軌跡の欠片
新場カザン
第1話:生と死と
死んでしまいたいと思うことがある。
意志を持って生活している以上、辛いことがあるのは当然だし、消えてしまいたくなるような場面に遭遇することもあるだろう。
けれど、どれだけ酷いことでも、人間はそれを忘れることが出来る。
どれだけ頑張って記憶に留め置こうとしても、長い時間の間に感覚を少しずつ薄められ、やがて曖昧にされてしまう。
だから、安易な死よりも、苦痛の続く生を選んでいける。
自分自身に最期が訪れる、その時まで――。
-壱-
風が強く吹いていた。
周囲に申し訳程度に植えられた緑がザアァッとざわめき、地面に転がっていたビニール袋が煽られて吹き飛ばされていった。
(風があるだけ、まだマシだな)
今日は日差しが強い。青く澄み渡った空には雲ひとつない。
夕方から夜にかけてアスファルトが日中に溜め込んだ熱気を発散して、寝苦しい深夜を演出してくれることだろう。
(そういや、この頃だったか)
衣替えの頃。
自分が学生だった頃に起こしてしまった事件を思い出す。
学校を移る切欠となった、夏に向かう時間の中で起こってしまった、些細な間違い。
「些細な間違い、か……」
当時に比べると、自分は悪くなったと思う。
あれを指して「些細な間違い」と言えるのだから、自分の感性は随分とねじ曲がってしまったに違いない。あの頃は自責の念に押し潰されそうになりながらも一生懸命に日々を過ごしていたのだから。
(一生懸命、か……)
自分自身の思考が微笑ましく思えた。
まだハッキリとした記憶の内に残っているというのに、どうして自分自身を欺こうとするのか?
「……行ってみるか」
点々とした、けれども鮮明な記憶を追っていく内に呟いていた。
確固とした考えがあってのことではなく、単に自分自身が忘れかけていた物語を久々に補完しに行きたくなっただけだ。言うなれば、懐かしさに駆られたというだけで、その他の理由は何もない。
「……」
学業を終え、自分自身を拘束するモノは特に何もなかった。
(そう……本当に何もないんだよな……)
決めてしまえば行動は早かった。
駅まで向かい、電車に乗り込む……ただ、それだけでのことで済んだ。
-弐-
僕達は幼馴染みだった。
家がお隣同士、元々の親同士が大学時代の友人だったということもあって、家族ぐるみの付き合いをしていた。
そのせいもあってか、春菜とは自然と仲良くなったし、普通に居るのが当たり前という感情も抱いていた。
(小さい頃、彼女にお嫁さんになってくれるかなんて、質問をしたこともあったな……)
これは後々になって知ったことだが、こういう風に男女間の仲が良いと、どちらかが変な意識をしてしまってギクシャクする時期があるらしい。
(ま、思春期の男女なら意識するのは当然か)
だが、僕達には何故だがそれがなく、周囲の人間に茶化されても気にすることがなかった。
(それは、お互いにそれが当然なんだと信じて疑ってなかったからだろうけれど)
友人に「お前は春菜と付き合っているのか?」と質問され、「どうしてそんなことを聞くの?」と疑問で返し、大いに呆れられた覚えがある。
(僕達は言葉にしなくても、何処かで繋がっていたから、彼の質問の意味が分からなかったんだ)
「ねぇ、春菜?」
「ん? どうしたの?」
だから、その感情を僕が言葉にして、春菜に伝えたのはこれが最初だった。
周囲の影響でそれをしたというのも大きいのだけれども、これに関しては呆れ半分で忠告してくれた友人が切欠となっている。
「その……変な言い方だけれども、僕達って周りから見たらどう見えていると思う?」
「え」
「あ、う……と、その、僕達が幼馴染みだって知らない人から見たらって意味なんだけれどさ」
「……恋人同士、かな?」
「えっ」
「裕也、誰かに何か言われた? 私と裕也が二人で居る時間って普通の友達のそれとは全く違うよ?」
「まぁ、親戚とかの会話は僕達の間柄でしか通用しないだろうけど……」
「……なるほど。要は壮絶な鈍感だったってわけね。何だって私はこんなのを――」
「えっ、何?」
「何でもない! やっと気が着いてくれたのかなって、ほんの少し思っただけ!」
「……」
それだけ言ってプイッと顔を背けるが、別に本気で怒ったわけではないようだった。
この辺りは幼馴染みだから自然と関知する、お互いのテレパシーみたいなモノで――……っ!?」
(今、気が着いてくれたって言った?)
不意に読み取った単語に自然と繋がっていくモノがあった。
『……恋人同士、かな?』
『裕也、誰かに何か言われた? 私と裕也が二人で居る時間って普通の友達のそれとは全く違うよ?』
『何でもない! やっと気が着いてくれたのかなって、ほんの少し思っただけ!』
「……」
長い時間を一緒に過ごしてしまうと、その相手が特別に見えなくなってしまうことがある。
家族のような、空気のような存在……其処に居るのが当然で、居なくなった時に初めてその大きさに気が着くような――。
(そうか。そういうことなんだ……!)
春菜の答えは素だった。
それは僕にとって嬉しいことで――。
「……春菜」
「ん……って、何? 急に真剣な顔して……」
「一度しか言えないから、真面目に聞いて欲しい」
「え?」
心臓の音が聞こえる。
普段は意識しても聞こえない鼓動が凄く大きく頭の奥に反響していた。
(話には聞いていたけど、凄い緊張感だ)
掌にジットリと汗をかいているのが分かる……今まで意識していなかったことを意識するだけで、こうも変わるものなのだろうか?
(春菜はどう思っているだろう……?)
春菜の顔を見る。
紅潮して見えるのは僕の気のせいだろうか?
「……」
いつの間にか俯き加減になっていた顔を上げ、春菜の顔を見据えて意を決し、言葉を紡ぐ。
「僕は春菜のことが好きだよ」
いつも心の奥底にあって、どんな時も彼女に伝えられる短い、想いを込めた一言――。
「幼馴染みではなく、一人の女性として。だから、これからは恋人として付き合って欲しい」
(……どうにか言い切ったけど、胸が痛い)
伝えるだけは伝えられたが、未だに心臓の鼓動が収まらず、苦しくてどうにかなりそうだった。
「……ありがとう。やっと、言ってくれたね」
(あ……)
少しの間を置いて、春菜の声が返って来た。
「私は小さい頃から今に至るまで、ずっとずっと裕也のことしか想っていなかったんだよ?」
穏やかな笑みを浮かべながら、僕の告白を受けて入れ、春菜は瞳から大粒の涙を零していた。
「あ、あれ? 変だな……嬉しいのに、涙が――」
「春菜!」
感情の昂るまま、僕は彼女を抱き寄せた。
(人間に言葉が備わっているのは、言葉をもって想いを伝えることが出来るから、か……)
友人が「言わなくても伝わるじゃなくて、伝えなくちゃいけないことがある」と教えてくれた。
今は絶対じゃないし、次の瞬間に何が起こるか分からないのが現実……僕はそれを忘れかけていた。
(何もしなかったら、僕達はどうなっただろう?)
互いの想いを何となく理解したまま、ずっとずっと同じような二人でいられただろうか?
それとも、いつしか袂を分かって、二人で居た頃を懐かしく話すような関係になっていただろうか?
(……いや、今はそれを考えても仕方がない)
今の僕が考えなければならないのは仮定の話ではなく、これから先のことなのだから……!
-参-
ふと、身体に衝撃を感じ、水の中から急浮上するような感覚で目を醒ます。
(ここは――)
視界に飛び込んできたのはどうということのない車内の風景。時間柄、ヒトもまばらで座っていても対面の背景がよく見える。
「……」
どうやら少し眠ってしまっていたらしい。ここ最近の不規則な生活が祟っているのだろうか?
(……まだこんなもんか)
風景で大体の位置と時間経過を確認し、太陽の光を浴びて温くなった車内に溜息を落とす。
セピアに色褪せてもおかしくない記憶の断片は、未だに精彩を放っていた。
(あれから五年以上、経っているんだがな……)
思い出は美しく見える……これは名言だと思う。
過ぎ去った瞬間から全てを都合の良いモノに創り替え、そのまま記憶として留めていくのだから。
(だが、イヤな記憶は想い出とは言わない)
辛い想いを追体験したい人間はそういない。
場合によってはその記憶に蓋をして、封印してしまいたいとさえ思うに違いない。
事実、そうしなければ精神が崩壊してしまうという時には脳が作用する場合もあるという。
「……」
良く出来ている……そう思う。
(安易な死よりも、苦痛の続く生を)
神様はそのヒトに背負えないものは背負わせようとはしないんだと、誰かが言っていた。
都合の良い解釈だと思う。
そんなことが言えるのは、本当に辛い目にあったことがないからではないかと疑ってしまう。
自殺は与えられた幸せを自ら放棄することだから決してしてはいけない、という言葉がある。
偽善だと思う。
同じ立場になって体験し、その上で行動するべきか判断しなければ意味がないのではないだろうか?
「……」
其処で思考を切り上げる。
これ以上、同じことを考えることに意義を見出せなくなっていた。
何年も繰り返してきた思考。繰り返したところで仕方のない思考。
(結論なんてない)
目を閉じる。
これといって何もすることがないのだから、眠ることが悪いことであるようには思えなかった。
(先はまだ長い)
目的地はこの電車の終着駅。
まだまだ電車の定期的な振動が収まる気配は遠く感じられた。
-肆-
僕達は二人ともクラブ活動をしていたけれども、活動内容自体が別だったので、帰りは教室か昇降口かで待ち合わせをすることが多かった。
大抵というか、お約束というか、待つことが多いのは僕の方で、教室でも昇降口でも暇を持て余してしまうのがほとんどだった。
「あ、今日は早かったんだ?」
その日は春菜の方が終わるのが早かったようで、僕が教室に戻ってきた時には帰り支度をして、窓から外を眺めていた。
「うん」
教室には他には誰もいない。それは春菜も分かっているようで、僕に振り返らずに返事を返した。
僕は夕日の差し込む窓際へと歩みを進めた。
「どうしたの? 何か見えたの?」
「夕焼け」
「……あのね」
「でも、夕焼けを見ていたんだよ?」
「そっか……」
春菜の言葉に合わせて、僕も窓の向こうから差してくる茜色の雲を目で追った。
季節柄なのか、刺すような眩しさは感じられない。寧ろ、何処かに気持ちを落ち着かせるような優しさが感じさせた。
「こういうのって、憧れていたから」
「え? んと、教室で夕焼けを見るのが?」
「別に教室じゃなくても良かったんだけどね」
春菜はくるっと身を翻し、僕にと笑顔を向けた。
「好きな人と夕焼けを見るのに憧れていたんだよ」
夕焼けを背に受けた春菜は何だが僕の目にいつもと違う彼女の印象を焼きつけた。
「それで、なんでもないようなことをお話するの」
「どれだけ時間が経ったとしても、この刻に二人で得た気持ちを忘れないようにって」
女の子はロマンチストだという言葉は誰に聞いた言葉だっただろうか?
一瞬にして胸が締めつけられる気がした。どうしてこんな風に言葉に出来るのだろう? どうしてこんな風に誰かを素直に想うことが出来るのだろう?
僕は、たまらず春菜のことを抱き締めた。
「裕也?」
「何を言ったら良いのか、分からないよ……」
「え」
「僕はこれまで春菜といつだって一緒に居て、これからもずっと一緒に居られるって思って居たから」
「勿論だよ。私は裕也の隣に居るよ?」
「そうじゃなくて、僕はもっと早くに春菜に言葉を告げるべきだったんだ。多分、僕は春菜に出会った時から甘えてしまっていたんだ」
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「僕は他人に言われなければ気が着かない鈍感だけれども、春菜を離したくないって感じたから」
これまでの積み重ねを絆に変えようとするならば、失うことも辞さない覚悟が必要。
此処に至って、本当に僕が鈍感だったというのを痛感する。
「……ありがとう。その気持ちだけで充分だよ。私達は今、此処でこうして一緒に同じ気持ちで居られるんだから」
其処で春菜は僕の腕に合図して少し緩め、顔を上げてくれた。
覗き込む朗らかな表情には見る限り一点の曇りも、迷いも伺えなかった。
「ヒトは誰もが我が儘だから、何処かに不安を感じて証拠を欲しがってしまうけれども、本当なら直接的な言葉なんて要らないんだよ」
春菜が何を云わんとしているのか、何を伝えたいのか……今の僕はそれを理解することが出来た。
「結局、私が我が儘だから気持ちを抑えられなくなったけれど、告白がなくたって、私は裕也からたくさんの言葉や気持ちをもらっていたんだよ」
長く一緒に過ごし、普通のヒトとは違う絆を結び、特別なモノを紡ぎ上げて――。
「だから、本当はそれだけで充分だったんだよ」
今度は春菜から動いて、僕を抱き締めてくる。
「惑わせてごめんね。私はこれからも変わらず、裕也の隣に居る。ずっと一緒に居たいんだよ」
「……うん」
春菜の温もりを感じながら、僕は素直に頷いた。
そして、互いの気持ちを再確認し、春菜と共に居られることに満たされていくのを感じたのだった。
-伍-
郊外の日差しは、やけに涼やかだった。
(……全然、変わってないな)
電車から降り立ち、久々に訪れる場所の様子をぐるりと見渡す。
この駅の周辺は人通りの多い場所ではなかったが、今日はそれに輪をかけて少なく感じられた。
(平日の午前中――……は関係ないか。此処は山と墓以外は何もないし、人が集まるところでもない)
他の路線とのアクセスのある中継駅だが、他の用途で訪れる者が居ないのが大きな原因だろう。
(記憶に間違えがなければ、この先の坂を登ったところに雑貨屋みたいなのがあったはず。裏手には公園があったような気はするけど……)
前に来たのは学生だった頃で、少なくとも五年以上経過している……それなのに、全く変わりがないと思えてしまうのは単なる錯覚なのだろうか?
(ま、確かに此処はある意味では時間が止まってしまった場所だからな……行くか)
いつまでも感傷に浸っていても仕方がないと溜息を一つ吐き、目的地である墓園へと向かってゆっくりと坂道を歩き始めたのだった。
-陸-
舗装された坂道を上った先に、その場所はある。
元々、山の一部を削って作られた環境であるから、見晴らしは良いし、街に比べれば自然も多い。
ただ、此処は静謐であるべき場所であり、人が集まって憩うようなところではない。
(この坂道も変わらないな……登るの、キツイ)
否が応にも滲み出してくる汗をハンカチで拭いながら、墓石へと向かって行く。
(春菜、来たよ)
手には途中の雑貨屋で買った手向けの花。
恰好こそそぐわないが、これは墓参りだった。
失ってしまった、大切な人の――。
(先客か……)
目的の場所に近づいていくと、其処に手を合わせている人の姿が見えた。
人が居ること自体はおかしくはないが、平日の午前中に鉢合わせたのは不自然な感じがした。
(見知った顔とも限らないし、少し待つか)
少し離れた位置で足を止め、その人を見守る。
弔問や供養には特別な想いが存在するもので、 それを他人が土足で踏み躙るような真似は決してして良いものではない。
(焦ることはない)
すると、墓前で手を合わせていたその人が不意にこちらを振り向いた。
「……どうも」
咄嗟に会釈を返す。別段、邪魔になるようなことをした覚えはないのだが、気になるようなことでもあったのだろうか?
(あ、こっちに来た)
その人が小走りにこちらへとやってくる。
道具を置きっ放しにしている辺り、まだ終わったというわけではないのだろうが。
「……やっぱり、篠原だ」
「え」
「あっと、此処まで言っておいてなんだけど、違っていたらごめん……篠原裕也だよね?」
「そうだけど……」
圧倒されてしまう。
いきなり駆け寄って来たかと思えば、今度は自分の名前を言い当てられてしまう。
こんな風に外見から判断がつくのだから、この人とは以前に何処かで会っているのだろうが……。
「あたしは葛西。葛西夏樹」
「葛西……? 学校で一緒だった?」
ぼんやりとした記憶の一つが目の前のその人に当てはまる。
あの頃とは少し変わった体型と髪型とは、一つのことに心奪われていた自分には想像もつかないような変貌を遂げていた。
-漆-
墓石に水をやって、供え物と花を取り替え、線香を焚き、墓前にて黙祷する。
『如月家代々乃墓』
眼の前の墓石にはハッキリとそう刻まれている。
そのまま目を閉じ、気持ちをトレースしてみる。
伝えたいこと、言わなければならないことがたくさんあるはずだった。
「……」
自分の心も、また変わらない。
あの時から一つも成長していない。
(まだ、何も分かってないんだな……)
だから、語るべき言葉が見出せない。
此処に眠る人に向ける何かを、全く見出せない。
「……」
目を開け、黙祷を終える。
物語のように、自分の前に春菜が現れるような不思議な展開も、やはり起こらなかった。
「……またね」
それだけ言って踵を返し、墓前を後にした。
-捌-
昼下がりの坂道を二人でゆっくりと降りていく。
久方ぶりの再会ではあったものの、状況が状況だけに会話が弾むというのは難しかった。
「葛西さんはどうして墓参りに?」
「……思い出したから、かな。別に春菜に呼ばれたとか、そういうのじゃないんだけど」
誰かと一緒なのに喋らないのも変なので、墓前に葛西さんが居た時に思った疑問を投げてみる。
「あたし、休みが一定じゃない仕事をしていて、たまたま今日がその休みだったんだけど、暑くなってきたなって思ったら急に行きたくなってね」
「……なるほど」
適当に相槌を打ったところで、自分も同じようなものだったなと共感を覚える。
(そういや、葛西さんは春菜と仲が良かったんじゃなかったか?)
朧げな記憶を辿っている内、葛西さんが此処に来た理由と今の季節とが紐づけされた。
「……ね、聞いてもいいかな?」
歩みを止め、葛西さんは自分と向き合った。
その表情が少し険しい辺り、過去の事件に関わる話なのは容易に想像が出来た。
(ま、春菜と僕のことを知っているなら気になるのは当然か)
葛西さんは自分の過去を知っている。春菜と一緒だった自分のことを知っているのだ。
「……春菜に関わること、でしょ?」
「え」
「僕に改まって聞いてくるようなことって言ったら、それ以外にはないだろうし」
「……ごめん」
「謝らなくて良いよ。こんなタイミングで会ったのも何かの思し召しだろうから」
これは嘘じゃない。
請われれば話すようにしていたし、これからもこの方針を変えるつもりはない。
安易な死よりも、苦痛の続く生を。
生きていく中で何かを見出す……あの時、自分でそう決めたのだから。
「ただ、話はどうしても長くなるとは思うよ?」
「それは平気かな。あたし、他人の話を真面目に聞くの、苦手じゃないから」
「そう? それじゃ、確かこの先に公園があったはずだから、そっちまで行ってからね」
「ん、了解」
-玖-
そして、駅の裏手にある公園に辿り着いた。
(此処も、変わってないな……)
記憶の中にあっただけの公園だったが、場所は健在だったようで、こちらも駅前と同じく、懐かしい風景を見せてくれた。
「こんなところがあるなんて、よく憶えてたね?」
「朧気にね。あ、葛西さんは何か飲む? 僕は其処でお茶を買ってくけど?」
「ありがとう。それじゃ、同じのをお願い」
「ん」
着いた隣に自販機があったので、簡単に聞いてみると二つ返事で答えが来た。
(葛西さんは……どんな娘だったっけ?)
自販機からお茶を取り出しながら、当時の彼女の印象を思い出そうとして――……直ぐに諦めた。
(上手く思い出せるわけがない)
葛西さんが春菜と仲が良かったという印象だけは残っていたが、僕は春菜以外の他人の印象を敢えて薄くしてしまっているところがあった。
「ほい。お待たせ」
「ありがとう」
葛西さんからお金を受け取って、数歩進んで木を半分に割ったようなデザインのベンチに腰掛ける。
「んー……ま、いっか」
葛西さんは座るべきか迷っていたが、話が長くなるのを思い出し、僕の隣に腰を下ろした。
「……んで、葛西さんが聞きたいことって、何?」
日はまだ高い。この空間には木々が植えてあって、上手いこと天頂近くの陽光を遮っていた。
「うん……学生だった頃の話になるんだけど、篠原があたしに言ったことがあったでしょ?」
「え、僕が葛西さんに? うーん……昔のことだから何を言ったか憶えているかどうか……」
「そんなことない。篠原は憶えているはずだよ」
「はずって……僕と葛西さんが学校に居た頃のことでしょ? もしかして僕、葛西さんに酷いことを言ったのかな?」
「そんなんじゃないけど、あたしは篠原があの時、どうして春菜を殺したなんて言ったのか、その真意を知りたいだけ。状況次第だけど、あたしは篠原を許さないかも知れない」
「!」
不意に、風が吹いた。
(そうか……彼女はあの時、其処に居たのか……)
真剣な目をして見つめてくる葛西さんに、僕は思わず息を飲み込んでいた……。
-拾-
春菜の声が薄くなり、続いてそれが途切れた瞬間、僕は自分の世界が閉じていく音――何かが崩れていくようなモノ――を感じた。
『あれ、篠原君?』
『……僕が春菜を殺した』
『は?』
『一緒に居なければ……約束をしていなければ、春菜はあの場所を通ることはなかった――』
何も聞こえなかった。
僕の中では「春菜が死んだ」という事実と「僕が殺した」という真実だけが鳴り響いていた。
『ちょ、ちょっと! 何を言っているの!?』
『あの道を通ろうとしたんだ……工事中の場所が校舎への近道だって、みんなが知っていた……』
僕は、いつもと同じように教室で待っていた。
クラブ活動が終わってから一緒に帰る約束をしていたから。
『立入禁止を、遅れないようにと……』
それで春菜は僕を待たすまいと、その道を使ったのだろう。
クラブ活動の終了が遅くなったとか、片づけを任されて遅れてしまったとか、理由はどうでも良い。
『そこに事故が重なってしまった……』
『ちょっと篠原君! シッカリしてよっ!』
分かっている。
自分が罪深い人間であると、分かっている。
『だから……だから僕が彼女を殺したんだ……!』
自分みたいな存在が居たから春菜は消えてしまった、そんな風に考えたかったのかも知れない。
『あんなに長く隣に居て、互いの気持ちが伝わっていたのに……どうして春菜を助けられなかった?』
『し、しのはら……?』
悲しい、苦しいと感情は衝撃を示していたが、瞳に涙は一滴も滲まなかった。
どうやら人間は、悲しみが限界を超えてしまうと泣き方すらも忘れてしまうものらしい。
『どうして……どうしてっ……わぁぁぁぁぁっ!』
だから僕は叫び、吼えた。
己の感情を心の奥底から表現するように、声が枯れるまで叫び、全身全霊で吼えたのだった……。
-拾壱-
「なるほど。葛西さんは僕の声を聞いていたのか」
「……そうじゃないかとは思っていたけど、やっぱり気づいてなかったんだ?」
「うん……僕が言ったことを覚えていたなら分かると思うけど、精神的に壊れかけていたからね……」
初めに起こったのは虫の知らせというのだろうか? 妙にぞわぞわする感じがして落ち着きがなくなったのを今でも憶えている。
そして、金属が落ちたような大きな反響音――。
「流石に驚いたよ。教室に一人で佇んで意味不明なことを口走ってたんだもの……なるほど。それで篠原は春菜を殺したって言い出したわけか」
「……申し訳ない」
何を言われても頭が上がらなかったが、逆に意味不明な状況で自分が殺したという僕の発言をずっと憶えていて、偶然的に再会した場でかつての疑問を紐解こうとする彼女もまた危篤な存在だろう。
「いや、逆にホッとしたよ。篠原は幼馴染で相思相愛だって春菜に惚気られていたから、篠原が本当に春菜を殺したのだったら絶対に許せなかったよ」
葛西さんは難い表情を緩め、胸を撫で下ろすような仕草をした。
(……そっか。春菜と葛西さんは互いが認める親友同士だったってことか)
僕達の縁を確実にしてくれた友人が面白がって策略し、瞬く間に僕と春菜が交際しているのが学校内に知れ渡ったわけだが、春菜が葛西さんに惚気ていたというのは意外で、とても新鮮な情報だった。
「……でも、篠原が壊れたのとは別で、また疑問が生じるんだよね」
「別の疑問? どういうこと?」
葛西さんは口元をへの字にし、ペットボトルのキャップを捻って一口。
「過去の話だからどうでも良いと言われればそうだけれど、篠原はあの場所に居たのに、どうして事故が起こったって直ぐに分かったの?」
「え?」
正直、それを突いて来られるとは思わなかった。
「確かに外に居た連中は春菜が事故で怪我をしたって騒いでいたみたいだけれど、私が篠原と会ったのは事故の直後に教室で会ったんだよ? まして篠原は春菜の死を的確に伝えていた……そんな情報は誰も知らないのに」
「あー……」
確かに葛西さんが言っていたように、これは僕にとって何年も過ぎている情報である。
加えて他言無用としているわけでもない……単に普通に伝えても理解され難い情報なわけで……。
「あっ、ごめん! あたし、また余計なことをズケズケと――」
「いや、大丈夫。確かに春菜が死んだって情報は数日してから学校の方から連絡が通ったわけだから、知っているなら疑問を感じて当然だろうね」
(あれは普通じゃなかったんだろうな……)
金属が落ちたと思われる大きな反響音。
そして、それに続いて繋がった、春菜の声――。
「でも、事実を伝えたら拍子抜けすると思うよ?」
「……どういうこと?」
「テレパシーっていうのかな? 妄想と思われるかも知れないけど、『裕也』って僕を呼ぶ強い声が脳裏を走ったんだ」
「……!」
「あの日は普段と違う感じがしていたんだ。だから、特殊なモノが感じられたのかも知れない」
「春菜と篠原の間でだけ、通じる何かってこと?」
「さて、こればっかりは何とも。互いの気持ちで常に繋がって居られるのなら、それに越したことはないのだろうけどね」
それだけ告げて、ベンチから腰を上げる。
唐突に感情が甦り、慌てて瞳を覆って天を仰ぐ。
「篠原?」
「……本当にあんな風に考えられたら、どれだけ楽だったんだろう」
春菜はもう居ない……それは揺るがない事実。
「僕が殺した、それでも良かったんだ。散々弄んだ挙げ句、飽きてしまったから殺した、そんなのでも良かったんだ……」
「篠原……」
原因は事故死。学校内の改装工事用の鉄骨を頭部に受け、頭骸骨陥没。
工事現場周辺には関係者以外は立ち入りが出来ないことになっていたが、工事関係者が侵入を見かけても阻む等の行動を起こしていなかった側面があった為、実質出入りや通り抜けが自由となっていた。
「春菜が居なくなったって分かった時、僕は自分の意味を見失ったんだ」
幼馴染みの彼女。
普段から一緒に居て、お互いのことを自然に想い合った存在。
「ずっと一緒に居たから、何でもないことで消えてしまうなんて、考えられなかったんだ」
「だから自分を?」
「僕は弱かったから、他に逃げ道が分からなかったんだと思う」
春菜がこの世界から消えてしまったと気が着いた時、死にたいと思った。
彼女の存在しない世界にどんな意味があるのか、自分にはまるで想像することが出来なかったから。
けれど、同時に死んでしまうということに意味も見出せなかった。
自分が死ぬことによって再び春菜に会える……そんな幻想を抱ける夢想家では決してなかったから。
「……葛西さんには酷いことをしてしまったね」
まだベンチに腰掛けている葛西さんを振り返る。
「ま、結果的にね。お陰様で数年来の疑問は晴れたけど、男性不信を拗らせても居るんだよね……」
僕の弁明に対し、葛西さんは気にしていないと手をひらひらさせたが、それでも本気が冗談か判断し難い、どんでもない爆弾を投下してきた。
「え? それはまさか僕が原因ってこと⁉」
「他の原因、考えられる? あの発言が本当だったら、篠原は親友の仇だったんだから。そうなっちゃった責任は取ってくれるんでしょうね?」
「ええ……」
流石に理不尽だとは思ったが、眼が据わっている葛西さんが悩んでいたのは事実――男性不信気味かは別として――なのだろう。
「葛西さんなら直ぐに彼氏は見つかるとは思うけどな……逆に狂っているかも知れない僕なんかが相手で良いの?」
「うっ、真顔で言わないでよ。もう……」
いっそのこと、狂ってしまえれば良いと思う。
物語や漫画みたいに、春菜を生き返らせる魔法じみた儀式に手を出しても抵抗がなくなるのだから。
いや、こんな風な思考を普通に展開させてしまう辺り、僕は既に狂っているのかも知れない。
春菜に会えないこの世界に、いつまでもしがみついているという、その時点で。
「……葛西さん」
「ん?」
「死ぬって、どういうことだと思う?」
「……何だかいきなり暗くなったなぁ。春菜のことを思い出した?」
「うん……春菜が居なくなった時、僕は生きていても仕方がないと思ったんだ」
「まぁ、あの荒れようだし、無理もないよ」
「でも、死のうとは思わなかったんだ」
「んん? 言っていることが矛盾してない?」
「うん。だから、死ぬってどういうことかなって」
「……ごめん。良く分からないんだけど?」
「ええっと、何て言ったら良いのかな……」
死は終わりだ。
実際、死のうと思う人のどれだけがそれを理解しているだろうか?
都合良く、自分の不必要なモノだけが消え去ると思っているのではないだろうか?
「ああ、もう!」
逡巡する様子に痺れを切らしたのか、葛西さんは綺麗に染めたショートカットをかき毟り、ポケットからメモ帳を取り出して何か書き付け、問答無用でこちらに押しつけてくる。
「……これは?」
メモ帳には十一桁の数字と長いアルファベットが並んでいた。
「あたしの連絡先。これも何かの縁だから、篠原が必要だと思ったら、掛けて来なさい」
「え」
「春菜が篠原のことを気にかけていた理由が分かる気がする。何だかほっとけない」
「う……僕、そんなに頼りない?」
「当然でしょ! 自分で狂っているかも、なんて言い出す危ない奴、誰が頼りにするわけ?」
凄い勢いで一方的に捲し立てられてしまう。
元より強気な性格ではないし、流されやすいタイプであると自覚もしていたが、ここまでハッキリ言われるとは思わなかった。
「良い? いつまでも一人で悩んでいても、絶対に解決はしないからね?」
「でも、一人じゃ難しくても、二人で力を合わせればどうにかなることはあるからね?」
「痩せ我慢をして格好つけるのも良いけど、他人に頼ることは別に悪いことじゃないんだぞ」
小気味良く、鋭い言葉が連続して飛んでくる。
その一つ一つが、いちいち心に突き刺さるものだから、ホントに何も言い返せない。
「勿論、自分で決めるのは悪くないし、其処にずっと居たいならそれはそれで良い。でも、理屈を捏ねて言い訳しているんじゃ、何も変わらないよ?」
「篠原は死ぬってことに悩んでいるんだろうけど、死んでしまったら何もかも終わりじゃないの?」
「篠原はまだ生きている……生きているなら、やれることがあるでしょ?」
そう……如月春菜はもういない。
けれど、篠原裕也の現実はまだ続いている――。
「そんな風に悩めるのも、先のことを考えられるのだって、生きているからでしょ?」
それが、事実。
今、此処に続いている、ただ一つの事実。
「……そう、だね」
葛西さんがくれた言葉に頷く。
分かっていたけれど、分かっていなかった言葉。
見えていたけれど、見逃していた言葉。
「まだ、終わっていないんだよね……」
不意に、涙が出てきた。
なんでもないことなのに、言葉にした途端、涙が止まらなくなっていた……。
死んでしまいたいと思うことがある。
意志を持って生活している以上、辛いことがあるのは当然だし、消えてしまいたくなるような場面に遭遇することもある。
けれど、どれだけ酷いことがあっても、人間は忘れることが出来る。
どれだけ頑張って記憶に留め置こうとしても、長い時の間に感覚は少しずつ薄められ、やがて曖昧にされてしまう。
だから、安易な死よりも、苦痛の続く生を選び、己を信じて生き続けることが出来る。
自分自身に最期が訪れる、その時まで――。
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