軌跡の欠片 ~1つの事件から繋がった、狭いながらも固い絆~
新場カザン
生と死と
過去の記憶と再会と
死んでしまいたいと思うことがある。
意志を持って生活している以上、辛いことがあるのは当然だし、消えてしまいたくなるような場面に遭遇することもあるだろう。
けれど、どれだけ酷いことでも、人間はそれを忘れることが出来る。
どれだけ頑張って記憶に留め置こうとしても、長い時間の間に感覚を少しずつ薄められ、やがて曖昧にされてしまう。
だから、安易な死よりも、苦痛の続く生を選んでいける。
自分自身に最期が訪れる、その時まで――。
-壱-
風が強く吹いていた。
周囲に申し訳程度に植えられた緑がザアァッとざわめき、地面に転がっていたビニール袋が煽られて吹き飛ばされていった。
(風があるだけ、まだマシだな)
今日は日差しが強い。青く澄み渡った空には雲ひとつない。
夕方から夜にかけてアスファルトが日中に溜め込んだ熱気を発散して、寝苦しい深夜を演出してくれることだろう。
(そういや、この頃だったか)
衣替えの頃。
自分が学生だった頃に起こしてしまった事件を思い出す。
学校を移る切欠となった、夏に向かう時間の中で起こってしまった、些細な間違い。
「些細な間違い、か……」
当時に比べると、自分は悪くなったと思う。
あれを指して「些細な間違い」と言えるのだから、自分の感性は随分とねじ曲がってしまったに違いない。あの頃は自責の念に押し潰されそうになりながらも一生懸命に日々を過ごしていたのだから。
(一生懸命、か……)
自分自身の思考が微笑ましく思えた。
まだハッキリとした記憶の内に残っているというのに、どうして自分自身を欺こうとするのか?
「……行ってみるか」
点々とした、けれども鮮明な記憶を追っていく内に呟いていた。
確固とした考えがあってのことではなく、単に自分自身が忘れかけていた物語を久々に補完しに行きたくなっただけだ。言うなれば、懐かしさに駆られたというだけで、その他の理由は何もない。
「……」
学業を終え、自分自身を拘束するモノは特に何もなかった。
(そう……本当に何もないんだよな……)
決めてしまえば行動は早かった。
駅まで向かい、電車に乗り込む……ただ、それだけでのことで済んだ。
-弐-
僕達は幼馴染みだった。
家がお隣同士、元々の親同士が大学時代の友人だったということもあって、家族ぐるみの付き合いをしていた。
そのせいもあってか、春菜とは自然と仲良くなったし、普通に居るのが当たり前という感情も抱いていた。
(小さい頃、彼女にお嫁さんになってくれるかなんて、質問をしたこともあったな……)
これは後々になって知ったことだが、こういう風に男女間の仲が良いと、どちらかが変な意識をしてしまってギクシャクする時期があるらしい。
(ま、思春期の男女なら意識するのは当然か)
だが、僕達には何故だがそれがなく、周囲の人間に茶化されても気にすることがなかった。
(それは、お互いにそれが当然なんだと信じて疑ってなかったからだろうけれど)
友人に「お前は春菜と付き合っているのか?」と質問され、「どうしてそんなことを聞くの?」と疑問で返し、大いに呆れられた覚えがある。
(僕達は言葉にしなくても、何処かで繋がっていたから、彼の質問の意味が分からなかったんだ)
「ねぇ、春菜?」
「ん? どうしたの?」
だから、その感情を僕が言葉にして、春菜に伝えたのはこれが最初だった。
周囲の影響でそれをしたというのも大きいのだけれども、これに関しては呆れ半分で忠告してくれた友人が切欠となっている。
「その……変な言い方だけれども、僕達って周りから見たらどう見えていると思う?」
「え」
「あ、う……と、その、僕達が幼馴染みだって知らない人から見たらって意味なんだけれどさ」
「……恋人同士、かな?」
「えっ」
「裕也、誰かに何か言われた? 私と裕也が二人で居る時間って普通の友達のそれとは全く違うよ?」
「まぁ、親戚とかの会話は僕達の間柄でしか通用しないだろうけど……」
「……なるほど。要は壮絶な鈍感だったってわけね。何だって私はこんなのを――」
「えっ、何?」
「何でもない! やっと気が着いてくれたのかなって、ほんの少し思っただけ!」
「……」
それだけ言ってプイッと顔を背けるが、別に本気で怒ったわけではないようだった。
この辺りは幼馴染みだから自然と関知する、お互いのテレパシーみたいなモノで――……っ!?
(今、気が着いてくれたって言った?)
不意に読み取った単語に自然と繋がっていくモノがあった。
『……恋人同士、かな?』
『裕也、誰かに何か言われた? 私と裕也が二人で居る時間って普通の友達のそれとは全く違うよ?』
『何でもない! やっと気が着いてくれたのかなって、ほんの少し思っただけ!』
「……」
長い時間を一緒に過ごしてしまうと、その相手が特別に見えなくなってしまうことがある。
家族のような、空気のような存在……其処に居るのが当然で、居なくなった時に初めてその大きさに気が着くような――。
(そうか。そういうことなんだ……!)
春菜の答えは素だった。
それは僕にとって嬉しいことで――。
「……春菜」
「ん……って、何? 急に真剣な顔して……」
「一度しか言えないから、真面目に聞いて欲しい」
「え?」
心臓の音が聞こえる。
普段は意識しても聞こえない鼓動が凄く大きく頭の奥に反響していた。
(話には聞いていたけど、凄い緊張感だ)
掌にジットリと汗をかいているのが分かる……今まで意識していなかったことを意識するだけで、こうも変わるものなのだろうか?
(春菜はどう思っているだろう……?)
春菜の顔を見る。
紅潮して見えるのは僕の気のせいだろうか?
「……」
いつの間にか俯き加減になっていた顔を上げ、春菜の顔を見据えて意を決し、言葉を紡ぐ。
「僕は春菜のことが好きだよ」
いつも心の奥底にあって、どんな時も彼女に伝えられる短い、想いを込めた一言――。
「幼馴染みではなく、一人の女性として。だから、これからは恋人として付き合って欲しい」
(……どうにか言い切ったけど、胸が痛い)
伝えるだけは伝えられたが、未だに心臓の鼓動が収まらず、苦しくてどうにかなりそうだった。
「……ありがとう。やっと、言ってくれたね」
(あ……)
少しの間を置いて、春菜の声が返って来た。
「私は小さい頃から今に至るまで、ずっとずっと裕也のことしか想っていなかったんだよ?」
穏やかな笑みを浮かべながら、僕の告白を受けて入れ、春菜は瞳から大粒の涙を零していた。
「あ、あれ? 変だな……嬉しいのに、涙が――」
「春菜!」
感情の昂るまま、僕は彼女を抱き寄せた。
(人間に言葉が備わっているのは、言葉を以って想いを伝えることが出来るから、か……)
友人が「言わなくても伝わるじゃなくて、伝えなくちゃいけないことがある」と教えてくれた。
今は絶対じゃないし、次の瞬間に何が起こるか分からないのが現実……僕はそれを忘れかけていた。
(何もしなかったら、僕達はどうなっただろう?)
互いの想いを何となく理解したまま、ずっとずっと同じような二人でいられただろうか?
それとも、いつしか袂を分かって、二人で居た頃を懐かしく話すような関係になっていただろうか?
(……いや、今はそれを考えても仕方がない)
今の僕が考えなければならないのは仮定の話ではなく、これから先のことなのだから……!
-参-
ふと、身体に衝撃を感じ、水の中から急浮上するような感覚で目を醒ます。
(ここは――)
視界に飛び込んできたのはどうということのない車内の風景。時間柄、ヒトもまばらで座っていても対面の背景がよく見える。
「……」
どうやら少し眠ってしまっていたらしい。ここ最近の不規則な生活が祟っているのだろうか?
(……まだこんなもんか)
風景で大体の位置と時間経過を確認し、太陽の光を浴びて温くなった車内に溜息を落とす。
セピアに色褪せてもおかしくない記憶の断片は、未だに精彩を放っていた。
(あれから五年以上、経っているんだがな……)
思い出は美しく見える……これは名言だと思う。
過ぎ去った瞬間から全てを都合の良いモノに創り替え、そのまま記憶として留めていくのだから。
(だが、イヤな記憶は想い出とは言わない)
辛い想いを追体験したい人間はそういない。
場合によってはその記憶に蓋をして、封印してしまいたいとさえ思うに違いない。
事実、そうしなければ精神が崩壊してしまうという時には脳が作用する場合もあるという。
「……」
良く出来ている……そう思う。
(安易な死よりも、苦痛の続く生を)
神様はそのヒトに背負えないものは背負わせようとはしないんだと、誰かが言っていた。
都合の良い解釈だと思う。
そんなことが言えるのは、本当に辛い目にあったことがないからではないかと疑ってしまう。
自殺は与えられた幸せを自ら放棄することだから決してしてはいけない、という言葉がある。
偽善だと思う。
同じ立場になって体験し、その上で行動するべきか判断しなければ意味がないのではないだろうか?
「……」
其処で思考を切り上げる。
これ以上、同じことを考えることに意義を見出せなくなっていた。
何年も繰り返してきた思考。繰り返したところで仕方のない思考。
(結論なんてない)
目を閉じる。
これといって何もすることがないのだから、眠ることが悪いことであるようには思えなかった。
(先はまだ長い)
目的地はこの電車の終着駅。
まだまだ電車の定期的な振動が収まる気配は遠く感じられた。
-肆-
僕達は二人ともクラブ活動をしていたけれども、活動内容自体が別だったので、帰りは教室か昇降口かで待ち合わせをすることが多かった。
大抵というか、お約束というか、待つことが多いのは僕の方で、教室でも昇降口でも暇を持て余してしまうのがほとんどだった。
「あ、今日は早かったんだ?」
その日は春菜の方が終わるのが早かったようで、僕が教室に戻ってきた時には帰り支度をして、窓から外を眺めていた。
「うん」
教室には他には誰もいない。それは春菜も分かっているようで、僕に振り返らずに返事を返した。
僕は夕日の差し込む窓際へと歩みを進めた。
「どうしたの? 何か見えたの?」
「夕焼け」
「……あのね」
「でも、夕焼けを見ていたんだよ?」
「そっか……」
春菜の言葉に合わせて、僕も窓の向こうから差してくる茜色の雲を目で追った。
季節柄なのか、刺すような眩しさは感じられない。寧ろ、何処かに気持ちを落ち着かせるような優しさが感じさせた。
「こういうのって、憧れていたから」
「え? んと、教室で夕焼けを見るのが?」
「別に教室じゃなくても良かったんだけどね」
春菜はくるっと身を翻し、僕にと笑顔を向けた。
「好きな人と夕焼けを見るのに憧れていたんだよ」
夕焼けを背に受けた春菜は何だが僕の目にいつもと違う彼女の印象を焼きつけた。
「それで、なんでもないようなことをお話するの」
「どれだけ時間が経ったとしても、この刻に二人で得た気持ちを忘れないようにって」
女の子はロマンチストだという言葉は誰に聞いた言葉だっただろうか?
一瞬にして胸が締めつけられる気がした。どうしてこんな風に言葉に出来るのだろう? どうしてこんな風に誰かを素直に想うことが出来るのだろう?
僕は、たまらず春菜のことを抱き締めた。
「裕也?」
「何を言ったら良いのか、分からないよ……」
「え」
「僕はこれまで春菜といつだって一緒に居て、これからもずっと一緒に居られるって思っていたから」
「勿論だよ。私は裕也の隣に居るよ?」
「そうじゃなくて、僕はもっと早くに春菜に言葉を告げるべきだったんだ。多分、僕は春菜に出会った時から甘えてしまっていたんだ」
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「僕は他人に言われなければ気が着かない鈍感だけれども、春菜を離したくないって感じたから」
これまでの積み重ねを絆に変えようとするならば、失うことも辞さない覚悟が必要。
此処に至って、本当に僕が鈍感だったというのを痛感する。
「……ありがとう。その気持ちだけで充分だよ。私達は今、此処でこうして一緒に同じ気持ちで居られるんだから」
其処で春菜は僕の腕に合図して少し緩め、顔を上げてくれた。
覗き込む朗らかな表情には見る限り一点の曇りも、迷いも伺えなかった。
「ヒトは誰もが我が儘だから、何処かに不安を感じて証拠を欲しがってしまうけれども、本当なら直接的な言葉なんて要らないんだよ」
春菜が何を云わんとしているのか、何を伝えたいのか……今の僕はそれを理解することが出来た。
「結局、私が我が儘だから気持ちを抑えられなくなったけれど、告白がなくたって、私は裕也からたくさんの言葉や気持ちをもらっていたんだよ」
長く一緒に過ごし、普通のヒトとは違う絆を結び、特別なモノを紡ぎ上げて――。
「だから、本当はそれだけで充分だったんだよ」
今度は春菜から動いて、僕を抱き締めてくる。
「惑わせてごめんね。私はこれからも変わらず、裕也の隣に居る。ずっと一緒に居たいんだよ」
「……うん」
春菜の温もりを感じながら、僕は素直に頷いた。
そして、互いの気持ちを再確認し、春菜と共に居られることに満たされていくのを感じたのだった。
-伍-
郊外の日差しは、やけに涼やかだった。
(……全然、変わってないな)
電車から降り立ち、久々に訪れる場所の様子をぐるりと見渡す。
この駅の周辺は人通りの多い場所ではなかったが、今日はそれに輪をかけて少なく感じられた。
(平日の午前中――……は関係ないか。此処は山と墓以外は何もないし、人が集まるところでもない)
他の路線とのアクセスのある中継駅だが、他の用途で訪れる者が居ないのが大きな原因だろう。
(記憶に間違えがなければ、この先の坂を登ったところに雑貨屋みたいなのがあったはず。裏手には公園があったような気はするけど……)
前に来たのは学生だった頃で、少なくとも五年以上経過している……それなのに、全く変わりがないと思えてしまうのは単なる錯覚なのだろうか?
(ま、確かに此処はある意味では時間が止まってしまった場所だからな……行くか)
いつまでも感傷に浸っていても仕方がないと溜息を一つ吐き、目的地である墓園へと向かってゆっくりと坂道を歩き始めたのだった。
-陸-
舗装された坂道を上った先に、その場所はある。
元々、山の一部を削って作られた環境であるから、見晴らしは良いし、街に比べれば自然も多い。
ただ、此処は静謐であるべき場所であり、人が集まって憩うようなところではない。
(この坂道も変わらないな……登るの、キツイ)
否が応にも滲み出してくる汗をハンカチで拭いながら、墓石へと向かって行く。
(春菜、来たよ)
手には途中の雑貨屋で買った手向けの花。
恰好こそそぐわないが、これは墓参りだった。
失ってしまった、大切な人の――。
(先客か……)
目的の場所に近づいていくと、其処に手を合わせている人の姿が見えた。
人が居ること自体はおかしくはないが、平日の午前中に鉢合わせたのは不自然な感じがした。
(見知った顔とも限らないし、少し待つか)
少し離れた位置で足を止め、その人を見守る。
弔問や供養には特別な想いが存在するもので、 それを他人が土足で踏み躙るような真似は決してして良いものではない。
(焦ることはない)
すると、墓前で手を合わせていたその人が不意にこちらを振り向いた。
「……どうも」
咄嗟に会釈を返す。別段、邪魔になるようなことをした覚えはないのだが、気になるようなことでもあったのだろうか?
(あ、こっちに来た)
その人が小走りにこちらへとやってくる。
道具を置きっ放しにしている辺り、まだ終わったというわけではないのだろうが。
「……やっぱり、篠原だ」
「え」
「あっと、此処まで言っておいてなんだけど、違っていたらごめん……篠原裕也だよね?」
「そうだけど……」
圧倒されてしまう。
いきなり駆け寄って来たかと思えば、今度は自分の名前を言い当てられてしまう。
こんな風に外見から判断がつくのだから、この人とは以前に何処かで会っているのだろうが……。
「あたしは葛西。葛西夏樹」
「葛西……? 学校で一緒だった?」
ぼんやりとした記憶の一つが目の前のその人に当てはまる。
あの頃とは少し変わった体型と髪型とは、一つのことに心奪われていた自分には想像もつかないような変貌を遂げていた。
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