永遠を手に入れられるという触れ込みだが、その実態はどうだろう。広告では夢物語のように描かれている。輝かしい未来、無限の可能性。でも、その裏に何があるのか、ほとんどの人は考えもしない。


 母が自ら命を絶ったのは、この技術が普及し始めた頃だった。彼女は、デジタル保存を選んだ。命を終わらせ、データとして生き続けることを望んだのだ。彼女の選択を理解することは、今でもできていない。彼女は逃げたかったのだろうか。現実から、僕から、そして自分自身から。


 そんなことを考えながら、僕は冷えた床に足をつける。この床の冷たさは、いつも僕に現実を思い出させる。父は僕に仕送りをすることを条件に家から出て行った、日常という名の、止まったままの時間がただ流れていく感覚。何かを変えたいと願ったことがないわけではない。でも、結局その願いすら、日常の重さに押しつぶされてしまった。


 若者たちの間では、死後のデジタル世界に期待を抱き、命を絶つことが「解決策」として広がりつつある。誰もが、現実から目を背けているように見える。この街のどこを歩いても、そんな雰囲気が漂っている。かつては、僕もこの世界に何か期待していた。未来に夢を抱いていた時期もあった。でも今、その感覚は遠い記憶の一部に過ぎない。日々、ニュースや広告で流れるデジタル保存の輝かしい映像を見ても、それが自分にとって何の意味を持つのか、よくわからなくなってきた。


 ふと、スマートフォンが震えた。画面を見ると、見覚えのない名前が表示されている。名前を見ても思い出せない。おそらく何かの勧誘だろう。デジタル保存の紹介代理店にでも興味を持たれたのかもしれない。彼らは好んで若者をターゲットにしている。特に、こうして無気力に日々を過ごす僕のような存在は、彼らにとって格好の的だ。メッセージを無視しようとしたが、ふと手が止まる。

「久しぶりに会わない?」と書かれている。誰だろう?思い出せない。けれど、気持ちのどこかに引っかかりを感じた。少しだけ歩こうかな...



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