第10話 街中
別の日に奉仕のために病院へ出かけた帰りのことである。
ベルナルドは馬車に乗り込もうとするルイシーナに手を貸しながら言った。
「クロエ様がむやみに外出することを禁じているそうですが、遊びに行きたいと思うことはないんですか?」
「興味がないわけではないですけれど」
ルイシーナは口ごもった。
過保護で心配性なクロエはルイシーナが【光】を失わないよう外に出ることを禁じている。【光】を失う原因ははっきり分かっていないが、十歳前後で【光】を失う光の子が多いため、俗説では道徳性や性が関係しているのではないかと言われていた。そのためクロエはルイシーナを悪しき民衆から遠ざけ、純潔を守らせるために屋敷から出ないよう躾けた。ルイシーナは我儘を言ってクロエを困らせるくらいなら、黙って屋敷に籠っている方が良いと判断して従い続けている。それから外に出た際、煌女としてどう振る舞えば良いか分からないから出たくないというのもあった。ルイシーナは己が臆病者で品位の欠片もない人間だと思っており、人々の奇跡の煌女の理想を壊してしまうことを怖れていた。ルイシーナは小さなことでも人を失望させたり怒らせたり悲しませたりすることが嫌いなのである。
「けど、なんなんですか?」
ベルナルドは愛らしく首を傾げながらもしっかり食い下がってきた。
言おうか言わまいか迷ったが、ルイシーナは「あの……」と胸の内を話すことにした。クロエに従う理由も、積極的に外に出たいと思わない理由も。あまり他人に自分のことを話すルイシーナではなかったが、【穢】を持つ男の子を助けた善良なこの男、ベルナルドになら話しても良いと思えたのだった。
話し終えるとベルナルドは頷いた。
「なるほど。ルイシーナ様はご自分よりクロエ様や皆のことを中心に考えていらっしゃるんですね。いやぁ、勿体ない」
「勿体ない、ですか?」
今度はルイシーナが首を傾げた。
「勿体ないですよ。人生は一度きりですから、もっともっと楽しまないと。お屋敷だけじゃぁ経験できないことってたくさんあるじゃないですか」
「そうだけれど、お母様の言いつけを破るのはいけないことです。それに、外に出るのは怖いですから」
「大丈夫です。僕が必ず貴方を守りますよ。それにルイシーナ様はずっと仮面をつけているからお屋敷の人以外は素顔を知らないでしょう? だったら仮面を外せば奇跡の煌女ではなくなるってことじゃないですか」
「それはそうだけれど、でもお母様が」
「バレなければ良いんです」
パチンとウインクするベルナルド。
「貴方ってちょっと悪い人なのですね」
ルイシーナが呆れて言うと、ベルナルドはそうなんですよと笑った。
「全部僕の所為にして、ちょっと遊びに行きません? 僕がルイシーナ様にこの街を教えてあげますよ」
クロエに気づかれてしまう可能性を考えると震えるほど怖かった。外へ出ること自体も怖ろしくて仕方ない。けれど誘ってくれるのが嬉しいと思ってしまったから駄目だった。
彼と街に繰り出したらどうなるのだろう。
好奇心が恐怖に勝り、ルイシーナは初めて己の欲に負けた。
「分かったわ」
ベルナルドは「やった!」と手を叩いて喜んだ。そうして軽い足取りで御者台に乗り、馬を走らせたのだった。
街中に着くとベルナルドは馬車を停めて扉を開けた。
ルイシーナはそういえばベルナルドには素顔を見せたことがないことに気がついて、仮面を外すことから躊躇っていた。彼にどう思われているかは知らないが、仮面を外して変な顔だと思われたらどうしよう。アデライアが美しいから、ルイシーナの素顔も同じくらいだと思われていたら困る。
「えいっ!」
唐突に仮面を奪い取られてルイシーナは短い悲鳴を上げた。
「な、何を!?」
「……すごく可愛い」
ベルナルドの表情が綻んだ。
ドッと心臓がすごい音を立てて顔が熱くなった。驚きと羞恥に喜びが重なって、彼を見ることができなくなって顔を覆った。するとベルナルドは優しい手つきでルイシーナの両手を顔から引き剥がし、そのまま引っ張って外へ出してくれた。
久しぶりに降り立った城下町。高い鼓動は緊張からか、興奮からか。それともベルナルドの所為なのか。
ルイシーナはベルナルドが適当な人間に馬車の守りを頼んでいる間に何度も深呼吸して何とか心を落ち着けさせた。
「何がしたいですか? 何か食べたい? 人形劇でも観ますか?」
考えてみたけれど何も思いつかなかった。したいことも思いつかないくらい街のことを知らず、己のことを考えていなかったのだと実感すると共に、この街を知りたいと強く思った。
「任せるわ。貴方がわたくしにこの街を教えてくれるのでしょう?」
「そうです。いろいろなところを案内しますね」
「お願いします。でも、わたくしお金を持っていないのですけれど、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。僕が出します。ちなみに僕も持っていませんけど」
「えぇ!?」
ルイシーナは大きな声を出してから慌てて口を覆って辺りを見回した。幸い誰も気にしていないようで何よりだったが、一気に心配になってきた。どうするつもりなのかと不安げに見つめていると、ベルナルドは「任せてください」と胸を張った。
「こう見えても人生経験豊富ですから」
「それはそうかもしれないけれど」
「大丈夫ですって。ささ、時間が勿体ないので行きましょう!」
ベルナルドはルイシーナの手を取り、引っ張った。
体温の高い手。己の手が冷たいから徐々に熱が移ってくるのが分かる。熱は腕を伝って顔まで上がって来たようで、ルイシーナは手の甲を当てて顔を冷やしながら歩いた。
頬の熱もとれて、街並みを眺める余裕ができた頃。
「泥棒!」
という、大きな叫び声がしてルイシーナは反射的に声の方に目を向けた。
突き飛ばされたのか地面に転がった女と、こちらに走って来る男がいた。男が女の物を奪ったに違いない。しかし男を止める人物はおらず、皆眺めているばかりだ。何かできれば良いのだが、己が男の前に立ちはだかったところでどうにもならないかもしれないとルイシーナは悩んだ。
「早速良い機会だ。ルイシーナ様は危ないのでちょっと下がっていてくださいね」
ベルナルドはルイシーナを下がらせると向かって来た男の前に立ちはだかってわざとぶつかった。
どっという鈍い音に「ちっ」という男の舌打ち。男はベルナルドを睨み、「ジャマだバカヤロウ!」と悪態をついて走り去った。
「大丈夫ですか?痛むところはありませんか?」
慌ててベルナルドの無事を確認する。思わず目を閉じてしまうくらい思い切りぶつかったので、痣でもできているのではないかと思った。なにせ背中を丸めて妙に静かにしているのだ。どこか痛むのかと心配になって覗き込もうとすると、ベルナルドはようやっと振り返った。
「じゃーん」
「まぁ」
満面の笑み。手には小袋。
小袋を先程地面に倒れていた女に見せると、女は「私のだわ!ありがとう!」とたいそう感激してベルナルドに抱き着き、頬に真っ赤なキスをして、「お礼よ」と小袋の中から銀貨を一枚くれた。
「幸先良いですね。ルイシーナ様の御陰かな」
「いつの間にとり返したのですか? ぶつかった時に落としていかれたのですか?」
「この街の男はみんな掏摸くらい会得しているものですよ」
ルイシーナはぽかんと開きかけた口を閉じ、改めて口を開いた。
「……キス欲しさにですか?」
頬にべったりついた真っ赤な口紅をハンカチでこすってやる。ベルナルドはにっこり笑って身体を屈めた。
「ルイシーナ様から何か盗ったらキスしてくれますか?」
「どうしてそうなるのですか。するわけないでしょう」
ぴしゃりと言い放つと、ベルナルドは「残念だなぁ」と分かりやすく肩を落としてみせるのだった。
それからベルナルドはもらった銀貨でボンボリーニを買ってくれた。手をつけずに持って歩いていると、「食べながら歩くんですよ」とベルナルドはボンボリーニを一つ摘まんでルイシーナの唇にくっつけた。遠慮がちに口を開くと、ころんとボンボリーニが転がってきて、ルイシーナは思わず「甘い」と呟いた。
「甘くて美味しいでしょう」
己を見つめる優しい瞳に微笑みをたたえた唇。
甘いのは……と思ったけれど口には出さず、ルイシーナはボンボリーニを一つ一つゆっくり堪能しながら、時折ベルナルドの顔を盗み見た。
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