一 : 黎明 - (13) 発言の真意、伝兵衛の過去

 身綺麗になった奇妙丸は新左一人を伴い、小西隆佐の屋敷を訪れた。奇妙丸が用向きを伝えると、程なくしてワクサが現れた。

「お待ちしておりました。ご案内致します」

「よろしくお願い致します」

 ワクサに対して丁寧な言葉遣いで応対する奇妙丸。その後、ワクサに先導される形で奥へと進む。

 前回と違い、会話は一切無い。自らの命運を左右する勝負という訳ではないが、追い求めてきた疑問の答えが引き出せるか否かの分かれ道という点で、今日の対面にかける思いは強い。緊張で顔がかなり強張っている事にも奇妙丸は気付いていない様子。

 傅役として大半の時間を共にしてきた新左も奇妙丸の異変に気付いているものの、どう言葉を掛ければいいか迷っていた。すると、ワクサが急に足を止めて言った。

「そんな怖い顔をされていたら、伝兵衛様も変に警戒してしまいますよ」

「……そんなに怖いですか?」

「えぇ。まるで別人のように見えます」

 言葉を選ぶことなく端的に指摘するワクサに、新左はハラハラしながら成り行きを見つめる。

 すると、振り返ったワクサは奇妙丸の両頬を手で包み込みながら言った。

「初対面の方に心を開いてもらうには、まず自分が心を開かねばなりません。互いに敵意が無いと分かってから、誠心誠意の姿勢で気持ちを伝えれば、きっと求めていた答えが聞けることでしょう。……心配ありません、きっと分かってくれます」

 ワクサのてのひらの温もりが、じんわりと伝わってくる。そして、徐々に奇妙丸の顔の強張りがほぐれていく。

 意識していなかったが、些か気負い過ぎていたのかも知れない。ワクサの掌が離れた時には、肩の力が少しだけ抜けたような気がした。

「さぁ、参りましょう。伝兵衛様がお待ちです」

 ほがらかな声で促したワクサが、再び歩き始める。その背中を追うように一歩を踏み出した奇妙丸の表情に、先程までの堅さは消えていた。

 やがて、ふすまが閉められた客間でワクサの足が止まる。

「失礼致します。御客人が参られました」

「分かった。通してくれ」

 ワクサが声を掛けると、室内から隆佐の声が返ってきた。許しを得たので、奇妙丸は意を決して襖を開く。

「お前……この前の!?」

 伝兵衛は奇妙丸の姿を目にするなり、大変驚いた様子をで目を大きく見開いていた。。奇妙丸は二人に一礼してから部屋に入る。

「先日はご挨拶が出来ませんでしたので、改めまして。織田“上総介”がそく・奇妙丸にございます」

 奇妙丸が名乗ると、伝兵衛はさらに驚きで目をく。ただの少年ではないと踏んでいたが、まさか日ごとに影響力を増していく織田家の関係者とは想像もしていなかっただろう。

伝兵衛と向かい合う位置に腰を下ろす奇妙丸。まだ状況が呑み込めてない伝兵衛は困惑を隠せない。

 一度下がっていたワクサが奇妙丸と新左にお茶を出して再び下がると、ようやく冷静になってきた伝兵衛が口を開いた。

「……それで、織田家の御子息様がそれがしに何の用ですかな」

「奇妙丸様はここ数日、貴方様にお会いしたい一心で色々と動かれていたみたいです」

明らかに警戒している伝兵衛に対して、横から説明してくれる隆佐。

「騙し討ちのような真似をした事については謝ります。本当に申し訳ない」

 言うなり、頭を下げる奇妙丸。それから顔を上げると、真摯しんしな眼差しで告げた。

「ただ、どうしても知りたいと思いました。先日の去り際におっしゃられた、あの言葉の真意を」

 奇妙丸の言葉に、伝兵衛は驚いたのか目を丸くする。本人も言った覚えはあったが、奇妙丸は気にも留めないと思っていたみたいだ。

 さらに、奇妙丸は続ける。

「あれから、自分なりに色々と調べてみました。南蛮寺も訪ね、こちらにわす小西様からもお話を伺いました。されど、貴殿きでんささやいた言葉の真意に辿り着くことは出来ませんでした。ですので、お教え願えないのでしょうか? ……虫のいい申し出とは重々承知しております。どうか、この通り――」

 直後、奇妙丸は伝兵衛に向かって深々と頭を下げた。その態度に「若!!」と止めようとしたが、奇妙丸は頭を上げようとしない。隆佐も奇妙丸がここまでするとは考えておらず、息を呑んでいた。

 何不自由ない生活をしてきた大名家の跡取りが、一介の浪人に教えを乞うべく頭を下げる。尊大な態度で命じても不思議でないのに、奇妙丸はそうしなかった。身分など関係ない、一人の人間として接しようとしていた。

「……頭をお上げ下さい」

 伝兵衛から声を掛けられ、ようやく頭を上げる奇妙丸。自分より年下の少年に頭を下げさせてしまい、伝兵衛はバツの悪そうな表情を浮かべていた。

「では、お教え頂けるのですね!?」

「それは……」

 思いが通じたと喜ぶ奇妙丸に対し、口ごもる伝兵衛。その後も伝兵衛は気まずそうな表情を見せるばかりで、口をつぐんで話そうとしない。

 何か、言えない事情でもあるのだろうか。奇妙丸が訊ねようとしたその時、横から声が掛けられた。

「……私は席を外した方がよろしいですかな?」

 隆佐が穏やかな声で問うと、伝兵衛は静かに頷いた。どうやら言い出せなかったのは隆佐が居たからみたいだが、それならば何故隆佐が居ると話せないのかと新たな疑問が湧く。先日隆佐に訊ねた時は本当に知らないようだったし、もし仮に隆佐にとって都合が悪いなら伝兵衛が余計な事を言わないか監視する為に意地でも席を立たないだろう。

 奇妙丸が様々な可能性を探っている内に、隆佐は立ち上がり「ごゆるりとどうぞ」と言い残して襖を閉めた。隆佐が歩いていく足音が静かな室内に響いた。

 やがて、隆佐の足音が完全に聞こえなくなったのを確かめた伝兵衛は、徐[おもむろ]に口を開いた。

「……フロイス様を始めとした耶蘇教の教えをく者達が話している内容に、偽りがあります」

 伝兵衛は周りに漏れないよう声を落としながら、明かしてくれた。

 成る程、隆佐に聞かれたくなかったのはこういう事か、と奇妙丸は納得した。日本人の宣教師も少なからず存在するが、教義は全て南蛮からやって来た南蛮人から伝えられたものであり、この国の民に都合の悪い話は意図的に省くことも容易い。それと共に、敬虔な吉利支丹である隆佐に不都合な真実を聞かせたくなかったのだと理解した。

「それは……」

 先を促す奇妙丸。伝兵衛は一つ息をいてから、言った。

「南蛮の者達がよく口にしている、“神の前では皆平等、上も下も無い”という文言。これは、嘘です」

 遂に明かされた、伝兵衛の真意。一方で、奇妙丸に特段の驚きは感じなかった。

 この国にも、法に定められてないが身分の上下は存在する。武家や公家の中でも上下はあるし、武家・公家と庶民の間にも決定的な身分の差がある。さらに、庶民より下には“人ではない”と侮蔑ぶべつの対象になっている穢多えた非人ひにんが居る。商人の中でも“主人・番頭・手代・丁稚でっち”と階級があるように、職業の中でも身分に違いが存在していた。だからこそ、奇妙丸が初めて“神の前では皆平等”の教えに触れた時は衝撃を受けたし、もっと耶蘇教について知りたいと思ったのだ。

 所詮はそんなものか、と落胆する奇妙丸だったが、伝兵衛はさらに続ける。

「我が国にも身分の上下はありますが、吉利支丹だらけの南蛮と比べれば遥かにマシです」

「……どういう事ですか?」

 伝兵衛の言葉に、反応する奇妙丸。どこの国も一緒と思っていたが、どうやら違うみたいだ。

 一つ唾を飲み込んだ伝兵衛は、意を決した表情で告げた。

「南蛮では、吉利支丹だけが人であり、それ以外の異教徒は――人として扱われません」

 告げられた内容に、奇妙丸も思わず息を呑んだ。この国には仏教だけでなく八百万やおよろずの神を信仰する民も居るが、互いにいがみ合うことなく共存共栄の関係を築いていた。我が国に伝来して日が浅い耶蘇教や南蛮人も迫害される事はあれど、穢多・非人みたいに人間として扱われない事は無かった。それが、南蛮では信仰が違うだけで天地の開きがあるというのか。

「それは……真ですか?」

 半信半疑、というより俄かには信じがたい発言に、確かめる奇妙丸も声が少し震える。違うと言って欲しい。秘かに願った奇妙丸だったが、口を真一文字に結んだ伝兵衛の首が横に振れることはなかった。

「残念ながら……実際に、某がこの眼でしかと見ましたので」

 奇妙丸の願いもむなしく、伝兵衛は険しい表情で認めた。

 伝兵衛がまだ九州に居た頃、南蛮船に乗る機会があった。船員は紅毛碧眼こうもうへきがんの者も居たが、それ以上に多かったのは異国の者と思しき人達だった。曰く、異教徒である異国の者達は金で雇われた身で、紅毛碧眼の正規の船員がやらない過酷な仕事や雑用を押し付けられていたそうだ。その扱いは“奴隷”と表現するのが一番しっくり来た。

 また、何処どこからかさらってきた人達を、南蛮の商人が日本の人買いから買う現場も目撃していた。その取引は物の売り買いと同じで、人としての尊厳は一切無視されていた。薄汚れた人達が手首を鎖で繋がれ、まるで牛馬のような扱いで南蛮船にせられていく様を見た……と伝兵衛は証言する。

 戦乱続く世において、乱暴狼藉ろうぜきを行う者の中には人を攫って人買い商人に二束三文にそくさんもんで売り払う輩が存在していた。普通の生活をしていた人達はとらわれたのを境に、人から家畜転落するのである。売られた者は買われた人間から奴婢ぬひと使われ、使い物にならなくなればボロ雑巾と同じように捨てられる。金さえ払えば代わりは幾らでも居たし、人を売買する事でもうけている悪徳商人は少なからず存在した。

 本来であればこうした非人道的な行いは戦国大名が禁じるべきなのだが、多くの勢力はそうしなかった。それどころか、黙認していた。合戦に勝利しても、恩賞を貰えるのは正規の身分の者達だけ。末端の兵は目覚ましい働きをしない限りはタダ働き同然だった。戦の最前線で命を落とす危険が高いのに旨味が無いのでは、末端の兵士は不満を抱えて当然だ。それ故に、不満を抑える為に略奪や人攫い・強姦などの乱暴狼藉に目をつむっていたのである。乱暴狼藉こそ末端の兵達には最高の楽しみだった。

 一方で、織田家では将兵達にこうした行為を禁止し、犯した場合には斬首の厳しい処罰を科した。その理由として、合戦中や勝利後に乱暴狼藉をおこなった場合、その土地の者の生命や財産を奪う事になり、結果として領民の恨みを買うだけで何の得にもならない。評判が下がるだけでなく、治安の悪化や年貢を含めた将来的な収入の減少に直結するのを理解していた信長は、先々の治政に及ぼす影響もかんがみて乱暴狼藉を禁止したのである。その代わりに、徴兵された足軽などには充分な報酬を与え、乱暴狼藉を犯さなくても得があるように仕向けていた。

「人を買いに来た異国の商人の為に、人買いの商人が東国から鎮西ちんぜいへ人を送っているとも聞きます」

「……何という事だ」

 あまりの衝撃に、奇妙丸は言葉が無かった。自分が食べる事や住む所を失わない環境で過ごしている間も、九州では普通の生活をしていた人達が奴隷として海外に売られていたなんて。傍らで控えている新左も愕然がくぜんとしていた。

「しかし、それは真なのでしょうか? あいや、伝兵衛殿を疑う訳ではありませんが、現実のものとは思えないのでして……」

 横から新左が伝兵衛に訊ねる。ここまで来て伝兵衛が出鱈目でたらめな事を言う筈がないとは分かっているが、それでも訊ねずにいられなかった。

 新左の問いに対しても伝兵衛はムッとすることはなく、淡々とした調子で答えた。

証左しょうさとなるものはありません。されど――某が見聞きし、実際に体験した事を素直に話したまで」

 伝兵衛の言葉に、奇妙丸の眉がピクリと反応する。その場に居合わせただけなら“見聞きした”だけで済むのに、その後ろに“体験した”と付け加えた。すなわち――。

 これは聞いていいのか分からず迷っている奇妙丸に、伝兵衛ははっきりと言った。

く言う某も、奴婢として海外に売られそうになりましたので」

 伝兵衛の口から語られた衝撃の真実に、二人は文字通り言葉を失った。

 それから、伝兵衛は自らの過去を訥々とつとつと語り始めた。

 元々、伝兵衛は肥前ひぜん国の国人の生まれだったが、肥前国で勢力を拡大させていた竜造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶに自らの家を攻め滅ぼされてしまった。一族郎党は戦死したか離散し、元服前だった伝兵衛は運悪く囚われの身となった。竜造寺家の牢に入れられたが、扱いに困った牢番が秘かに人買い商人に伝兵衛を売り払い、海外向けの奴隷として輸出すべく平戸ひらどへ送られた……という。

「南蛮船に乗せられようとしたその時、たまたま居合わせたフロイス様が商人と掛け合い、某は自由の身となりました。もしもあの場でフロイス様と出会わなければ、某は今頃異国の地で奴隷として過ごしているか、南蛮船で馬車馬のようにき使われていたか。いずれにしましても、人として扱われなかった事でしょう」

 何事も無かったかの如く話す伝兵衛に、奇妙丸は他人事のように思えなかった。

 織田家は今でこそ京や畿内を含めた数ヶ国を領有する全国でも指折りの大名に成長したが、元は尾張半国をやっとの思いで収めていた身。武運つたなく敗れていれば、奇妙丸も伝兵衛のようになっていたかも知れないと考えただけで、背筋が凍る。扱いに困ったから人買いに売り払うなんて酷いとは思うが、武家は強さが全ての世界。勝者は富も名声も独り占めだが、敗者は全てを失うだけでなく命すらも勝者のさじ加減一つで変わってしまう。囚われの人間がある日突然居なくなっても『流行り病で死んだ』と適当な嘘で済まされる。余程重要な捕虜ほりょではない限り、深く詮索せんさくされる事は無いのだ。武家だからと言ってその身分が永遠に保障されるとは限らない点では、庶民と何ら変わらない。

 普通の人から奴婢ぬひちるのは一瞬だが、逆に奴婢から普通の人へ戻るのは極めて困難だ。遊郭ゆうかくの遊女を身請みうけするなど一部の例外はあるが、それでも非常にまれな事には変わりない。雇用主からすれば家畜同然の者を解き放つなど、相応の理由か見返りが存在しないと承諾しないだろう。

 海外に出れば二度と人として扱われない瀬戸際で、間一髪まぬがれる事が出来た伝兵衛。そうした経緯いきさつがあったなら、フロイスに恩義を感じるのはもっともな話だ。

「……一つ、お訊ねしてもよろしいですか?」

「何なりと」

 おずおずと訊ねる奇妙丸に、快く応じる伝兵衛。

「伝兵衛殿は吉利支丹ではないとお見受け致します。違いますか?」

 伝兵衛は吉利支丹がよく身に付けている十字架の首飾りが無く、フロイスが指で十字を切っていても他の信者のように真似をしたり祈ったりしていない。そこから推察するに、入信していないのではないかと奇妙丸は考えた。

「ご明察の通り、某は吉利支丹ではありません」

 洞察力の高さに舌を巻いたという反応を見せる伝兵衛。奇妙丸の見立ては正しかったようだ。

 ただ、ここで一つ疑問が湧く。フロイスに一方ひとかたならぬ恩義を感じているのなら、フロイスが広めている耶蘇教に入信しても何ら不思議でないのに、伝兵衛はそうしていない。それどころか、唾棄だきまでいかなくても相当な嫌悪を抱いているように映る。辻褄つじつまが合わないと思うのは自分だけだろうか。

 奇妙丸の疑問に気付いた伝兵衛は、一つ間を置いてから答えてくれた。

「某を救ってくれたフロイス様には感謝しております。されど、南蛮から来た商人が我が国の者達を奴隷として買っているのも紛れのない事実。フロイス様を始めとした伴天連の皆様が二枚舌を使っているとは思いませんが、自分達以外の異教徒に対する扱いを目の当たりにしていれば、某も入信したいとは思いません」

 伝兵衛の言いたいことは、奇妙丸にも何となく分かる気がした。伴天連が説く“神の前では皆平等”の原則は本心で言っているのだろうが、南蛮人が異国人を奴隷として使役しえきしているのも現実にある。この国でも坊主が高尚こうしょうな教えを説く一方、庶民がその教えを忠実に守っているとは言い難い。この事から“神の前では皆平等”という教えは形骸化していると捉えるのが自然だ。仮に、“信じている神が違う”という解釈から適用されないとしても、しいたげている事に変わりはなく、はたから見れば差別しているのと同じである。

 どちらにせよ、伝兵衛にとって耶蘇教は今までの信仰を捨ててまで入信する程のものではないという事だ。

「……分かりました。最後に、もう一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」

 奇妙丸が訊ねると、伝兵衛は静かに頷いた。それをだくと受け取り、奇妙丸は口を開いた。

「あの時、どうして私に声を掛けて下さったのですか?」

 言葉の真意については明らかになったが、ここで疑問が湧く。どうして見ず知らずの私に伝兵衛は忠告とも取れる言葉を掛けてくれたのか。耶蘇教の教えに惹かれた奇妙丸が仮に入信した後で理想と現実の違いに失望したとしても、それは入信した奇妙丸の自己責任であり、フロイスの護衛をしている伝兵衛には何ら責任は生じない。それなのに、敢えて思い留まるよう働きかけた。その理由を知りたかった。

 疑問をぶつけられた伝兵衛は頭を掻くと、やや困った表情を浮かべながら答えてくれた。

「……某が売られそうになった時、ちょうど貴方と同じような年頃でしたので。何となく、当時の某と重なって見えて」

 フロイスの話を聞いて、耶蘇教に対して凄く惹かれているのは奇妙丸自身感じていた。目新しさだけでなく従来の仏教には無い教えや清貧せいひんさなど、良い点ばかり際立っていた。前のめりになりそうになった時、踏み止まって冷静に判断するよう促してくれたのが、去り際に残した伝兵衛の言葉だった。お蔭で、綺麗な面だけでなく本質的な側面を垣間見る事が出来た。

 伝兵衛にとっては咄嗟の出来事だったかも知れないが、結果的に様々な人と出会えて奇妙丸は良かったと感じている。

「ありがとうございます」

 奇妙丸は感謝を示すべく、再び深々と頭を下げる。すると、伝兵衛はまた困ったような顔をして頬を掻く。

「……頭を上げて下さい。そんな大した事はしていませんから」

 そう伝兵衛は謙遜するが、奇妙丸はどうしても感謝を伝えたかった。当の本人には些末さまつな事かも知れないが、あの一言が奇妙丸には重要な転換点のように思えたからだ。

 事の成り行きを見守っていた新左が「隆佐様を呼んできます」と言って部屋から出て行く。出された茶をすする伝兵衛の顔を、奇妙丸は真っ直ぐな瞳で見つめていた。


「成る程、そのような事でしたか……」

 その日の夜。奇妙丸は宗久に「一緒に茶が飲みたい」と誘うと、宗久も快諾してくれた。敷地内の草庵に移り、これまでの経緯について説明した。

 宗久がててくれた茶を一口含んだ奇妙丸は、しんみりと語った。

「私は、何も知らなかった。異国から渡って来た信仰も、この国の者が奴隷として売られていく事も、全く知らなかった。岐阜で何不自由なく過ごしていた間にも、世の中は刻一刻と変化しているとは思いもしなかった。……本当に、堺へ来て良かった」

 奇妙丸が率直な思いを口にすると、宗久は静かに頷いた。

 幼い頃に暮らしていた生駒家は灰や油の商いに馬借ばしゃくを営んでいた事もあり、屋敷には大勢の人が出入りしていた。奇妙丸も訪れた人や屋敷の者から様々な事を教えてもらい、他の子と比べて物知りであると自負していたものだ。岐阜に移ってからも沢彦和尚から教えを受け、さらに知識を深めた。それでも奇妙丸は満足せず、この国の都である京や勢いのある堺で見聞を広めたいという思いを抱いていた。

 しかし、実際に現地を訪れてみて、自らが井の中のかわずだったことを痛感させられた。

 絵巻物や書物の中の京はとても華やかで雅な場所と描かれ、今もそうだと勝手に思っていた。だが、現実は荒廃こうはいからの復興途上で、賑やかさだけなら自由闊達かったつな商売が出来る岐阜の方が上回っているように奇妙丸は感じた。反対に、堺の街は自分が想像していた以上の活気で、人々の熱量で圧倒される体験は生まれて初めてだった。人伝ひとづてに聞いた話より自分の足で歩いて現地で見て聞いて触れて感じたものの方が遥かに身になると、改めて思い知らされた。正に“百聞は一見にかず”である。

「平穏に暮らしていた人達が戦を境に奴婢にされ、人を家畜同然に売り買いする商人が居て、海外へ商品として出荷される。こんな事は一日一刻も早く止めなければならない」

 声量は大きくないけれど熱の籠もった声で話す奇妙丸。

「人の道理に反する行いで商いをする輩が居る……確かに、非道ひどい話ですなぁ」

 奇妙丸の話に同意を示した宗久は自らが点てた茶を啜ると、ポツリと漏らした。

「されど、売り買いが成り立つという事は、それなりに儲けもある裏返しでもあります」

「……宗久殿は、同じ商人が非道な行いに手を染めているのを、良しとお考えですか?」

 宗久が人身売買を肯定するような発言をして、奇妙丸は大変驚いた。

 噛み付かんばかりの勢いで奇妙丸が質すと、宗久は「いやいや」と否定した上で続ける。

「商いというのは“売り手”“買い手”“世間”の三方が満足するのが良しとされております。その点で言えば人買いは“売り手”と“買い手”は満足しても、残る“世間”は決して納得しないでしょう。にも拘わらず、おおやけにならなくてもそうした市場が存在するのは、“世間”を敵に回しても利益が見込まれるからでしょう」

 宗久の説明を聞いて、成る程と思う奇妙丸。商売は何が何でも安ければ良いという訳ではなく、あまりに質が悪かったり不愛想だったりすると儲けに結び付かない事がままある。金を出して買うならより良い物を買いたい。一方で、“世間”が認めないにも拘わらず人買い市場がいつまでも廃れないのは、“売り手”“買い手”共に一定の需要があるからだとも考えられる。

「決して褒められた商売とは言えません。されど、商人は儲けたモンが勝ち。どんなにあくどい商売をしていても、利益を世間に還元しているのなら、稼げてない者達が幾ら声を挙げても握り潰されるだけ」

「……まるで武家みたいだな」

 何気なくこぼした奇妙丸に「しかり」と頷く宗久。

「商いは、言うなれば“刀槍とうそうを使わない戦”のようなもの。如何いかに稼いで、どれだけ利益を積み上げられるか。お武家様と違いまして“銭”という物差しがありますので、誰が勝ったか負けたかはっきりと分かります。だからこそ商人は儲ける為に“ここ”を使い、目利き耳聡みみさとを欠かさず商機を探るのです」

 そう言い、宗久は自らの頭をコツコツと叩く。

 豪商の中には大名家と昵懇じっこんの仲であることも少なくない。大名家は豪商から資金援助を見込め、豪商も大名の領内で商売の権利を融通してもらえるので、双方に利点があった。一方で、豪商は近付いた大名家が飛躍すればその恩恵にあずかれるが、逆に大名家がつまずけば一緒に没落する危険を孕んでいた。

 例えば、宗久は信長に上洛の兆しが見られたので『今後の成長が見込める』と判断して接近。永禄十一年十月に初めて信長と対面した際には名物茶器の“松島茶壺”や“紹鴎茄子”を献上し、歓心を得た。先日の堺への二万貫要求の時も宗久は街を守る為に奔走したが、自分が見込んだ信長の要求に応える事で株を上げようという思惑が少なからずあった……と思われる。宗久の見立ては今のところ当たり、その恩恵を受けている。失敗すれば自分だけでなく家族や働く者・取引先にも影響を及ぼす点では、武家と何ら変わらない。

 神妙な面持ちで茶碗の中を見つめる奇妙丸に、「さて」と宗久が声を掛けてきた。

「奇妙丸様。商売で勝ち抜く為に大切な事があります。何だと思われますか?」

 唐突に問われて「うーん」と唸る奇妙丸。先程宗久は合戦と通ずると言っていたが、全く見当がつかない。

 奇妙丸は、自分が商人になったつもりで考えてみる。買い手が喜ぶような値段で、しっかり利益が出る値付けをして、世間が満足する商売をする……どれも大切だと思うが、違う気がする。

 暫し考え込んだ奇妙丸は、おずおずと答えた。

「……商人の勘、でしょうか?」

 以前、誰かから聞いたことがある。合戦で幾度も武功を挙げてきた猛者は、ただ強いだけでなく独特の嗅覚を持っている、と。商売も同じで、経験や分析も大切だが、勘が優れているかどうかで繁盛するかしないかが決まるのではないか。

 その回答に「なかなか鋭いですね」と宗久は感心する。ただ、宗久の求めている答えではないみたいだ。

「勘は確かに必要です。されど、もっと簡単なことです」

「もっと簡単なこと……?」

 持っていた茶碗を畳に置いて、腕を組んで真剣に考える奇妙丸。純粋に答えを探し出そうとする姿に、宗久はクスッと笑った。

「いや、失礼しました。答えは簡潔――人です」

 宗久が明かしてくれた答えに、奇妙丸はハッとさせられた。さらに宗久は言葉を継ぐ。

「どんなに才覚がある商人でも、一人では出来る事が限られてしまいます。助けてくれる人、支えてくれる人、多くの人の力があればこそ成功に結び付く……そう考えております」

 指摘されて初めて、奇妙丸は自分の至らなさに気付かされた。

 生まれてからずっと下働きの者が居て、生駒屋敷では入れ替わり立ち代わり誰かが気に掛けてくれて、岐阜城に移ってからも傅役の新左を始めとする家臣に囲まれて過ごしてきた。自分が何不自由なく生活出来ているのは、自分に関わる多くの人達の支えがあるからであって、それを当たり前のように捉えていた。

 恥じ入る気持ちの奇妙丸をチラリと見た宗久は、優しく語り掛けてきた。

「人に囲まれて生活していると、それが当然と思うのは自然なことです。ですので必要以上に自分を責めなくてもいいですし、これから認識を変えればいいのです。特に、奇妙丸様はまだお若いのですから」

「……はい」

 そう言われ、奇妙丸は少しだけ気持ちが軽くなった。表情が明るくなったのを確認した宗久は、茶を啜ると再び口を開いた。

「私の商いも様々な人に支えられています。お得意様や取引先も大事ですが、一番は店で働く者達です」

 また一口茶を飲むと、宗久は奇妙丸の目を見つめながら話し始めた。

「仕入れ、店の掃除、接客、取引先廻り、寄合への出席、棚卸……やらねばならない事はまだまだあり、全て一人でやろうとすれば体が幾つあっても足りません。ですから人を雇い仕事を分担するのですが、肝要なのは適切な配置と目利きです」

「適切な配置と、目利き……?」

 奇妙丸が問い返すと、宗久は大きく頷いた。

「能力の無い者に高度な仕事を任せると失敗ばかりで店が傾きますし、逆に能力が有る者にいつまでも下働きをさせていては宝の持ち腐れになります。我々上に立つ者は下の者の器をよくよく見極め、相応の仕事を与えるのが肝要です。また、多少の失敗はありましょうが、こちらが委ねた以上はあまり細かく叱責せずに見守ることも大切です。叱り飛ばして萎縮させては本来の力を発揮出来なくなりますから」

 ふむふむと首を縦に振る奇妙丸。豪商の主人である宗久の言葉を一語一句聞き漏らすまいとする姿勢が前面に出ていた。

 宗久はさらに続ける。

「茶の湯の世界に、“一期一会いちごいちえ”という言葉があります。今この時に会っている人は二度と会えないかも知れない、だからこそ亭主も客もそうした心構えで臨まなければならない……そういった意味です。そして、人の出会いもまた同じ。人生で“これぞ”と思う人との出会いが必ずあります。その時は躊躇なく友好を深め、場合によっては引き入れるべきです。その時を逃せば縁が切れてしまうかも知れませんから」

 宗久の言葉に、奇妙丸は目を大きく見開いた。雷に打たれたように暫く固まった後に「……そうか」と一言ポツリと漏らした。

 得心したという表情の奇妙丸に、宗久も変化に気付いた様子。

「……何か思うところがあるとお見受けしましたが」

「はい! とても実りあるお話が聞けて、気持ちが固まりました!」

 宗久の問いに、奇妙丸は晴れ晴れとした表情で答えた。

「左様ですか。それは良かったです」

 すっきりとした面構えの奇妙丸を見て、宗久も目を細めた。

 奇妙丸は茶碗に残っていた茶を一息で飲み干した。その瞳は何かを決意したのか炎が灯っているように映った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る