Good end (結末)
白、赤、黄、青、紫……
色鮮やかな花畑の先に、大きな川がかかっている。川の先にはいくつかの人影が見えるが、その人影にはピントが合わず、ぼんやりとしている。花は彼岸花や椿、牡丹、菊など知っているものも多いが、この世のものとは思えない奇怪な花も咲いている。
これが三途の川と言うやつだろう。
三途の川は臨死体験の1つだ。だが、まさか、泡頭症候群である私がこの様な臨死体験ができるとは思っていなかった。泡頭症候群で脳はズタボロに破壊され、夢を見る脳組織まで破壊されるものだと思っていた。ここまで色鮮やかで壮大な世界を脳組織で構成できるほどとは思わなかった。
夢とは違い、五感がここにあることを感じる。花が手に当たる柔らかな感触、ほのかに甘く香る花の匂い、その全てが現実のように感じられる。さらに、記憶の脳組織も破壊されていないようで、今までの記憶もしっかりしている。
ここまで新鮮な景色を脳死状態の私が見ることはできないはずだ。やはり、この景色は不可能だ。それでも、目の前に現れる色鮮やかな景色は変わらない。
私に分からないものはない。この世の全ての現象は説明ができる。そう自分を過信していた。
だが、ここ最近の出来事で、その考えは間違っていることをあれよあれよと気が付かされた。ファフロツキーズ現象から始まり、ワープ装置、泡頭症候群の治療法、この三途の川の景色。全て不可能と分かりきったことのはずなのに、その全ては存在した。
私はその理由を説明できなかった。
分からないことを考えることを止め、分かっていることから考えていることに気が付かず、自分が世界の支配者であるように勘違いしていた。うぬぼれていたのだろう。
だが、そんなことに気が付いたのは、後戻りの利かない死の境目だ。後悔先に立たずと言う言葉は知っていたが、今初めて理解した。この死の淵に立って、今まで生きている間にしてこなかった後悔がどっと押し寄せてきた。
死への楽観視が今動くことを抑制していたのだ。
明日死ぬかもしれない、今すぐ死ぬかもしれない。そんなことを考えていた頃から、明日も生きることができるはず、今すぐも死なないはずと考え方が変わっていった。今生きているこの時間が帰納的に考えて、永遠に続いていくような気がしていた。
だが、現実はその永遠に終止符を打つ。
私は生きていたい。ファフロツキーズもワープ装置も、この私の病気も全て知りたい。
生きて知りたい。
そして、長年分からなかったこの心のうずまきの正体を知りたい。
答えを教えてくれる人は知っている。
だから、もう一度、この世界を生きてみたい。
不思議と引き寄せられる川の向こうに行かないように、私は背を向けた。すると、背を向けた先には、ぼんやりと人影が見える。そして、私はその人影に向かって歩き出した。
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「いつ起きるのよ~。もう5日よ。」
「ラムネが起きることは確実なんだな。自分の手術が失敗したとは思わないのか?」
「何言っているの。私の手術は完璧だった。そうでなきゃ、私は2年間、アメリカで何してきたのって話でしょ。ちゃんと腕が
大丈夫よ。この寝坊助と違って、私はミスをしない天才なの。研究も、生き方もね。
だから、この寝坊助が狸寝入りしているだけよ。
……ねえ、今なら顔に落書きしてもバレないんじゃない。」
「やめとけよ。一応、病人だよ。」
「馬鹿ねえ。
私は泡のせいで、この麗しきボディラインに銃弾を1発受けたのよ。いたずらしないと気が済まないわ。」
「運がいいよな。銃弾1発受けた後に、ちょうどワープするなんて。」
「そうよ。危なかったわ。脇腹に1発受けた後、急いでワープ装置を閉めて、起動したわ。ワープ装置を起動してしまえば、洗濯機は絶対に開かないから勝ちよ。でも、あの狭い洗濯機の中で、自分の脇腹に受けた傷の治療をすることになるとは思わなかったわね。
でも、私は天才だから何とか出来ちゃった!
それと、予備のエキゾティック物質が入ったカセットを送ってきたのは、いい判断だったわ。あれを使って、電撃爆弾を即興で作っておいたから、きっと襲ってきた奴らは、今頃、痺れてるわね。
……で、こんな幸運に見舞われた私への感謝を伝えることなく、間抜けな顔して眠っていることが気に食わないわ。
落書きよ。落書き。」
私はそう言う冷子の声が聞いた。
その後、冷子がどこからか持ってきたマジックペンの蓋を開ける音が聞こえる。私は段々と体が動くようになってきたので、目をゆっくりと開けた。眩しい病室の光とともに、私のおでこに落書きを書きこもうとする冷子の顔が目の前に写り込んできた。
「肉とでも書くつもり? オリジナリティがないわよ。」
私はおでことマジックペンとの間に手のひらを入れた。動かした手は、ひどく重く、だるかった。おでこの間に入れた所で、力なく顔に落ちてしまった。おでこに落ちた拳の骨の感触が伝わってきた。意外とあの世の感触の方が繊細だった。私が生きているこの世のほうが、鈍く、薄い感覚だ。
「やっと起きたのね。……私の手術は完璧だったみたいね。」
冷子は後ろに振り向きながら、そう言った。私は冷子が振り向く前に、冷子の顔からは安堵の表情が漏れ、目が潤んでいることを見逃さなかった。いつもなら、その弱みをしつこいほどつつくのだが、今の私はそんなことなど忘れて、心から言葉が出ていた。
「ありがとう。」
私は冷子の背中に向かって、頭を下げていた。私は冷子に謝罪をすべきとも、長々と謝礼を言い渡すとも思わなかった。ただ、喉から込み上げてくるありがとうと言う言葉を伝えるだけで良かった。それでいいと冷子を信頼していたからだ。
「その言葉を言うなら、私じゃなくて、一茶の方がいいわ。」
私は冷子の奥にいる一茶の姿を捉えた。一茶は驚いたままの表情のままだ。一茶の顔には、目にはクマを溜めて、少し瘦せていた。私は自分が助かっていることを改めて自覚し、今の状況を少し考えた。
「あのゴミ箱に捨てた設計図を使ったの?」
一茶は大きく首を縦に動かした。私はそれを見て、とても驚いた。私は一茶に伝えたい言葉、伝えたい感情、伝えたいことがたくさんあった。そんな私に取った一茶の行動は、単純だった。起き上がった私の背中に一茶の腕が回されていた。
ゆっくりと重なり合った一茶の体は、大きくて、暖かった。私はこんな身近なことすら知らなかった。私は伝えたかったことをすべて忘れてしまった。私のことも、一茶のことも互いに全て分かりあったような気がしたからだ。
私は息苦しい程に抱きしめる一茶の背中に手を回し、私もゆっくりと抱きしめた。この瞬間が永遠に続けばいいと思っている自分を戒めつつも、この瞬間が少しでも長く続いて欲しいと願った。
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