第2話:故郷にて

(地元に戻って早々、こんなことになるとは……)

 急な予定変更から始まり、こんな形での再開。

 数年――……いや、十数年ぶりの帰還となったというのに、利昭――設楽利昭――はこんな風に歓迎されるとは思ってはいなかった。

「とひさんぱー……」

「あた、会いたお……」

(昔の友は今も友、か……ありがたいことだな)

 目の前に並んでいる二人――学生時代の部活の後輩で、椎名智秋と竹元みのり――の女友達。

 酔って眠っているだけだが、こんな声を聞いてしまうと寝言だと分かっていても嬉しいものだった。

「利ちゃんは昔から後輩女子に好かれていた?」

「や、好かれるも何も、酔った上での寝言だし……それに、女子に好かれるのは真ちゃんの方でしょ」

 二人に毛布を被せ、真悟――みのりの兄――は、利昭に学生の頃の呼び方で話しかけてくれていた。

(こういう風に呼び合えるの、何だか嬉しいな)

 互いに意識せず、昔の呼び方が出来ていた。

 家が隣同士で、通う学校も同じ。同年代だから会う機会も増え、自然と仲良くなっていた。

 それでも歳を重ねる毎に会う機会は減り、昔のように名前で呼び合うこともなくなっていった。

「今日に関しては、椎名さんとみのりちゃんは懐かしい先輩って認識だろうし、俺は女子に声を掛けられたことは一度もないしね……」

「そうなん? みのりからは利ちゃんが後輩女子に優しいって聞いていたけど?」

「それ、ご近所補正じゃないかな。みのりちゃんなら俺を真ちゃんと比べて過大評価しそうだし」

「なるほど。それは有り得るかも。オレが利ちゃんと同じことをやっても、兄なんだから当然だって取り付く島もない」

 兄貴って損な役だなと、真悟は缶に残っていたビールをゆっくり空にした。

「でも、オレ達がこうやって酒を飲むようになるなんて、昔からは想像もしてなかったよな?」

「そうだね。椎名さんやみのりちゃんと一緒に飲むことになるとは思わなかった」

(先輩後輩補正が発動したんだろうな……)

 学生の頃から彼女達は可愛らしかったが、此処に来て再会してみたら、また印象が違っていた。

「利ちゃんは久し振りに二人に会って、昔との違いに追い付かないんじゃない?」

「それを言ったら、真ちゃんと会った時の方が衝撃的だったよ。俺の記憶にあるのと違っていたから」

 時の経過と成長と共に、ヒトの姿は変化する。

 後輩女子達の姿もそうだが、真悟は体型が変わっていて、利昭はその違いに驚きを隠せなかった。

「あー……そっか。昔は身体を鍛えていたりしていなかったな」

 口調や仕草に昔ながらの面影は映るものの、本当に利昭の知っている真悟なのか、俄かに判断し兼ねるところがあった。

「でも、オレは利ちゃんと再開しても違和感はなかったな。成長していないとかじゃなくて、歳を重ねてこういう風に進化したんだって、納得した感じ」

「真ちゃんが俺に対して悪い印象を受けてなくて良かったよ。藁をも掴む気持ちで此処に来たわけだから、拒絶されないか不安だったからね」

 此処に至るまでの流れを思い返し、利昭は改めて胸を撫で下ろす。

(実家に帰って来たのに、お隣に駆け込むことになるなんてね……)

 事の発端は数時間前、利昭が懐かしい地元の駅に着いた頃に届いた、一通のメールから始まった。



 -壱-


 利昭へ

 おかえりなさい。

帰ってきて早々申し訳ないけれど、急な用事が出来てしまったので、今日は戻れません。

 家の鍵が必要な場合は哲哉に借りて下さい。

 もし、着くのが遅くなるようなら、お隣に伝えてあるので、其処に連絡して下さい。

 早紀より



(……こういうの、普通は俺が到着する前に連絡が来ていると思うんだけどなぁ)

 ケータイの振動。

 それは改札を抜け、利昭がとても懐かしい夜の風景を目にした時のことだった。

(此処に来るまでの距離があるんだから、そんなに早く戻って来られないっての……!)

 実家に帰ってくるというのは母――設楽早紀――に二週間前に伝えてあった。

 事情があって実家に戻ることになったのだが、その辺の認識に齟齬があったようだった。

(参ったな……哲に借りろと言われてもなぁ)

 確かに哲哉――利昭の弟――に連絡するのが鍵を入手する最も簡単な方法なのだが、その弟は此処から数駅先の離れたところに住んでいるので、この遅い時間に急に連絡するのは些か気が引けた。

(流石にもう一度、電車に乗るのもキツイしな。かといって、地元に帰ったのにホテルに泊まるって何だか変だしな……)

 実家に入れない、弟とも連絡を取り辛いとなると、必然的に選択肢が限られてくる。

 時間も時間ということもあった。利昭としては母に伝えられた番号に連絡するしかなかった。



(お隣に電話したのって、どのぐらい前だ?)

 ケータイで伝えられた番号を押しながら、そんなことを思い返す。

(昔は何かとお邪魔しに行ったけど、流石に真ちゃんやみのりちゃんは竹元家に居ないだろうな)

 中等生の二年の頃に此処に引っ越してきてからの付き合いなので、かれこれ十五年以上の付き合いとなるが、今回のように連携を取り合えるぐらいには良好な交流が続いているようだった。

(お隣だっていうのに、歳と共に会う機会が減って……うーん、どのぐらいになるかな?)

 昔馴染みのことを思い出しながら連絡してみると、数コール後に若い女性の声が聞えた。

「はい、竹元です」

「夜分にスミマセン。私、設楽と申しますが――」

「え? 設楽って……利先輩です?」

 利昭がどう会話を切り出すかを考えるところで、相手から予想外の呼び方が聞こえてきた。

(な、何だ? 聞き覚えのある声なんだけど……)

 利昭の知っている竹元家の女性は真悟の母親と妹だったのだが、今の声はその何れでもなかった。

(あー……多分、彼女の声だな。でも、どうして真ちゃんの家に居るんだ?)

 第三の声に戸惑いはしたが、彼女の「利先輩」という単語で、徐々に記憶が甦っていく。

 利昭を「利先輩」と呼んだ女性は一人しかいなかった為、思い出すのは簡単だった。

「もしかして、椎名さん?」

「あ、そうです! 声でボクって分かったんですね――……って、ちょっと代わります」

(やっぱりそうか。俺の記憶もなかなかだな)

 声の感じは昔と少し違っていたが、あの独特の呼び方は簡単に忘れられるものではなかった。

 実際、利昭がこれまで会った女性の中に、彼女と同じ一人称の呼び方をしていた女性は誰一人もいなかった。

(あれも個性だけど、椎名さんは似合うんだよな)

「代わりました。真悟です。利ちゃん?」

 部活で一緒だった頃の彼女を思い出していると、聞き覚えのある男の低い声と共に、昔からの懐かしい呼び方が耳に響いた。

「あ……うん。その、夜分に申し訳ない」

「いやいや、話は聞いていたし、問題ないよ」

 此処に至るまでの事情を汲み取ってくれているのか、こちらからの説明は不要のようだった。

「昔みたいに家に来て上がってくれれば良いよ」

「……ありがとう。これから伺うね」

 必要最低限のことだけ伝え、電話を切った。

(昔みたいに、か。真ちゃんも色々と思い出しているんだろうな)

 懐かしく感じる気持ちと、一晩の不安を拭えた安堵感で、自ずと利昭の向かう足は軽くなっていたのだった。



 -弐-


「確かに実家に戻って来たのに入れないのはショックだな。連絡先が分かっていたとはいえ、もう何年も前から会ってない相手だし、利ちゃんの気持ちも分かる」

 お互いにそういう世間体を気にする年齢になったってわけだと、真悟は苦笑を浮かべた。

「そうなんだよ。竹元家に行くように言われたけど、真ちゃんが家に居るとは限らなかったし、哲にも連絡は行っていただろうけど、俺は其処からまた電車に乗って行く気になれなくって」

「そりゃそうだ。利ちゃんが仕事していた場所、かなり遠いって聞いていたから無理もないな。哲君に連絡は?」

「飲み始める前にメールで連絡したよ。真ちゃんによろしくって」

 利昭が真悟の家に泊めてもらう旨を哲哉に伝えたところ、簡単に「了解。そして、お帰り!」と返答が来ていた。

(お帰り、か……帰って来られる場所があるのってありがたいな)

 竹元家に上がって来たところで三人から同じ言葉を貰ってはいたが、身内からの言葉と認識すると改めて帰還したのだという実感が湧いてくる。

 自身の都合で帰還することになったとはいえ、何処か家族の暖かみを感じたのは事実だった。

「お、そういや哲君ともかなり会ってないな。そんなに遠くないところに居るんだから何処かで会いそうなもんだけど」

「今回の俺もそうだけど、近くに居ないと自然に会う機会が減っていくから変な感じだよね……」

 これも時間の経過が導き出す不思議だと利昭は思った。

 互いに親しい仲だからこそ、互いを尊重して干渉しない……時代と共にヒトのあり方も変化してしまったようだった。

「正直、真ちゃんが家に居てくれて助かったよ。俺達の年齢なら実家から離れていても変じゃないし、居ないんじゃないかって思っていたから」

「そうだな。オレの周りでも実家に居るって奴の方が少ないな」

 自分でやりたいって仕事を見つけられたなら場所を選ばずにそうしただろうと、真悟。

「オレの場合は職場が実家の近くだったから、結果的に一人暮らしをしていないわけだけど」

「そういや、真ちゃんは地元で就職したんだよね? 職場が椎名さんと一緒なの?」

 四人で食事をした後の会話から、智秋が立役者だというのを利昭は憶えていた。

「それな。実を言うと、オレは大学卒業と同時に就職したわけじゃないんだよ」

 あの就職氷河期に希望した先に内定を貰った奴の方が少ないんじゃないかという真悟の言葉に、利昭は何度も頷いた。

(確かに。俺も一応は就職したけれど、希望していた職業とは懸け離れた仕事をしていたし)

「実際には椎名に勧められて障害者施設のボランティアをしていたんだよ」

「椎名さんに? それはまた意外なところから――……あ、そうか。もしかして椎名さんとみのりちゃんの仲が良かったのが関連している?」

「流石は利ちゃん。椎名は学生の頃からみのりに会いに此処に来ていたんだよ」

 真悟の言葉を受け、利昭は二人が部活でよく一緒に行動していたのを思い出す。

「なるほど。職が決まらずに実家で悶々としているところを彼女に何度も目撃されていたってことね」

「そ。恥ずかしい話だけど、やりたいことも決まっていなかったからな。椎名に何もしていないなら手伝えって頼まれた感じ」

(へぇ。椎名さんにはそんな一面もあったのか)

 智秋が明るくハキハキした性格で、行動も速いというのは利昭も認識していたが、ボランティア活動をしているとは思いもしなかった。

「ふむ。その流れで一緒に参加していたと」

(真ちゃんは細かいところに気が利くし、体型的に力仕事も熟せそうだから、向いていたのかも)

「ああ。言われるまま参加したわけだけど、これが不思議と嫌な感じにならなかったんだよ」

 全く考えたことのない職に携わることになるとは思わなかったと、真悟は肩を竦めた。

「そんなこんなでボランティアを続けていたら、その作業所から非営利活動法人を立ち上げるから、此処で働いてくれないかって頼まれたわけだ」

「凄い展開だね……なるほど。それで三人は其処に就職したってことか」

「そういうこと。非営利活動法人になってもやることはこれまでと概ね同じだし、顔馴染みばかりだから変わったって感じはしないんだけどな」

(運もあるだろうけど、これまでの実績が評価されたってところだろうな)

 ボランティアから始まったとはいえ、これまでの信頼がなければ頼まれたりしないだろう。

 経緯はどうであれ、真悟達がそれぞれの進むべき道を信じて選んだのは間違いなさそうだった。

(職場でも三人で仲良くしていそうだし、椎名さんが真ちゃんの家に居るのが普通なんだろうな)

 竹元家に電話したのに智秋の声を聴いた時は驚かされたが、これまでの会話の流れから、逆に彼女が竹元家で生活をしているのが必然なのだと、利昭は今更ながら納得したのだった。



 -参-


「システムのメンテナンス?」

 真悟に勧められるまま遅めの夕食を済ませたとこで、利昭は早紀が家に戻れなくなった理由を知ることとなった。

「はい。何でも商店街のホームページにアクセスできないって利用者から連絡があったみたいで……」

「親父とお袋が現場に急行したんだが、二人ともネットワークの知識に疎くてな。途方に暮れていた時に早紀さんが昔はエンジニアだったのを思い出して呼び出したってわけだ」

 地元に戻って来たばかりなのに申し訳ないと、真悟とみのりは深々と頭を下げていた。

「いやいや、二人して頭を下げないでよ。真ちゃん達のお陰で俺は野宿しないで済んだわけだし、母さんも今じゃないと駄目だって判断したから関係者に連絡を寄越したんだろうから、俺はそれに意見するつもりはないよ」

(駅に着いた直後のメールには呆然としたけど、誰かが早急に対応しなければならなかったんだから)

 その辺の臨機応変については、設楽家で生まれ育った利昭が誰よりも理解しているところだった。

(仕事である以上、緊急時の対応を求められることがあるのは仕方がない。重要なのはそれを如何に捌くかだって、いつも言われていたからな)

 帰還のタイミングと重なりはしたが、早紀の性格上、出来ることを先延ばしにするはずがない。

「でも、利先輩は久し振りに実家に戻って来たのに平気なんです?」

 ボクだったら文句を言っちゃうだろうなと、智秋は不服そうな表情を浮かべる。

「まぁ、事情が事情だし。連絡もなしに家に入れない状況になっていたら抗議しただろうけど、俺が育った環境では常に緊急ありきだったからね」

「常に緊急ありき? どういうことです?」

「あ、そっか。椎名には言ったことなかったな」

 利昭の言葉を受け、智秋が設楽家の環境に疑問と不審を露わにしたのを真悟が察して宥めていく。

「要は利ちゃんの両親がエンジニアで、今回みたいに不具合が発生した場合、現地に行って対応をしてくれているんだよ」

「え? こんな遅い時間なのに?」

「時間帯は関係ないんだって。前に早紀さんに聞いたら、地震や災害は待ってくれないでしょって」

(……尤もな例えだけど、気にしてくれたみのりちゃんに伝えるには身も蓋もない言葉だな)

 例えが酷くてゴメンと頭を下げ、利昭。

「母さんの言葉はアレだけど、普段から出来ていたことが急に出来なくなってしまうのは誰もが困るからね。父さんや母さんの仕事は専門的な知識がないと駄目なことも多いらしいから、どうしても今回みたいなシワ寄せが生じてしまうってわけ」

(常駐先に待機して家になかなか戻れない父さんは兎も角、母さんは飽く迄も元エンジニアなんだから無茶をしなければ良いんだけど)

 その辺りが早紀の気質なので、心配はするものの、利昭はそれを否とは全く思わなかった。

「はー……そういう世界なんですね。それじゃ、利先輩は子供の頃は寂しかったんじゃないです?」

「まぁ、両親がずっと家に居るって方が少なかったけど、弟やお隣に住んでいる二人と一緒に居ることが大半だったから、そんなに寂しいって感じにはならなかったよ」

 利昭に何度も頷きながら、お隣に同年代が居るのって羨ましいですと、智秋。

「ボクが一人っ子ってのもあるんでしょうけど、昔から一緒だと色々と違うんだなぁって」

「や、昔からって言っても、利ちゃんのところがうちの隣に越して来たのって、中等二年の後半ぐらいだから、これまでの期間は椎名とそんなに違いはない気がするぞ」

「うん。私が智秋と最初に会ったのって高等に入ってからだしね。まぁ、その数年の違いが大きいのかも知れないけど」

「そうなんです? 先輩達の会話を聞いていると幼馴染みたいな雰囲気でしたよ?」

「其処は設楽家の兄弟が竹元家に頻繁にお邪魔した結果かな。二人して真ちゃんとみのりちゃんを見つけては誘っていたし」

(今になってみれば、椎名さんの言っていたのは強ち間違ってないのかも)

 事実、両親の留守が多い分、利昭と哲哉は身近に居る人達との時間を共有したがった。

「それはお互い様だろ。こちらから誘ったことも少なくないし、何より一緒に居て楽しかったし」

「遊びの内容に因っては私が参加できないのもあったけどね……」

「それは高等になってみのりがスカートを穿くようになったからだろ。まぁ、確かに運動系はそれがハンデになってやらなくなったな」

「運動するのも嫌いじゃなかったけど、やっぱり体力的に男女の差って大きいんだなって、あの時につくづく感じたよ」

 その時のことを思い出したのか、みのりは少し寂しそうな笑みを浮かべていた。

「そんな感じでウチに来る機会が増えて、親父もお袋も利ちゃんや哲君のことを気に入って。二人のどちらかがみのりと一緒になってくれたら良いのに、みたいなことを実しやかに言っていたぐらいだ」

「それ、ボクも同じようなことを言われた! 真先輩の嫁になってくれないかって」

「本当にゴメンね。ウチの両親、相手のことを気に入ると、直ぐにそういうことを言い出すから……」

 困っているという感じではない智秋の言葉に、みのりは目を閉じて溜息を漏らした。

「兄さんを就職に導いた立役者ってことで恩義に感じているみたい。悪意はないんだよ?」

(自分達が思ったことを本人に直球で投げ掛けるのは昔のままか。懐かしい)

 みのりの前で竹元家の両親に言われた時はどうしたものかと頭を抱えたものだった。

(ま、結果として俺と哲はみのりちゃんを妹と認識したからな……でも、あれは逆に探りを入れられた感じがしたんだよな)

 思春期の多感な、誰もが異性を意識する時期。竹元の両親からの、あの言葉は利昭達がみのりに変な気を起こさない為に敢えて載せた作戦だったのかも知れなかった。

「悪意だなんて飛んでもない! 吃驚はしたけど、そんな風に想ってくれて嬉しかったし、実際に色々と良くしてくれてもいるしね」

 真先輩と一緒になるかどうかは今後のボクに対する評価次第と、智秋は悪戯っぽく笑った。

「……あ、そうそう。利ちゃん、高等の時に同じクラスだった葛西って憶えている?」

「葛西って――……如月さんと仲が良かった?」

 明らかに話題を逸らした真悟から、懐かしい学友の名前が聞こえてきた。

 その彼女を基に記憶を辿った利昭は、無意識にその相方のことを口にしていた。

(如月さん、か……)

 利昭は自分の言葉からその友人――如月春菜――のことを思い出す。

 学校内で起こった、まるでドラマやアニメ、映画のワンシーンのような大惨事――。

「其処で如月が出てくるとは流石は利ちゃん。女子の名前は良く憶えているみたいだな?」

「そういう言い方をされると俺の印象が悪くなるから止めてね? でも――」

「や、今のはオレが悪かった。利ちゃんが言わんとしていたように、オレだって忘れられないから」

 続けて言葉を紡ごうとする利昭を掌で制し、不謹慎だったと謝罪する真悟。

 その声のトーンを皮切りに、これまで和気藹々としていた旧友との親睦が一挙に重くなってしまっていた。

(何も考えずに如月さんって言っちゃったな……此処に居る全員があの事故を知っているんだから、思い出して当然か)

 誰も予想し得なかった、校内の改装工事中で起きた事故。

 立入禁止となっている工事現場に学生が入り込み、高い位置から落ちてきた工事用鉄骨を頭部に受けてしまったという、通常なら起こり得なかった悲しい事故。

(如月さんがクラスから居なくなって、彼女といつも一緒だった篠原君も学校に来なくなって……)

 事故の後、多方面からの視察や調査とかでしばらく休みとなったことを利昭は今でも憶えている。

 ヒトが、学友が死んだという否応なしに突き付けられた数日間。これまでヒトの死を経験したことのない利昭にはかなり衝撃的な現実だった。

「……ああ、もう! 真先輩が空気読まないから違う流れになっちゃったじゃないですかっ」

 誰もが事故のことを思い出して徐々に沈んでいくところで、智秋が首を振って雰囲気を切り替える。

「そんなだから未だに彼女が居ないんですよ! 葛西先輩の素敵なお話だったのに!」

「ちょ、おまっ……葛西と篠原が婚約したのと、オレに彼女が居ないのは直結してないだろ⁉」

 実際は利昭の発言が元凶だが、智秋は敢えて真悟に関係ないところから難癖をつけたようだった。

「え? 葛西さんと篠原君が婚約したの?」

「ああ。つい先日、駅前で葛西と会ったんだよ」

「会っていきなり、どっちが彼女? いや、竹元なら両方とも囲ってそうって言われたんだよね。吃驚しちゃった」

「そうそう。実際は妹と職場の同僚だけど。真先輩は顔立ちが良い上に声も大人な感じがするからモテるんだよね……彼女は居ないのに」

「ぐっ、ここぞとばかりに攻めやがって……」

 真悟が反撃しないのは、みのりや智秋に向けられた言葉がそのまま再現されたからだろう。

(確かに葛西さんならそういう冗談を言いそうだ)

 活発で面倒見の良い学友――葛西夏樹――をイメージし、利昭は思わず笑ってしまった。

(……そっか。篠原君、吹っ切れたんだな)

 あの事故で彼――篠原裕也――の置かれた状況を考えると、想像を絶する葛藤があったに違いない。

 利昭はその状況を自分に置き換えてみたが、自分一人では決して耐えられないという結果に至った。

(いつも互いが互いを理解し、支え合っているような関係が急に断たれたんだ。気が触れてもおかしくない)

 一心同体だった二人は唐突に切り裂かれ、これまでのいつもが続けられなくなってしまったという悲惨な状況。

(絶対に苦しかったし、辛かっただろうな……)

 それでも、残された半身は己の道を見据え、後悔と喪失感に襲われながらも生きることを選んだ。

(安易な死よりも苦痛の続く生を。その苦痛が続く生の中で、篠原君は答えを見出したってことか)

 自分が生き続ける理由を。

 一人だけでは難しくとも、自分を理解してくれる相手と共に居られれば出来る、その安らぎと未来とを。

「兄さん、女子ウケは良いんだけど、誰とでも同じように接するからなぁ」

「……うっせ。オレのことは兎も角、みのりだってそういう相手は居ないだろが」

 葛西と篠原の話だったのに、オレを肴にしやがってと憮然とする真悟。

「あー、なんかもう飲みたくなってきた! 利ちゃんが飲めるなら付き合ってくれよな!」

 利昭からの返答を待たずに、真悟は二人も飲むなら手伝えと、酒を運びに席を立った。

「あらら、ちょっとやりすぎちゃった?」

「ううん。気にしていたら飲むなら手伝えだなんて言わないでしょ。利ちゃんはお酒、大丈夫?」

「飲めるよ。俺も手伝おうか?」

「いやいや、今日のところはボク達でやりますから、利先輩は座って待っていて下さいな」

(……おかしいな? その台詞をみのりちゃんじゃなくて椎名さんが言ったのに、違和感がないぞ?)

 勝手知ったる他人の家という言葉が利昭の脳裏を過ったが、竹元家には竹元家のルールがあるのだろうと、深く考えないことにする。

(此処に二人は居ないけど、今日は祝杯だな……)

 学友の幸せな報告を聞いて、柄にもなくほっこりとした利昭だった。



 -肆-


「それじゃ、そろそろ二人を部屋に移さないと」

 利昭の缶ビールも空になったところで、真悟。

「前に此処でそのまま寝て風邪を引いて、家庭内感染になったことがあるからな……」

「自宅で発生したら逃げ場がないもんね。部屋を移すのって、抱えて運ぶの?」

「いやいや、流石に寝ている女子に触れるのは紳士的じゃないぞ。良かれと思ってやったことでも、結果として悲惨な展開になるのは避けたい」

(あ、これは前例があったってことだな?)

 お互いに合意の上なら話は別だろうけどと、真悟は渋い顔をしていた。

「実家に居るんだから無防備になるのは仕方がないが……おい、二人とも起きろ」

 お袋が一緒なら気を遣う必要はないんだがと、真悟は掛けた毛布を引いて二人を軽く揺らす。

「んあ? もう朝……?」

「此処で寝ると風邪を引くぞ。自分の部屋で寝ろ」

 真悟の声が聞こえたのか、智秋が目を擦りながら寝ぼけ眼でゆらゆらと起き上がる。

「え? 椎名さんの部屋ってあるの?」

「あー……その、利ちゃんは二階の構造を知っているだろ? 元々は親父の部屋だったのを空けて、彼女の部屋にしちまったんだよ」

 それもつい先日の話だと気まずそうに、真悟。

「……それって、椎名さんが嫁候補だから?」

「うちの両親はそうと決めたら実行するからな……あの時は流石にオレも唖然となった」

 触れて欲しくないところだったのか、真悟は利昭の質問には応えず、経緯だけを簡単に伝えた。

(なるほど。察しろと……ま、椎名さんが状況を受け入れているってことは、真ちゃんも満更じゃなかったんだな)

 確かにこれまでの会話にそれらしい雰囲気が流れているのを感じていた利昭だったが、此処に来てやっと辻褄が合ったと納得する。

「まだ眠い……先輩、ボクを部屋まで運んで……先輩になら触られても良いから……」

「あっ、こら! オレに倒れ込んで寝るなっ」

 目の前に真悟が居るのを確認し、智秋は抱き着くように身を委ね、可愛らしい寝息を立てていた。

「ああもう! こんな時ばっかり……これでまた明日、憶えてないとかって言うんだもんなぁ」

(おや? 前例って頻繁に起こっているのか?)

 溜息混じりの真悟のぼやきからして、酔った智秋の記憶は信用ならないようだった。

 利昭は二人の関係も含め、あんな風に信頼しきっているのに妙な感じだと思った。

「はは……かなり飲んでいたし、眠かったんだね」

「そうなんだよ。椎名は飲んだ次の日、昨日の記憶を無意識に整理していることが多いんだ……利ちゃん、悪いんだけどみのりを起こしてくれる?」

 女性に対して紳士的じゃない行動を執る羽目になった真悟の依頼に、利昭は苦笑しつつ引き受ける。

「問題ないよ。真ちゃんがやっていたみたいに揺らせば良い?」

「あれだけだと起きないから、声を掛けてやってくれ。起きないなら頬とか突いて起こしても良いぞ」

「あれ? 妹には扱いが紳士的じゃないね?」

「オレがやると数日は話もしてくれなくなるからやらないけど、利ちゃんになら違う反応をするだろうと思ってね」

 何処か意味深な笑みを浮かべながら、後は頼んだと智秋を抱えて二階へと向かって行った。



 -伍-


(話もしてくれないって……まぁ、学生の頃とは色々と勝手が違うか)

 実際、利昭の記憶は学生時代の二人の間柄なのだから、それが最新だとは言い難かった。

(……そうだよな。久し振りに会って、随分と綺麗になっていたし、みのりちゃんの価値観や考えが昔と違っていても不思議じゃないか)

 時の経過や成長と共に、ヒトの姿は変化する。

 かつての面影は残っているものの、利昭の知っている後輩女子は実に美しく、素敵に成長していた。

(真ちゃんがそれらしい相手は居ないなんて言ってだけど、あの容姿なら引く手数多じゃないか?)

 真悟と智秋が良い仲になっているのに感化されたのか、つい先程の話題に上がった竹元家の両親の暴走を再び思い出し、惚れっぽい自分に苦笑する。

(綺麗になったみのりちゃんに会えて浮かれているんだろうけど、昔は昔、今は今、だろ?)

 此処で現実に戻る。

 例え利昭がみのりに好意を抱いたとしても、みのりの方は利昭に興味があるとは限らないのだから。

「……みのりちゃん、風邪を引いちゃうよ?」

 自分の置かれた状況と、真悟達の関係を比較して空しくなるが、頼まれたことと利昭の心情は全く関係がない。

 真悟に言われたようにみのりに声を掛け、毛布を少し強めに引っ張って左右に揺らしてみる。

「ふぁー……ん、もう朝……?」

 智秋と同じことを言いながら、寝ぼけ顔のみのりがゆっくりと身を起こした。

「眠いだろうけど、寝るなら部屋まで行かないと」

「ふぇ? え、どうして利ちゃんが――……あ、そうか。ウチに来ていたんだった」

 利昭を見て不思議そうにきょとんとした後、みのりは軽く頭を振って状況を理解する。

「あのまま寝ちゃっていたんだ……ええっと、兄さんと智秋は?」

「一緒に二階に行ったよ。椎名さんが起きられないから運んでくれって言い出して」

「あー……またやらかしたんだ。智秋も智秋だけど、兄さんも懲りないなぁ」

 酔い潰れると甘える癖があるからと、みのりは呆れたように溜息を吐く。

(最後の溜息は椎名さんの記憶が整理されて、真ちゃんがとばっちりを喰らうってことだろうな)

「椎名さん、飲むと酷いみたいだね。その辺、みのりちゃんは大丈夫なの?」

「私は呑まれる程には飲めないから……今はフワフワしている感じだけど」

「それ、大丈夫なの? どうせ後は寝るだけだし、何なら俺が二階まで運ぼうか?」

「や、寝起きで気怠いけど、動けないわけじゃないから自分で部屋まで――……あっ⁉」

「!」

 正に咄嗟の反応だった。

 ふらついたみのりの動きを目で捉え、倒れる寸前で身体を寄せ、そのままみのりを抱き止めた。

(あ、危なかったぁ……あのまま倒れたら大怪我になっていたかもしれない)

 あの場面で良くぞ反応したと、利昭は自分を褒め、大きく安堵の息を吐いた。

「ご、ゴメン! 直ぐに離れるからっ」

「いや、急に動かない方が良いよ? 言葉はハッキリしているけど、ふらつくってことは酔いが抜けてないからだと思うし」

 慌てて利昭の胸元から離れようとするみのりを制し、言葉を掛けながら姿勢を整えさせる。

 みのりもその意見を素直に聞き入れ、利昭に支えられながらゆっくりと元の位置に座った。

「大事にならなくて良かった。吐き気とかない?」

「う、うん。そういうのはないんだけど……」

 みのりから手を放して隣に座った後、利昭はその表情が少し赤くなっているのが気になった。

(流石に今の段階で風邪――……はないよな?)

「その、こんなに利ちゃんが近くに居るのは初めてで……ドキドキしちゃった」

「え? あっ」

 その段になって、今の今までみのりと密着していたことを自覚する。

(俺、みのりちゃんを抱き留めていたんだよな⁉)

 それを意識した途端、触れていたみのりの肌の温もりが鮮明に甦り、利昭は自分の顔がみるみるうちに熱くなっていくのが分かった。

「あ、利ちゃんも顔が赤くなっているね? あはは……利ちゃんは悪くないのに、私だけ変に意識しちゃっていたみたい……」

「い、いや! 意図してやったわけじゃないけど、その……ゴメン! 配慮が足りてなかった!」

 お互い、動揺しながらも意識しているのを自覚し、どちらからともなく言葉を選ぶ流れになった。

(こ、これはやってしまったのか?)

 不意に、真悟の言っていた紳士的じゃないという単語が脳裏を過った。

 確かに利昭が善かれと思って決断したことでも、みのりからしたら嫌悪を感じるそれだった可能性も否定は出来なかった。

「わ、配慮が足りないなんてことはないよ? 私が先に照れちゃったから、利ちゃんを巻き込んじゃったけど……」

 だが、事態を重く受け止めて沈んでいく利昭の表情から状況を察したのか、みのりの方からフォローを加えてくれる。

「私を助けてくれたのは事実だし、故意にやったんじゃないのは分かっているから気にしないでね?」

 他のヒトだったら暴れただろうけど、相手が利ちゃんだと思ったら嫌な感じはしなかったと、みのりは誤魔化すように鼻に手をやった。

「そ、そっか……それなら良かった」

 みのりの真意を聞き、折角の再会が悪印象にならなかったことに安堵の息を吐く。

(いや、此処は拒絶されなかったことを喜ぶところだよな? みのりちゃんは俺に触られたことを善としたわけじゃない)

 自然と鼓動が高鳴るのをどうにか抑えながら、惚れっぽい自分が勘違いしていないか確認していく。

(全く以って、雰囲気に呑まれちゃったな……)

 女性との接点が薄いのも事実だが、それ以上に利昭は後輩女子を意識してしまっていた。

「良かったも何も、利ちゃんに落ち度はないでしょ? 寧ろ、私が迷惑を掛けちゃったよね……」

「迷惑だなんて全く思ってないよ。そうだね、こういうアクシデントも俺からすれば役得なわけだし」

「役得って……もう、そんなこと絶対に思ってないでしょ? 利ちゃんも私を揶揄うんだから」

「や、得をしたのは事実だよ。久し振りに会ったみのりちゃんが大人の雰囲気を出していたからね」

 どうにか平常心を保ち、冗談と本音とを混ぜながら会話を紡いでいく。

(……って、とみのりちゃんを口説いているみたいにならないか!?)

 例え雰囲気に呑まれたとしても、自分の口から出た言葉なのかと、利昭は正気を疑った。

 どうやら口下手な分、相手を意識してしまうと歯止めが利かなくなってしまうようだった。

「え、役得ってそっちなの⁉ あー……まぁ、その方が利ちゃんらしいけど」

「ん? どういうこと?」

「な、何でもない! 忘れてっ」

 みのりは頬を赤く染め、慌てて視線を逸らした。

(……あ、ああ。役得ってそういうことね)

 言葉の意味を理解し、思わずニヤつく利昭。

 確かにあの状況であんな言い方をしたら、相手は自然と触れられてドキッとしたそれを連想してもおかしくないだろう。

「……やっぱり、そういう表情をしちゃうよね?」

「うっ、その、ごめん……」

「……まぁ、勘違いしたのは私だし。でも、後輩だって同じように歳は重ねているし、久々に会えば、昔を思い出して期待もしちゃうものだよ?」

 恥ずかしそうな表情を切り換えて、みのり。

「みのりちゃん?」

「私だけが恥をかいているのは癪だから言っちゃうけど、私の初恋の相手は利ちゃんだからね?」

「へ? え……ええっ!?」

 予想していなかった、衝撃的な一言だった。

(な、何だよ、この展開……みのりちゃん、これまでそんな素振り――……いや、例えそういう状況でも、俺は気がつかなかった可能性が高いか)

 冷静を保とうとするが、動揺を隠せなかった。

「あ、やっぱり吃驚している。まぁ、恥ずかしくて直には言えなかったし、利ちゃんが気付かなくても仕方ないかな」

 利昭の様子を見て、みのりは為て遣ったりと満足げな笑みを浮かべた。

「あれだけ何度もお互いに行き来していたのに、利ちゃんは私を妹的存在って認識していたでしょ?」

「……何だかゴメンね? さっきも話に出たけど、高等の頃に竹元家のご両親から言われたの、単なる冗談だと思っていたのと同時に、牽制されているとも捉えられたから」

 身近な異性という意味で意識していたのは事実だけどと、利昭。

「牽制って? ウチの両親、私の居ないところで利ちゃんに何か言ったの?」

「娘と結婚してくれないかって以外は何も。ただ、タイミングが異性を強く意識する頃だったから、娘に手を出したら徒では済まない的なニュアンスも同時に汲み取れたんだ」

「ああ……まぁ、本人の前で娘と一緒になってくれとか言われて、普通はそれを鵜呑みにしないよね」

 両親が前触れもなく言い出した時は心臓が止まるかと思ったと、みのり。

「結局のところ、アレが原因だったのかもね。あの後、私も変に意識するようになっちゃったし」

「そうかも。学校を卒業した後、大学は一緒じゃないから行動する時間帯も変わっただろうしね」

「うん……そうやって時間が流れて、ウチの親から利ちゃんが遠方で就職したって聞いて……ああ、もう会えないんだって」

 その時のことを思い出したのか、みのりは鼻を啜って瞼を擦った。

(そんな風に想ってくれていたのか……)

 同時に、自分には先天の明がなかったんだと、とても悔しい気持ちになっていた。

(昔から連絡を取り合っていたら――……いや、あの頃はケータイを持っていないのが普通だよな? 今みたいに容易にやり取りは出来なかっただろう)

 今でこそ誰もが最低1台は持っているのが普通だが、利昭達が学生の頃はその家の固定電話を通して連絡するのが主流だったのを思い出す。

(お隣同士ってのが大きいんだろうけど、真ちゃんに言われなかったら、絶対に連絡先を知らないままだっただろうな)

 夕食をご馳走になった後、真悟から連絡先の交換を提案されたのだが、利昭はこの段になるまで相手の連絡先を知らないことに気付いていなかった。

 今回のように相手の固定電話に連絡すれば用事が済んでしまうのだから、真悟やみのりの連絡先も知っているような気になっていたのだった。

「だから、こうして再会して一緒に居られるのが嬉しくて。あの頃は個別の連絡先を知らなかったけど、今はそんな心配をする必要もなくなったしね」

 少し湿っぽくなっていたところを切り換えるように、みのりは楽しそうに微笑んだ。

「こっちに戻って来たってことは、お隣に居るってことなんだよね? 昔みたいに誘っても?」

「それは構わないけど……仕事のこともあるし、俺に気を遣わなくて良いからね?」

「気を遣うも何も、私が利ちゃんと一緒に居たいだけだし……何なら、ウチの両親が提案してきた昔の事案を再検討してくれても良いんだからね?」

「へっ……?」

 質問に質問が続き、最後にみのりが紡いだ意味深な一言が利昭の思考を停止させる。

(い、今のはドキッとしたな……冗談だろうけど、そういうのをサラッと言えちゃうのか……)

 みのりは大人しいと認識していただけに、此処まで大胆に攻めて来たのは予想外だった。

「まぁ、再会するまでの合間があったわけだけど、私的には大学や職場で出会った男の人達より、今みたいに利ちゃんとお話していた方が楽しいもの」

「ええっと……冗談とかドッキリじゃない?」

「そう思われても仕方ないけど、私が思い付きや勢いでは動かないのは利ちゃんも知っているよね?」

 利ちゃんだから普通にしているけど、かなり恥ずかしいんだからと、みのりは顔を紅潮させていた。

(真ちゃんや椎名さんと一緒に住んでいるから、その雰囲気に乗った感じだろうけど、確かに自身が言うように、みのりちゃんはかなりの慎重派だ)

 事実、利昭が知っているみのりならば、男性に対して積極的にアプローチはしないだろうし、逆にその行動を想像するのも難しかった。

(みのりちゃんもお年頃ってことか。その相手として俺を選んでくれたのは嬉しいな……)

 これまで誰かに告げたことも、告げられたこともなかった気持ちを受け、利昭は胸の奥が熱くなっていくのを初めて感じた。

(こんな風に温かい気持ちになるんだな……でも)

 其処で現実に戻る。

 内心では小躍りしたくなっているのをグッと抑え、自分の置かれた状況と気持ちを整理していく。

(理由、先に伝えなくちゃいけなかったな)

 予期せぬ再会から施された心地良さに、ついつい時期を逃してしまっていた。

(真ちゃん達は俺が思っている程には気にしないかも知れないけど、誤解を産むとも限らない)

 秘密にしていることではないものの、伝えるべきは後になればなるほど言い辛くなっていくのが世の常だ。今回のような相手から歓迎されたものの、後になって事実を知って落胆されるというのも、あり得ないことではないだろう。

(それこそ病気のことがなければ、みのりちゃんの提案に二つ返事だったんだが……)

 みのりの提案は利昭としても吝かではないのだが、状況を考えると自身が帰って来た理由を伝える前に、自分勝手に返答するのは不義理に思えた。

(ん? 違うか。病気になってなければ帰還することもなかったんだから、提案自体が存在しないってことになるか?)

 事実、利昭は潜伏していた病に蝕まれている。

 故にこれまで遂行していた業務の継続が難しくなった為、こうして地元に戻ることになったのだ。

「でも、今のは私が勝手に言い出したことだから、そのことで利ちゃんが悩む必要はないからね?」

「え?」

 利昭の思考が自分以外の場所へと潜っているのに気を遣ってか、みのり。

「一緒に居たいのは私の本心だけど、利ちゃんが帰ってきた理由も含めて、邪魔をするつもりは――」

「ちょ、ちょっと待って!」

 流石に聞き流せない単語が出て来て、利昭は慌てて掌でみのりを制した。

「今、俺の帰ってきた理由も含めてって言わなかった? 俺、みのりちゃん達に話してないよね?」

 会話に事実を加えてどう切り返すかと悩んでいたところだけに、伝えていないのに状況を理解されていると捉えられるのはどうにも気味が悪かった。

「うん? あ、そっか。確かに話してもいないのに知られているのは変だね」

 私が同じ状況だったらショックで立ち直れないかもと、利昭の気持ちを察し、みのりは頭を下げた。

「驚かせてゴメンね。私が利ちゃんの事情を知っているのは、早紀さんが教えてくれたからだよ」

「元凶は母さんだったか……それで、みのりちゃんは俺の状況、何処まで知っているの?」

「ええっと、体調を崩してしまって、お仕事を続けるのが難しくなったから帰ってくることになったって聞いているよ」

「……」

(母さんよ、流石に明け透け過ぎないか? 確かに公表したところで誰も困らないけどさ……)

 思わず、苦虫を噛み潰してしまったような表情になった。

 詳細こそ伏せられてはいたが、早紀がみのりに告げた内容は、利昭がみのり達に伝えようとしていたそれと概ね同じだった。

「体調を崩した原因が先天性の病気って言われた時は頭の中が真っ白になったけど、実際に会ってみたら予想していたような症状もないみたいだからホッとしたんだよ?」

「……」

(詳細も伏せられてなかったってことね……)

 状況を理解した途端、一気に力が抜けていった。

 みのりが利昭の事情を知らないものだと思っていたのだが、蓋を開けてみれば全てが杞憂で、あれこれ考えていたのが馬鹿みたいに思えた。

「肢体に不自由があったりする感じなの?」

「いや、お陰様で身体はピンピンしているよ。俺の病気の症状は目から来ているから」

「目なんだ……でも、私が転びそうになったのも見えていたよね?」

「直視はあるからね。ただ、昔と比べて見える範囲が狭くなっているってことなんだ」

「……緑内障とか脳梗塞みたいってこと? 未来的には失明するの?」

 みのりの表情に不安の色が濃くなった。

 職業柄、利昭と類似した症状の人間とも会ったことがあるのだろう。

「いや、今以上には悪くならないみたいだよ?」

 同じように、今以上に良くなることもないみたいだけどと、利昭。

(視界がおかしいって感じてから、直ぐに病院へ行ったのが功を奏したな)

 診察の結果、薬を飲み続けることにはなったが、これで症状を抑えられるのだから御の字だろう。

 医者に言わせると、利昭の症状は放置していたら脳に浸食するので、会話も儘ならない、半身不随の状態になっていた可能性もあったらしい。

「そうなんだ。これ以上は悪くならないのなら、私としても一安心たよ。でも、視野が狭いって自覚はあっても、昔の見えている感覚で動いちゃう感じでしょ?」

「え? あー……うん。いきなり目の前に壁が現れて、額を強くぶつけたりはするね」

「それは痛そう……職場でも見える範囲が狭いっていう人が居るから、その辺りはあるあるなんだろうけど、本当に気を付けてね? 利ちゃんのことを知っている人以外がその状況を見ても、それは理解されないんだから」

(ああ……みのりちゃんは俺の見える状況も分かってくれているんだな)

 みのりの言葉を受け、再び胸の奥が熱くなった。

 相手に伝わり辛い感覚的な部分を、これまでの経験から理解してくれるのはとても心強かった。

(しかし、地元に帰って来て、こんなにも俺に都合の良い展開が待っていたなんてね)

 不運に見舞われ、気持ちが沈んでいたとしても、人生は捨てたものじゃないと思った。

「……そうだね。心配してくれてありがとう。病気のことをどう伝えるかで悩んでいたから、色々と話を聞いてくれて気が楽になったよ」

「ああ、そっか。利ちゃんからしたら、自分から言い出し難かったよね……」

「うん……ちゃんと伝わっているとは思ったけど、もしかしたらってこともあるからさ」

「利ちゃんは真面目だからなぁ。確かに考えが違っていたらって思うと怖いよね……でも、少なくとも竹元家の人間は昔から利ちゃんのことが大好きだから、視野が狭くなったからって態度を変えることは絶対にしないからね?」

 私だって事情を知った上で提案するぐらいだしと照れ臭そうに、みのり。

「みのりちゃん……」

「そんなわけだから、これからも頼ってくれて良いんだからね」

 ……本当に恵まれていると思った。

(遠く離れていても、見守ってくれていたんだ)

 家族同然にこれまでも、そしてこれからも、ずっと繋いでくれていることを実感した途端、利昭は不覚にも涙を溢してしまったのだった。



 -陸-


(偶然の連続が必然に変わることもある、か……)

 半月程前に起こった事象を思い返し、利昭は自宅のリビングで椅子に腰かけて想いに耽っていた。

(商店街のホームページに異常が起きなければ、俺は竹元家に泊らなかっただろうし、みのりちゃんと付き合うこともなかっただろうから、何らかのチカラが動いていたのかも知れない)

 十数年ぶりに再会し、其処で再び縁を結ぶという運命的な展開は、恩恵を受けている側としても仕組まれていたのではないかと疑いたくなってしまう。

(俺には突飛した才能や人徳、財力だってないんだから、ただ一つの縁に救われたんだな……)

 実際、帰省したのは良いものの、利昭は其処からの展望を何も見出せていなかった。

 何となく地元で再就職するつもりだったが、会社側は利昭の希望を受け入れるにはそれ相応の覚悟が必要なようだった。

 数社に連絡をして面接にこぎ着けはしたものの、どの企業もハンディキャップへの対応が万全でないことを理由に不採用となっていた。

(みのりちゃんが言っていたように、俺の症状は世間一般からは理解され難い)

 利昭は視野が狭いだけで、盲目なわけではない。

 白杖を突いている相手が視覚的に状況を理解するのと違い、相手が利昭を理解するにはそれ相応の時間が必要となる。

(杖を突いても、それはそれで何で見えているのに杖を突くの、みたいなことを言われたり、訝しげな態度で接して来られたりするからな……まぁ、逆に見える範囲が狭いことを除けば、健常者と変わらないと認識されているのを善とするべきか)

「あら、リビングに一人で居るなんて珍しいわね。いつもはご飯を食べたら部屋に行っちゃうのに」

 これまでを思い返していると、玄関の開く音と帰宅時の挨拶が聞こえてきた。どうやら買物に出掛けていた早紀が帰って来たようだった。

「おかえり。俺だって時には一人でこれからのことを考えたくなったりするよ」

 夕飯の前にテレビを観ることだってあるだろと、早紀の驚いた表情に対し、利昭は肩を透かせた。

「そんなの数える程度でしょ。普段はご飯が出来上がるまで此処には来ないんだから」

「ふーん。今、お家には早紀さんと利ちゃんしか居ないからか、そんな風にやりたい放題なんだ?」

 利昭の言い分に呆れる早紀に付け加えるように、みのりが横からリビングに顔を出した。

「あれっ、この時間に来るなんて珍しいね?」

「駅前でバッタリ会ったから、夕食を一緒にどうって誘ったのよ」

「お呼ばれされて来ちゃいました。確かにこの時間に早紀さんと利ちゃんと三人って初めてかも」

「昔は哲哉か真ちゃんが一緒に居ただろうから、みのりちゃんだけがウチに来ることはなかったんじゃないかしら?」

 これからはこういう機会が増えるだろうけどと、早紀は含みのある笑みを浮かべた。

(……これは鎌をかけているな? 俺とみのりちゃんの様子から何か感ついたか?)

 サラッと口にした早紀の言葉に内心で驚きながら、利昭はみのりの方にスッと視線を向けた。

 それに対して状況を察したみのりは、早紀に気付かれないように軽く首を横に振って返していた。

(やっぱりそうか。親って子供の変化には異常なぐらい敏感なのか? 別に隠してはいないけど、伝えてもないのに知られているのは癪だな……)

 確かにあの日から連絡を取り合って会ってはいたのだが、それを悟られるような行動をしていなかっただけに、利昭としてはとても変な気持ちだった。

「逆に初めて三人での夕食になったわけだから、リビングでゆっくりしててね」

 ついでにやりたい放題の相手もお願いと、早紀はそのまま台所へと向かって行った。

「……ま、俺は率先して手伝ってないけどさ」

「わ、冗談のつもりだったんだけど、気を悪くしたらゴメンね?」

 私も家では利ちゃんと同じような状況だからと、みのりは小声で利昭に呟いていた。

「リビングに居たのは……就職の悩み?」

「……よく分かったね? 俺、そんなに悩んだ顔をしていた?」

「ううん。こっちに来てから半月ぐらいだし、何かしないとって焦っているんじゃないかなって」

「みのりちゃんには敵わないな……お察しの通り、俺は自分が思っていた程には色々なことが出来るわけじゃなかったって、軽く落ち込んでいた」

 再就職のこともそうだが、視野が狭いだけで大抵のことは出来るつもりでいただけに、周囲の人間に出来ることが自分には難しいという現実はなかなに衝撃的だった。

(これまでの積み重ねた経験や知識があるから、俺は「出来ない」を認めたくないんだが……)

 脳裏に失敗が植え付けられてしまうと、ヒトはそれに併せるように不安を抱えるようになる。

 同じ過ちを繰り返すのではないか、己の判断は間違っているのではないかと疑心暗鬼に陥り、その可能性を窄めてしまう。

「それは就職に関してってことだよね? 視野狭窄があるとはいえ、利ちゃんは日常生活に支障を来してないでしょ?」

「まぁ、親元に居るからね。その辺はどうにかなっている。でも、社会的に考えると俺に出来ることは極めて少ないのかなぁって」

「そう? 利ちゃん自身が思っているより、色々なことが出来ている気がするけど?」

「色々って……現に俺、面接を受けて不採用を何度も貰っているんだけど?」

「其処は職に就いた経験がそう思わせているんだろうけど、働いて賃金を取得するのって生活の一手段だと思うんだ」

「生活の一手段?」

「うん。その家のことを完璧に熟すのだって、ある意味では社会的って言えないかな? 社会って集団で生活するって意味でもあるわけだし」

「社会は集団生活……ああ、なるほど。俺には色々なことが出来るってそういう意味か」

 気が付いてしまえば何ということはない。単に利昭とみのりが認識していた社会の規模が違っていただけで、二人が描いていた想いは同じだった。

「確かに俺は就職しなければって焦っていたけど、家族で一緒に生活する場合、家事に特化して家を守るって選択もあるってことか」

「流石は利ちゃん。昔は男性が働いて女性は家を守るみたいな構図が出来上がっていたけれど、今はそれぞれが得意とするところを伸ばして、足りない部分を互いに補っていく生活が成り立っているんじゃないかな」

(ふむ……上手く誘導された感はあるけど、意地になって出来もしない仕事にしがみつくより、一緒に居る人達の為に俺が何か出来るようになる方が有意義な生活を送れるのは間違いないな)

 働いて賃金を得るのも大事だが、それに固執してしまっては自らの可能性を狭め、本当にやりたいことを見失ってしまうだろう。

(本当にやりたいこと、か……それなら、俺が家族に貢献する幅を広げても良いんじゃないか?)

 利昭の脳裏に浮かんだのは、みのりだけでなく、家族と共に暮らす生活だった。

(……そうだな。先ずはそれを目標にしよう)

 決めてしまえば、続々とすべきことが思い浮かんでくる。それこそ働き口が見つからないと嘆いている場合じゃないと思った。

「あら、珍しく良い眼をしているわね。みのりちゃんに喝を入れてもらったの?」

 利昭が自分なりの目標を整理しているところで、早紀がワゴンに料理を載せて運んできた。

「喝って……就職のことで悩んでいるみたいだから、方向を変えてみたらって言っただけですよ」

「ああ、確かに今の社会情勢では利昭を受け入れられる企業は極めて少ないでしょうね」

 会話から概ね状況が理解――みのり同様に、早紀も利昭の焦燥を感じ取っていたようだった――できたのか、納得したように早紀は頷いていた。

「でも、利昭の表情はそれとは違う感じね?」

「……みのりちゃんに言われて吹っ切れたんだよ。就労だけが俺の生き甲斐じゃないって」

「そうね。現状を考えたら、就労に悩むのは人生の浪費ね。一生に一度きりの人生なのだから、やりたいことを見つけた者勝ちよ」

 早紀の言葉は相変わらず辛辣だったが、その表情は嬉しそうな微笑を浮かべていた。

「ワタシとみのりちゃんの前で宣言したってことは、未来的に繋がるって認識で合っているわね?」

「……うん。少なくとも俺がこれからやりたいことには、みのりちゃんと母さんの協力が必要になる」

(一緒に居て、一緒に笑ったり悩んだり……それが家族で、小さな社会なのだから)

 勿論、そのやりたいことは誰にでも出来るものではなく、それ相応の時間と経験が必要となる。

 なかなかに高いハードルではあるが、そのぐらいの気概がなければ絶対に成り立たないことであるのを利昭は知っていた。

「利昭の生き甲斐にワタシやみのりちゃんの協力が居るのは理解したけれど、具体的には何をしたいの? 主夫を極めて生活環境を整えるのだって立派な家族に貢献するスキルの一つよ?」

「……」

 まるで二人の会話を聞いていたような切り返しに絶句してしまうが、それも単なる選択の一つであることを早紀が認識していたに過ぎないと気持ちを切り替える。

(俺が考えるようなことは既に知っているんだろうな。経験とノウハウの積み重ねの差ってことか)

 それならば、話は速いと思った。

 利昭が目指しているやりたいことに、それも含まれているのは間違いないのだから。

「主夫を極まるのも簡単じゃないわよ? それとも、他に何かやりたいことがあるの?」

「それは分かっている。その上で、俺は資格を取得したいって思っているんだ」

「資格……なるほどね。そういうことならワタシは利昭の意見を尊重するわよ」

 資格を取りたいという言葉で早紀は瞬時に利昭の思惑を理解し、社会情勢を加味した上で、可能性の一つとしてアリだと判断したようだった。

「ただ、中途半端に挫折したら利昭と親子の縁を切るから、それ相応の覚悟はしておきなさいよ」

「肝に銘じておくよ。俺も、それが原因で家族崩壊が発生するのは避けたいし」

 早紀は利昭の言葉を聞いて満足そうに頷き、話を切り上げてワゴンに載せた料理を運び始めた。

(母さんは頭の展開が早すぎるし、言ってくることがいちいち厳しいんだよな……でも、俺の可能性を肯定してくれた)

 己を磨き、家族を喜ばせる為に選んだ道を。

 そして、家を守るだけでなく、様々な付加価値を社会に提供する為の一手を。

「早紀さんはあんなことを言っていたけど、利ちゃんは自分で決めたことを優先してね?」

 早紀が動き始めたところで、みのりは小さな声で利昭に囁いた。

「利ちゃんがどんな資格を取りたいのか分からないけど、それでも私はずっと応援するから」

「ありがとう。でも、本来は母さんに提案する前に、俺はみのりちゃんから許可を貰わないといけなかったんだよね」

「私に許可?」

「そ。それこそ資格は後付けで、これからの俺の生き甲斐にはなくてはならないことだから」

「うん? どういうこと?」

 利昭の意図が読めず、みのりは小首を傾げる。

(別に資格がなくたって主夫は出来るし、相手の合意を得られれば一緒になれる)

 けれども、利昭は資格を取得することに拘った。

 自身が障害を背負っていることで、家族の幸福が妨げられるのは絶対に嫌だったのだ。

(資格を取って、より生活の精度を高めれば必然的に家族の為になる。其処で得られた技術を仕事に応用すれば、大きな社会に貢献することも出来る)

 それは利昭が考え、早紀が一瞬で理解した、少し先の未来の目標だった。

「あー……そうだね」

 不思議そうにしているみのりの様子を伺いながら、利昭は瞳を伏せ、慎重に紡ぐ言葉を考えた。

(周囲に公言するのはもう少し先の予定だったけど、母さんにはバレバレみたいだし、今が良い機会なのかも知れない)

 だから、流れに任せるのも悪くないと思った。

 みのりからのアドバイスで閃いたところが多々あったのも事実で、利昭は彼女が居ないと駄目なのだと実感していた。

(交際期間が短いから吃驚はするだろうけど……)

 それでも、今が好機だと直感が叫んでいた。

 後になればなるほど、気持ちが薄れてしまうような気すらしていた。

「その、簡単に言ってしまうと、うちに、設楽家にずっと一緒に居て欲しいってことなんだ」

 一世一代の大勝負。これまでにしたことはないし、恐らくはこの後に続くこともないだろう。

「分かり難いかも知れないけれど、みのりちゃんの許可って、そういう意味なんだ」

 心臓の鼓動が痛いほど鳴っていたが、それほど緊張はしていなかった。

 これから先のことで、必ず互いに影響することだから、恥ずかしがらずに普段と変わらない表情で、自分の望みだけをサラッと伝える。

(……ああ、いきなり過ぎて雰囲気は台無しだろうな……でも、俺には小洒落た振る舞いは無理だ)

 順番を素っ飛ばしている自覚もある。それが原因で流れが変わるのならば、計画は全て水の泡だ。

「え……」

 利昭の言葉を受け、みのりの反応が止まる。

 何度か瞬きをした後、不思議そうにしていた表情が、みるみるうちに驚愕のそれへと変化した。

「えええっ!?」

 小声だったみのりの呟きが唐突に大声に成り代わり、料理を運んでいた早紀が何事かと驚いてみのりに視線を向ける。

「急にどうしたの? 利昭に酷いこと言われた?」

「ご、ごめんなさい! 私に心の準備が出来ていなかっただけで……利ちゃんは悪くないです」

「……利昭、時と場所を考えて口説きなさいね? 女には嬉しくても、どうにも出来ないことがあるものなのよ?」

「敢えて言っておくけど、俺はみのりちゃんに酷いことを言っていないし、いきなり発情して困らせたりもしてないからな?」

(みのりちゃんの反応はある程度は予想していたけど、あんな大声を上げるとは……)

 利昭に否があるのは間違いないが、みのりの声に乗じた早紀が揶揄ってきたのは予想外だった。

(みのりちゃんと俺が一緒に居ると、年甲斐もなく燥いで絡んでくるからな……)

 昔から早紀は娘が欲しかったと言っていたから、身近に居るみのりを娘に見立てているのだろうが、最近は二人の会話で遊んでいる節がった。

(……まさか、俺の行動が読まれていたとか?)

 不意に恐ろしい想像が脳裏を過った。

 みのりにだけ伝えた言葉が、実は早紀にも聞こえてしまっていたら――……。

(うん、俺はその場で切腹だな)

 勢いに任せた利昭が悪いのだが、みのりが未亡人になるのは不憫なので、此処で踏み止まる。

(ん? 俺とみのりちゃんはまだ結婚していないから、未亡人はないか。あ、こっちに来た)

「あー、心臓が止まるかと思ったよ……」

 少しの間を置いて気を取り直し、みのり。

「こういうの、普通は順序立てて満を持して言ってくれるものだと思っていたんだけどなぁ」

(うっ、これは流石に非難の目だ……)

 こうして話をしてくれてはいるが、ある意味ではみのりを悲しませてしまっていた。

「……ゴメン。俺はこういうの、初めてで……手順も何も知らないから、気持ちが先に出てしまった」

「そんなの、受ける側の私だって初めてだよっ! 相手が利ちゃんじゃなかったら、名誉毀損で慰謝料を請求するレベルだからね?」

 早紀の言葉を引用するようにして、みのりは何処か諦めたような、残念そうな表情を浮かべていた。

「婚約が決まるまでは公言しないで、兄さんや智秋、哲君を吃驚させたかったんだけどなぁ……」

(いや、会う機会が減ったとはいえ、身内やご近所には途中でバレてると思うぞ)

 事実、早紀には見破られていたし、恐らくは竹元家の両親も状況は把握しているに違いないだろう。

「ほぉ? 相手が利昭なら請求はしないんだ?」

(くそ、やっぱり察していやがったな……)

 利昭がみのりに告げた言葉が流出していたかは兎も角、この状況で痴話喧嘩を展開しているのだから、何らかの進展があったのは早紀でなくとも理解してしまうところだろう。

「……そりゃあ、そうですよ。私は昔も今も、ずっと利ちゃんが好きなんですから」

 大きな溜息の後、みのりは笑った。

「浮気でもしているなら別ですけど、一緒に居たいって想っていましたから。タイミングは滅茶苦茶ですけど、夢が叶いました」

(あ……)

 多少の照れはあるものの、みのりらしい言葉の中から、利昭は許可が下りていたことに気がついた。

「あら、それなら良かったわ。夫婦喧嘩勃発で少し冷めてしまったけど夕飯にしましょう」

 利昭はモテないから浮気は在り得ないと、いつもの毒を吐き出しつつ、それでも早紀は嬉しそうにしていた。

(……言い返せないのが悔しいところだけど、そんなことよりも――)

 みのりが自分のことを理解し、全てを受け入れてくれてことが、何より嬉しかった。

(俺はこんな性格だから、これからも戸惑わせるだろうけど……懲りずにずっと隣に居て欲しい)

 それが利昭の願いであり、未来に繋がる一つの目標でもあった。

「今日ってみのりちゃんを初めて招待した記念日だったけど、利昭が空気を読まなかったお陰で、違う意味での記念日になったわね」

「ぐ……」

 早紀が含みのある笑みを浮かべるが、利昭からはこれまた何も言い返せない。

(こういう時、俺はいつも締まらないなぁ……)

 もう切腹しようとは思わないが、何かにつけて早紀にちょっかいを掛けられるのは間違いないので、利昭としては気が重かった。

「……まぁ、雰囲気が滅茶苦茶で、凄く吃驚はしたけど、私は嬉しかったよ?」

 憂鬱そうな利昭を励ますように、みのり。

「早紀さんに弄られるだろうけど、私達にとって忘れられない記念日になったと思えば良いじゃない」

(ああ、確かにそうだよな。これからのことで悩むなんて馬鹿げている。母さんが弄ってくるのは、祝福してくれている証拠だろうし)

 みのりの言葉は、利昭からしてみれば正に目から鱗だった。

 早紀にちょっかいを掛けられるのが嫌なのは事実だが、逆に目撃者として二人の成長を見守っているという考え方も出来なくはないのだ。

(……となると、俺は迅速に目標を達成して、母さんの口撃を忘れさせるのが手っ取り早いな)

 そんな風に考えてみると、早紀に結果を示して見せろと言われたような気になれた。

「そう……だね。みのりちゃんに恥をかかせた張本人が言うのもなんだけど、俺も一生に一度限りの、最高の記念日になったって思っているよ」

(二人なら出来るって思えるんだよな。そのイメージのヒントをくれたのはみのりちゃんなのだから)

 資格を取得して、より生活の精度を高めれば必然的に家族の為になる。

 得られた技術を仕事に応用すれば、大きな社会に貢献することが出来る――。

(必ず成し遂げるよ。俺も、みのりちゃんとずっと一緒に居たいからね)

 まだ恥ずかしそうにしているみのりを横目に眺めながら、利昭はこの幸福がいつまでも続くことを願ったのだった。

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軌跡の欠片 新場カザン @Kazan_Shinjow

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