第50話 大事な人 3

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。ルイシーナは足に力が入らなくなって、がくりと膝を折った。


 ――ベルナルドならきっとルイシーナを心配して手を差し伸べてくれただろう。しかしフェリペはへたり込んだルイシーナを見下ろしているだけだった。分かっている。フェリペはルイシーナを愛しているのではない。皇太子として煌女が欲しいだけなのだ。


 男女の愛を蔑ろにするだけでなく、家族の愛を盾にするなんて、なんて酷い人間なのだ。


 下からフェリペを睨み上げてやったけれど、フェリペは気にする様子もなかった。床に這いつくばる人間なんて、彼にとっては興味も湧かない存在なのかもしれなかった。


「皇太子殿下。お願いいたします。考える時間をください」


 カルロスが慎重に申し出る。


 突き放されるかとも思われたが、フェリペは承諾した。それから答えは三日以内に出してくれと告げ、踵を返して塔を降りていった。


 残された三人と一人は足音が遠のいていくのを何も言わずに聞いていた。


 完全に足音が聞こえなくなり、フェリペの気配が消えるとアデライアは悪態をついた。


「彼奴は反逆者を恐れているの。【光】を持つ奇跡の煌女と婚姻を結びさえすれば、民衆が味方につき、皇室の地位も安定すると思っているのよ」


 ルイシーナは革命軍の名を借りた略奪者たちが攻め込んできた仮面舞踏会を思い出した。


 あの時のフェリペは無力だった。兵士たちの到着は遅れており、何人もの貴族たちは暴力を振るわれて金品を奪われていた。そもそも略奪者たちの馬車の襲撃さえ皇室は止められていないのである。


 かつて塵捨て場で生まれた火種は今や各地にばら撒かれ、繋がって一つの国を破壊しようとしている。皇室が持ち出せる解決策が革命軍たちの一掃ではなく奇跡の煌女であるあたり、皇室にはすでに彼らを抑えられるだけの力はないのだろう。


 ルイシーナはそれだけの価値が自分にあるとは思えなかった。こんな小娘が何の役に立つのだと自嘲さえできる。けれど【光】や煌女に対する人々の評価や態度は、明らかにルイシーナの考えるものとは違っている。


 【光】は善。【光】を持つ者は清く正しく人を導くという、古くからの教えが人々の身体に沁みついているのだ。それもかなり深く。時には自覚が無いくらい。長きにわたって刷り込まれた思想はそう簡単に変えられるものではないのかもしれなかった。


 フェリペはそれを利用しようとしている。


 しばらく四人は黙っていた。それぞれの想いを言うか言わざるべきか悩んでいるような空気だったけれど、誰も何も言わなかった。


 しかし、ややあってカルロスはこう切り出した。


「ずっとお前たち姉妹に秘密にしていたことがあるんだ。アデライアが生まれた時のことと、ルイシーナが【光】を失った時のことだ」


 クロエがぎゅっと唇を噛んだのが見えた。


 カルロスはクロエが止めないのを見て取ると話し始めた。


 ――ルイシーナ・トーレスは【光】を持って生まれた。光の子を授かったカルロスとクロエは皆から祝福され、希望に溢れていた。


 しかし三年後にトーレス家は絶望を知る。


 アデライア・トーレスが生まれながらにして【穢】を持っていたからだ。


 カルロスとクロエの頭には塵捨て場に連れて行くという言葉が過った。しかし愛する娘をそんなところに捨てられるはずもなく、二人は誰にも見られないようにアデライアを部屋に閉じ込めて育てることにした。


 【穢】を持ったアデライアはよく泣く子だった。寝ている以外の時間は何が不満なのかずっと泣き続けていた。そのうえ【穢】を吐くので目を放すこともできず、ルイシーナも幼いと言うのに、両親は四六時中アデライアについていなければならなかった。


 ある日、カルロスは仕事に出かけ、クロエが一人でアデライアとルイシーナを見ていなければならない昼間の時間に、クロエは疲れが溜まっていてアデライアを入れたゆりかごを揺らしながら寝てしまった。いつもなら目を覚ましたアデライアが泣き叫ぶものだから何時間と寝ていられないのに、その日は気がついたら夜が更けていた。


 カルロスに揺り起こされて、慌てて起きたクロエがゆりかごを覗き込むと、アデライアはいなかった。


 カルロスとクロエは真っ青になり、必死になって家中を探した。するとルイシーナの部屋から、何やら楽しそうな声が聞こえてくるのだった。


 部屋を覗いてみて、二人は驚いた。


 小さなルイシーナが、赤ん坊のアデライアをあやしていた。いつも泣いてばかりいたアデライアはきゃっきゃと楽しそうに笑っていて、どこにも【穢】を吐いていなかった。


 二人は涙した。初めてアデライアが笑っているところを見たのだ。何をしても満たされなかった子が笑っていたのだ――。


「不思議なことに、その日からアデライアは【穢】を吐かなくなって、ルイシーナは【光】を失った。それがお前たちに起こった本当の奇跡だ。……今思えば、ルイシーナが再び光り出した時も黙っていれば良かったな。アデライアの【穢】を誰にも言わなかったように、お前の【光】も隠しておけばこんなことにはならなかったのかもしれない」


 カルロスの告白を聞いて、ルイシーナはなんて歯がゆいのだろうと奥歯を噛みしめた。


 【穢】の所為で、【光】の所為で皆が不幸になるなんて――いいや違う。【穢】の所為でも【光】の所為でもない。【穢】を蔑み、【光】を崇める思想がそうさせているだけだ。


 ルイシーナは考えた。どうすればみんなが考え方を変えてくれるだろうか。どうすれば【光】や【穢】の認識を改め、向き合ってくれるだろうかと。


「ルイシーナ」


 父と母に両脇から手を握られて、ルイシーナは思考の渕から戻ってきた。


「お前の思う通りにして良い。お前はもう充分俺たちのために頑張ってくれた。俺が酷いことをしても良い娘であり続け、良い姉であり続けてくれた。これ以上俺はお前に辛い想いをさせたくない」


「私たちのことはいいから幸せになりなさい。自分の幸福を願うのよ。アデライアのことは親である私たちが何とかするから。だから貴方はすぐにでも家を出て、何処か遠いところでベルナルドと幸せになりなさい」


 目が熱くなってきた。


「わたくし、充分幸せよ。お父さんとお母さんもアデライアも大事だわ。大事な家族をこのままにして、自分の幸せだけを願って出て行けるわけないじゃない」


「姉さんって馬鹿ね! こんな時までいい子ちゃんぶろうとするなんて! このままじゃぁ、姉さんは彼奴と結婚しなければならないのよ!? あのクズと! 彼奴と結婚したからって、本当に私が解放されてお父さんとお母さんが罪に問われないかなんて分からないじゃない!」


「でもアディ。わたくしが断れば確実に貴方やお父さんとお母さんは酷い目に合うわ。それが分かっていて断ることなんてできない」


「どうして……姉さんってそうなの……どうして私を、皆を助けようとするのよ。どうしていつも自分を犠牲にするのよ……」


「誰にでもこうじゃないわ。わたくしは、お父さんとお母さんとアディだから、どうにかしたいと思うの。とっても大事だから」


 ルイシーナはアデライアの前に跪き、手を握った。アデライアは嗚咽を漏らしながら泣いた。「ごめんなさい、姉さん。ごめんなさい」と繰り返し謝りながら。


「父さんと母さんは何よりお前たちの幸せを願っている」


「私たちの愛しい宝物。どうか、二人とも誰より幸せになって」


 カルロスとクロエはルイシーナと牢の中のアデライアを抱きしめた。

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