タイム・ダイブ(時間潜水)V.2.1

@MasatoHiraguri

第1話 記憶ではなく時間へのダイブ

「タイム・ダイブとは記憶の中に入るのとは違います。その人間の『時間』そのものに戻るのです。」漫画コブラ「タイム・ダイブ」寺澤武一より

(過去にダイブできれば未来へも。だからこそ、メモリーではなくタイムなのです。)

  現在の私の生活には、テレビもラジオもスマホもインターネットもない。

  テレビとスマホはもともとないし、ラジオは3ヶ月前に壊れてしまった。

インターネットの使用に関しては、観光案内所で1時間、書いた本をネット上にアップと資料収集で使うだけ。ですから、大学日本拳法の試合もブログも、最近ではゆっくり見ることができない。

しかし「不幸中の幸い」というべきか、人を介した・人が加工した情報がほとんど入ってこないので、タイム・ダイブすることができるようになったのかもしれません。

日本でも台湾でも、ど田舎に住んでいた時は、あれだけ豊かな山と海、川や空という大自然に囲まれて生活していながら、家でも図書館でもネットができたし、また、高知では週に一度は(俗っぽい)人間と日本語で話をしたりしていたせいか、過去の記憶へは戻れても時間に戻ることはできなかった。

ところが、ここ最近、頓(とみ)に昔のことが鮮やかに思い出されるようになったのは、ジジイになって「ヤキが回った → お迎えが近くなった」せいかもしれませんが、なんといっても、人との会話や人工的な情報に接する機会が激減したのが最大の理由のような気がします。

そして、記憶をたどる・思い出すのではなく、時間に戻ることができたからこそ、以下のような本を書くことができた(内容の良し悪しは別にして)のだと思います。

  「夏になれば思い出す Part 1 優勝」

  「夏になれば思い出す Part2  私が私になった日」

「現代の「聊斎志異」怪奇譚」

  「働く者の手」

  「大学日本拳法部ログの静かなる衝撃」

  「大学日本拳法部マネージャーの美学」

  「21世紀の「河豚計画」 V.1.1」


「夏になれば思い出す Part 1 優勝」「夏になれば思い出す Part2 私が私になった日」に述べられた内容とは、過去約40年間、断片的な記憶としては存在していましたが、(存在感のある)物語として思い出すことはできなかったのです。

「大学日本拳法部ログの静かなる衝撃」や「大学日本拳法部マネージャーの美学」という本にしても、50年前の大学日本拳法時代にダイブできたからこそ、いま現在の大学日本拳法部マネージャーさんたちとの時間的なつながりが(私なりに)見えてきたのではないだろうか。

過去の記憶(記録)ばかりを辿るのでは、決して過去から現在につながる連綿とした時間と空間を見ることはできない。

  「還暦」とはよくいったもので、自分の過去に還るということらしいのですが、私の場合、自分の記憶にではなく自分が存在した時間に還ることができた。

(肉体的にはもうすぐ70歳なのですが)精神的というか時間感覚は、私が3歳の頃、八丈島のジャングルという大自然の中で生きていた頃の自分に、少しずつ戻ってきているような気がします。おそらく、これが私という人間(の魂)の原点なのでしょう。

その大自然の心を鏡にして、大学や商社時代といった時空へダイブすることで、今まで見えなかったものが見えてきたのかもしれません。


  また、じっくりと時間のダイブを楽しむことができたのは、毎日誰とも話をしない・ネットや新聞・テレビ・雑誌といった、韓国脳マスコミを介した社会の窓が閉ざされているおかげ、かもしれません。



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