第12話 置き去りにされた場所

 大規模に展開された市場を離れ、大通りからも外れて路地裏に入った。


 明るかった辺りには影が落ち、進むにつれて真っ直ぐだった道はところどころ曲がったり出っ張ったりするようになった。すれ違う人の風貌もどこか違って見えて、怖がりのルイシーナは充分警戒してベルナルドの背にくっついて歩いた。


 やがて開いた場所に出た。塗装が剥げていたり、壊れた部分に木や石を詰めて雑に直してあったりする家々が寂しく立ち並んでいる。どこか疲れた様子の初老の女が壊れかけの椅子に座って宙を見つめていれば、汚れた麻布を被って地面に蹲っている人もいる。閑散としていて、人の数よりも取り込んでいない洗濯物の数の方が多そうだった。


 警戒を強めたルイシーナとは違い、ベルナルドは慣れた足取りで進んでいくと、今にも屋根が崩れてきそうな家の扉を叩いた。


「グレタさん。ベルナルドです。入っても良いですか?」


 大声で呼びかけた後、ベルナルドは扉に耳をくっつけて中の音を聞いていた。そうして「はーい」と返事をして、扉を開けて中に入った。ルイシーナも入るよう言われて、遠慮がちに足を踏み入れた。


 少し首を動かしただけで見渡せる室内。年季の入った糸車、様々な色の糸玉や布に無地の服。小さな台所に用意された大きめのダイニングテーブルの脇で、この家の住人であろう老婆が椅子に座っていた。足が悪いのか杖が立てかけてある。


「御無沙汰しています。お元気でしたか?」


 ベルナルドはダイニングテーブルに二つの籠を置いて老婆の足元に跪いた。老婆は幾重にも皺の入った顔を更にしわくちゃにして笑った。


「おかげさまでねぇ。ベルナルドちゃんこそ、元気だったみたいだねぇ。可愛い子まで連れて来て。結婚したのかい?」


「まだ口説き中です」


 またそういうことを言って、という不満を胸の中に留め、ルイシーナは唇を引き結んだ。


「ここらを回っている間に他の男に盗られたくないので、ここに隠しておいても良いですか?」


「構わないよ。大事に守っておくから、安心して行っておいで」


「ありがとうございます」


 膝に置かれた老婆の手をとんとんと叩き、ベルナルドはルイシーナの方へやってきた。


「ちょっとこれを売りさばいて来ますから、しばらくここで待っていてくれますか?」


 ルイシーナは頷いた。ベルナルドはパンや野菜や果物をいくつか置いて籠を担ぎ、「早く帰ってきますからね」と言い残して出ていった。


 残されたルイシーナはグレタに勧められた椅子に座り、会話をしながらベルナルドを待つことにした。


「ベルナルドちゃんはね、食べ物をみんなに売りに行ったんだよ。見放された私たちのためにわざわざここまで来てくれるんだ」


 グレタが言うには、この辺りには身体を悪くしてしまった人や病気になってしまった人など理由があって満足に生活できない人たちが集まっているのだそうだ。街を横断する大きな運河を流れ流れて行きつくのがこの場所らしい。


 ベルナルドもある日運河を流れてきたそうだ。偶然この場所を見つけたベルナルドは次の日には食べ物を運んで来て売るようになり、言えば欲しい物を調達してくれるようになった。ベルナルドが此処へ来るようになってから若い人間も住むようになり、助け合う暮らしが定着したとグレタは言った。


 助け合う暮らしがどういうものなのかは質問せずとも分かった。


 待たせてもらっている間、グレタの家には様々な人が出入りした。スープを作ったよ、とはつらつとした若い女が。婆さん元気かよ、と足を引き摺った男が。お父さんにたのまれたと言って、仕立て直しの服を持って来た男の子もいた。


 全員がグレタの名を知っていて、グレタも全員の名を呼んでいた。一つの家族のように見えて、とても愛に溢れた素晴らしい生き方だと思った。


 それからグレタはこうも言った。


「ベルナルドちゃんは私たちを対等な人間として扱ってくれるんだ。私はね、高貴なお方たちの施しなんていらないんだ。何もできない人間扱いされたくないんだよ。私は私の力で生きていけるんだ。だからベルナルドちゃんに物を売ってもらえて、私は嬉しいんだ。買うためにこうして売れる物を作ることが、社会の一員になれていることが、活力になるんだよ。売れたらベルナルドちゃんは嬉しそうに教えてくれるしね」


 しわを深くしてグレタは笑った。


 会話している間もグレタは絶えず手を動かして刺繍をしていた。一針では何の変化もないように見えるけれど、二針三針と進んでいくにつれて美しい柄が出来上がっていく様は見事だった。


 満足に足を動かせないだけで、こんなに素晴らしい物を作れる人がただ施しを受けるだけなんて勿体ない。グレタのような人を社会の除け者にせず、溶け込ませることを選んだベルナルドを尊敬した。そして社会の一員として生きることを選び、魔法のような手さばきで美しい刺繍を作り上げるグレタを尊敬した。


「よろしければわたくしにその見事な刺繍を教えていただけませんか?」


 ルイシーナはグレタの近くまで椅子を動かし、机の上に置かれていた布を取った。するとグレタがほろほろと涙を流し始めたので、ルイシーナは驚いてしまった。


「どうかしましたか? どこか痛みますか?」


 グレタは首を振った。


「ごめんね。もし、なんて、考えてしまってね。……私にも、娘がいたんだよ。生きていたら、こうして一緒に過ごせたかもしれないと思うと……」


 一度、目から出た涙は、堰を切ったようにとめどなく溢れて止まらなくなった。


「あぁ……生まれたばかりの娘を捨てろと言ったあの人に、私が逆らっていれば。私があの子を守ってあげられれば。【穢】のない子に生んであげられれば、良かったのになぁ」


 ルイシーナはむせび泣くグレタの肩を抱いて背をさすった。口下手なルイシーナはこんな時に何て言ってあげれば良いのか分からなかった。己が何を言ってもグレタを真に慰めることはできないだろうし、見当違いのことを言って怒らせるのも避けたかった。


 しばらくして落ち着いたグレタは謝って涙を拭い、「さぁ教えてあげようね」と丁寧に刺繍の仕方を教えてくれた。ルイシーナはかつて母に習って刺繍を勉強していた記憶と照らし合わせながら糸を選び、一針一針刺繍をしていった。


 時間をかけて小さな赤いアマポーラの柄を完成させると、グレタに出来を見せた。


「あぁ、この色を選んだんだね。綺麗だ。上手にできたね」


「グレタさんから見たら未熟でしょうけれど」


「誰かと比べる必要はないよ。誰かより優れているから褒めるんじゃない。丁寧で本物の花のような色遣いのルイシーナちゃんの刺繍が素敵だったから褒めたんだよ」


 ルイシーナはとてもこそばゆい気持ちになった。手先が器用なアデライアと違ってルイシーナは不器用でなかなか上手く針を扱えなかったからか、クロエは一度も刺繍を褒めてくれなかった。


「ありがとうございます。今まで誰かに褒められたことが無かったので、とても、とても嬉しいです」


「それはとても寂しかったね。分かるよ。私もずっと、寂しかったから」


 グレタはルイシーナの身体を抱き寄せて頭を撫でてくれた。


 目が熱くなって涙が零れそうになった。


 誰かに評価されたいわけでも期待されたいわけでもない。けれどルイシーナはずっと寂しかった。独りじゃないはずなのに、誰にも評価も期待もされないから興味を持たれていないのではないかと、いなくても良い存在なのではないかとずっと不安だったのだ。


 ルイシーナはグレタの胸に顔を埋め、腕を回して抱きしめ返した。


 無言で抱き合っていると扉が開く音がして、ベルナルドが帰って来た。パンや野菜や果物が入っていた籠には、布や花が入っている。


 どちらともなく身体を離し、「おかえりなさい」と声を重ねて労って、ルイシーナとグレタは顔を見合わせて笑った。


「ベルナルドちゃんも帰って来たことだし、もう行くんだろう?」


 ルイシーナはベルナルドを見た。


 ベルナルドは頷いた。


「えぇ。デートの続きをします。それじゃぁ、また来るよグレタさん」


 ベルナルドとグレタはハグをして互いに頬にキスをした。


「待っているよ。今度も一緒においで」


「是非、お邪魔させていただきます」


 ルイシーナとグレタもハグをして頬にキスをした。


 身体を離すと、グレタは手にルイシーナが刺繍を施した布を握らせてくれた。


「これは持っておいき。ベルナルドちゃんにも見せておやりね」


 頷き、しっかり握手をして、グレタと別れた。

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