第2話 家に吉田さんがいる朝 

脱衣所で服を脱いでいると、すぐそこにある台所から吉田さんが洗い物をする音が聞こえてくる

懐かしい音。なんだか昔に戻ったみたいだ


お母さんがまだこの家にいた頃は、この家もこんな風な生活音で溢れていた


何でかは知らないけど、お母さんは突然この家を出て行ってしまった。それからこの家は静かになった。お母さんが出て行ってから、お父さんも家になかなか帰ってこなくなって、私はこの家に一人暮らしをしているようなものだった


こんな生活を始めてから5年くらい経っている

もう慣れたけど、こういう音を聞いていると何だか安心するような気がした

特にお風呂に入るときは、誰かが入って来るような幻聴が聞こえることがあって、怖くなることもあるけど、誰かがいてくれればそういう不安に襲われることもなさそうだ


お風呂から上がると、私はリビングには行かずに、もともとお母さんの部屋だった部屋に来た

押入れの中は色々ものが入っているけど、それ以外には何も置かれていない寂しい物置部屋


押入れを開けて、そこから布団を取りだす

偶に干しているけど、やっぱり埃っぽい


これは私が使って、普段私が使ってる布団を吉田さんに使って貰おうかな


私はそう決めると、吉田さんが寝る場所を作っていく

布団にカバーをかけるのはそれなりに疲れる作業で、途中から、吉田さんに手伝って貰えば良かったと後悔する


準備が終わるとリビングに行って、スマホをいじっていた吉田さんをこの部屋に案内した


「布団敷いておいたから、ここで寝てね」

「うん。ありがとう」

「もう寝る?」


午後9時になったばかり

まだ寝るには早い時間な気もするけど、一応聞いてみる


「まだ寝ない」

「そっか。どうする?リビングに居てもいいし、ここに居てもいいけど」

「じゃあリビングにいる」

「了解」


じゃあ私もリビングにいようかな

普段はこの時間は自分の部屋で1人でいることが多いけど、吉田さんに合わせてリビングで過ごすことにする

いつもだったら、だだっ広く感じるこのリビングも、2人ならそんなこと感じない

2つあるソファにそれぞれ座って、適当にテレビをつける


BGM替わりのテレビ

良く知らないバラエティー番組が流れてる


吉田さんがスマホをいじっているのを見て、私も何かソシャゲでもしようかと思う

普段はこの時間は勉強をしているんだけど、まあ今日くらいは良いと思う


人気のパズルゲームを起動させる

吉田さんは何をしているんだろう

気になったけど、質問するほどでもないかと思って、聞くのは止めておく


スマホの上で指を走らせる。横にいる吉田さん

のことが気になるせいか、いつもみたいなスコアがでない

でも不思議と、そんなに悪い気はしない


吉田さんは、私に目を向けることなく、熱心にスマホを見つめている


そんな風に、私たちは夜の11時になるまで、リビングで思い思いに過ごしたのだった



翌朝6時

いつもよりも少し早く目を覚ますと、まずは顔を洗って、着替えて、それから寝ぐせを直した


いつもは身だしなみを整えるのは、ご飯を食べ終わってからだけど、今日は吉田さんが泊ってるからいつもと違う行動になっている


それが終わると、朝ご飯とお昼ご飯をつくる

そう言えば、吉田さんが今日どんな風に過ごすのか聞いてなかったな

うちにいるのかな?それとも出かけるのかな?


朝ご飯は昨日言ったものを作るとして、お昼ご飯はどうしよう

...おにぎりでいっか

どっちでもいいようにそうしておこう

ご飯は昨日のうちに多めに炊いておいたから大丈夫なはず


作るものが決まったらあとは早い

こんなにちゃんとした朝ごはんを作るのは久しぶりだけど、昔はよくお父さんに作ってあげてたし、体が作り方を覚えてる


手早く2人分の朝ご飯とお昼ご飯をつくり終えて、吉田さんが寝ている部屋に向かう


「吉田さーん。朝ごはん出来たよ」


ドアの前からそう呼びかける。でも吉田さんから返事はない



しーんと、いつもみたいな静寂が、この家を包んでいた


おかしいな。いるよね?玄関に靴はあったし

勝手にドア開けて良いのかな?

私の家とはいえ、家族でもない人が使ってる部屋のドアを勝手に開けるのは気が引ける


「吉田さーん」


一応もう一回呼びかけてみるけど、やっぱり反応はない


...まあいっか。ラップして置いておこう

よく考えたら、吉田さんは不登校だし、こんな時間に起きる必要はないのだ

きっといつも、この時間はまだ寝てるのだろう


そう思った私は、いつもの様に1人で朝ご飯を食べる


「いただきます」


うん。ちゃんと美味しくできた

卵焼きはふわふわに出来たし、味付けもちょうどいい


ちゃんと美味しい。だけど、昨日食べた夕飯の方が美味しかった


吉田さんがどんな反応をしてくれるのか、楽しみだったのにな


いつも通りの1人の食卓に、いつもよりも豪華な朝ごはんが並んでいることが、私の心を少しだけ暗くさせた



朝ご飯を食べ終わって、食器を洗って、歯を磨いて、着替えて、それが終わってもまだ吉田さんは起きてこなかった

合間に何度か声をかけたけど、反応はない

もしかしていない?

裸足でどこか行ったのだろうか


そんな可能性すら感じる

何も声をかけずに出かけるのも違うかと思うし、出かける前に言いたいことがあったから、いつも家を出る時間になっても吉田さんが出てくるのを待った


あと五分して起きてこなかったらドアを開けよう。そろそろ遅刻しちゃう

そう思い始めた頃、やっと吉田さんがドアを開ける音が聞こえた


リビングから出て様子を見に行くと、トイレのドアを開けようとしていた


「おはよう」

「...おはよう」


眠そう。まだ目が半分しか開いてない

本当に起きたばっかりみたいだ


「私もう学校行くね」

「...うん」

「これ、鍵、渡しておくね。出かけるときはかけてね。朝ごはんとお昼ご飯は作って台所に置いてあるから、ちゃんと食べてね」

「...わかった」


よかった。言いたいことは言えた


「じゃあいってきます」

「いってらっしゃい」


眠そうな吉田さんを背に、私は急いで家を飛び出した



いつもだったら8時くらいに学校に着いているけど、今日は8時25分とかなりぎりぎりの登校になった


「あ、加奈。珍しいじゃん、こんなにぎりぎりなんて」


教室に入ると、後ろの席の恵がそう話しかけて来た

恵とは幼稚園生の時からの付き合いで、一番仲が良い友達だ

恵はテニス部に入っていて、毎日朝練があるから、私の方が後に教室に入るのは凄く珍しい。というか高校生になってからは初めてのことだと思う


「まあね」

「何かあったの?」

「うーん...」


言い淀んでしまう。別にクラスの子を一晩泊めたことくらい言っても良い気がするし、ダメなような気もする。恵はそれを言いふらしたり、バカにしたりするような人じゃないけど、吉田さんが良い思いをしないかもしれない


「え、本当に何かあったの?」

「いや、そんな大したことじゃないんだけど、言って良い事かどうかわからなくて」

「ふーん」

「本当に大したことじゃないんだよ?」

「わかった。何か困ったことがあったら言ってね」


心配そうな顔で恵がそう言う

幼稚園からの知り合いである恵は、私がお母さんとお父さんと仲良く過ごしていたときのことを知っていて、それからお母さんがいなくなって落ち込んでいる私も、お父さんがあまり帰ってこなくなったことも知っていて、そのたびに私のことを元気づけてくれた


そういう私の過去を知っているから、恵は人一倍私のことを気にかけてくれるのだった


「うん、ありがとう」


また恵を心配させてしまったことに罪悪感を覚えながら、私はそう言った


すぐにHRが始まる

先生が教壇に立って、連絡事項を言っていく

最初の頃は、『吉田さんは体調不良で欠席です』みたいなことを言っていたけど、今では先生が吉田さんの話題を出すことはない


クラスの友達も、前は吉田さんの話題をそれなりに出していた。入学して一週間で来なくなった子だ。良くも悪くも話題にならないはずはなかった

でも今では誰も話題にしない

教室の一番後ろの窓際の席は、誰もいないのが当たり前になっていた


そのことをひどいだとか、薄情だとは思わない。私だって昨日吉田さんに会うまではそうだったんだから

でも昨日吉田さんに会って、良い子だってことはわかって、たぶん少しは打ち解けられたことで、この状況を残念だと思うようになった


一緒に学校に行こうって誘えばよかったかな?


先生の話を聞き流しながら、そんなことを考える

一緒に行くって言ってくれるとは思えないけど、誘ってみることくらいはしても良かったかもしれない


まあ過ぎたことはしょうがないか

今日帰ったときに誘ってみよう


帰ったら、吉田さんは家にいるだろうか

吉田さんの家には帰れないみたいだし、ちゃんと私の家にいて欲しいと思う


吉田さんが私の家にいるなら、今日も吉田さんの夕飯も作らないといけないな


何を作ろうかな

昨日は家のあり合わせの材料でしか作れなかったから、今日はもっとちゃんとしたものを作りたい


ハンバーグでも作ろうかな


1人だったら絶対に面倒くさがってつくらない。ハンバーグなんて手が汚れるし。ひき肉を使う料理をするなら、フライパンで適当に炒めるだけになると思う


でも昨日、吉田さん、私の料理美味しそうに食べてくれたしな


昨日のことを思い出すと、自然と笑顔になる

ちょっとくらい凝ったものを作ってもいいかなって気になる

誰かのために料理をする楽しみを味わうのも凄く久しぶりだった


スープも作ろう。具材は何にしようかな


そんなことを考えながら、私は残りHRの時間をぼんやりと過ごすのだった

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