第23話 一人だけの煌女 2
赤ん坊は気持ちよさそうに眠っている。頬がふくふくとしていて、手はぬいぐるみのように小さく、三角形の唇が愛らしい。髪はブロンド。見覚えのある赤いアマポーラの刺繡が施された布にくるまれている。
愛しい子だ。皆の愛を一身に受けて大きくなってほしい。
「……貴方に光の導きがありますように」
祈らずにはいられず、発光した。
光が治まると、麻布の人物は頭を下げて赤ん坊を受け取り、男の後ろへ隠れた。
「……ありがとう」
男は体躯に似合わない小さな声で呟き、大きな両手でルイシーナの手を取ると、ぐっと一瞬力を込めて握ってから踵を返した。
他の麻布の人物たちも引き返していく。赤ん坊を抱いた人物は止まってルイシーナを見ていたが、男に肩を抱かれて帰っていった。
ルイシーナは麻布の人物たちが見えなくなるまで見つめていた。そうして麻布の人物たちの姿が完全に消えると、労いを再開するために振り返った。
瞬間、ぞっとした。子羊たちが醜穢なものを見るような目でルイシーナを見ていたのだ。晴れやかな気分が一気に冷めた。
「あの男はさっきの赤ん坊を【穢】を持って生まれたと言っていたぞ」
「やだ! 煌女様は【穢】に触れたの!?」
「汚らわしい!」
「煌女様が穢れてしまった! 【光】が穢れてしまった!」
「どうして【穢】を持った赤ん坊を触るのよ!」
人々は口々に叫び、やがて大きな音の塊になってルイシーナを押しつぶした。
【穢】は病気のように移るものではないのに、どうしてそんなことを言うのか。そもそも腐った物を吐くだけで彼らは穢れてなどいないのに、汚らわしいなどと言うのだろうか。
「皆様、あの」
ルイシーナが一歩踏み出すと、民衆は悲鳴を上げて退った。
身体が縄で縛られたように動かなくなった。
拒絶された。奈落に落とされ、独りぼっちになった気分だった。
【穢】を持っている人たちはいつもこういう気持ちを味わっているのだろうか。だとしたらこんなにも辛い思いをさせることが正しいとは思えない。今一度考え直さなければ。世間の目を変えなければ。
そう、思ったことを言えれば良かった。しかしルイシーナは浴びせられる数々の罵詈雑言にすっかり憔悴してしまって、何かを言うことも、その場を動くこともできなくなっていた。
「ルイシーナ!」
ルイシーナの石化が解かれたのは父が娘を呼ぶ声を聞いた時だった。
お父さんだ! とルイシーナの心は子どものように安心して喜んだ。きっと父なら己を苦しめる人たちを叱咤し、守ってくれるはずだと期待した。
「こっちに来い!」
カルロスは強引にルイシーナの腕を引っ張った。そうしてそのまま集会堂を出て馬車まで小走りで向かい、馬車に着くと中に放り入れたのだった。
強く掴まれた腕が痛むし、乱暴に放り込まれたのは怖かった。けれどカルロスは娘を早く民衆から遠ざけようと焦っていただけで、馬車に連れて来たのも安全を確保するためだとルイシーナは思っていた。だから、頬を激しい痛みが襲った時、何故痛いのか分からなかった。
「やっぱりお前は一人じゃ何もできないな! 余計なことをして家族を陥れる気か! そこで反省していろ!」
雷のような怒号を落とし、カルロスはけたたましい音を立てて扉を閉めた。
じわ、と涙が湧いて、瞬くとぼろぼろ零れた。痛む頬を押さえながら、ルイシーナは声を押し殺して泣いた。
己は間違っていたのだろうか。もしアデライアだったらあの男たちをつまみだしただろうか。あの男たちに取り合わず、追い返していたら民衆はルイシーナを称え、父に激高されることもなかっただろうか。
何が正しいのか、ルイシーナは分からなくなった。
「ルイシーナ様……」
馬車の外からベルナルドの声がした。
ルイシーナは思わず扉に飛びついた。
「俺は貴方を尊敬します」
扉の隙間から呟かれた言葉に胸が貫かれた。
尊敬しているなんて、誰にも言われたことがなかった。不器用で器量がなく、やることなすこと失敗して迷惑ばかりかけるから、いつも煙たがられていたのに。
今度は感動で涙が出た。
「ありがとう、ベルナルド。ありがとう、わたくしの傍にいてくれて。わたくしこそ、貴方を尊敬します」
扉に額をつけてルイシーナは何度も礼を述べた。
善良な人間というのはベルナルドのような人間を言うのだ。心優しくて、機転が利いて、人にも好かれ、魅力があって献身的なベルナルドは完璧だった。何も上手くできない偽善者の己のために、こうであれと光が寄越してくださったのかもしれないとさえ思った。
光のようなベルナルド。惹かれぬ人はいないだろう。忘れろと言われたって忘れられない。恋をするなというのも不可能だ。
ルイシーナは出会えたことに感謝し、彼が傍にいてくれることに感謝した。
やがて馬車が発車した。
ベルナルドのおかげで平静を取り戻したルイシーナは、座席について集会のことを考える余裕があった。
カルロスがあの場をどのように収めたのか、集まった子羊たちがどうなったのか気になった。【光】はしっかり授けたから、子羊たちの希望は叶えられたはずだ。最後の一人まで労えなかったのは申し訳なく、騒がせてしまったことも己が至らなかった所為だが、どうかトーレス家を悪く思わないでほしい。ルイシーナはそれだけを考えていた。
屋敷に帰ってきて馬車が停まると扉が乱暴に開いた。吃驚している間に太い腕に腕を掴まれ、強引に馬車から引きずり出された。
カルロスはまだ怒っていた。集会堂に集まった子羊たちのその後を聞きたかったけれど聞ける雰囲気ではなく、ルイシーナは黙って引き摺られるようにして歩いた。クロエが怯えた様子でついてきて、しきりに何があったのか聞いてきたけれど、ルイシーナは何も言えなかった。
ルイシーナの部屋に着くとカルロスはまたルイシーナを乱暴に部屋へ放り込んだ。
「しばらく外に出るのを禁じる! この部屋からもだ! 充分反省しろ!」
床に倒れたルイシーナがゆっくり上体を起こすのと、扉が大きな音を立てて閉まるのが同時だった。
仕方がないと、ルイシーナは思った。カルロスの理想と違うことをルイシーナがしたから、カルロスが失望して怒るのも当然だ。何が正しいか正しくないかではない。これは人を失望させたから起こったことなのだ。
ルイシーナはカルロスに言われた通り、自室に籠ることにした。今までだって閉じ込もっていたのだから何も変わらないと思っていた。
しかし、扉に外から鍵がかけられていることを知ると、絶望が胸に穴を開けた。
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