第32話 調査と合流と決断 2
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―なんで気づかなかったんだ。
藍は、母親を怒鳴りつけてやりたかった。
だが、自分と母で母の左手の傷跡を見て、視線を合わせた直後、母は直ぐに顔を伏せた。
明らかにその傷は死ぬほど辛くて握りしめた拳の中で突き刺さった爪でできた傷だ。
しかもあまりの力で突き刺し、爪が折れもしたのだ。
薄笑いを浮かべる倫。
「もー、お母さんは本当にドジなんだから! どうせ包丁で切ったなんでしょう!」と藍は咄嗟に云った。母親の笑顔が痛々しかったから。
驚いた表情の後、倫は「そうなのよー!まったくダメなママでごめんねー」
「き、気を付けなよー! もう寝るね!」
―母のアレはイジメにあっているひとの目だ!
未だ何があるのかを藍はほとんど気づいていない。
だが、生みの親・育ての親である母をイジメているヤツがいる。
―絶対に許さない!
言葉は厳しいが、幼少の頃から一切泣いてことのない藍は声を押し殺し、布団をかぶって泣いた。
今夜の料理はレンチンとフライパンで味付き肉を炒めるだけだから、包丁なんて使わないのだ。
そして藍は今朝は早く起きて、午前中には大手町の父親が勤める会社が入るオフィスビルにいた。
高校生の自分がここいらにいるのは目立つかなと思い、タータンチェックのジャケットをはおってきた。
しかし、実際来ると何をしたものだろうかと思った。
ここいらにいれば木曜朝の襲撃者か、弟に話しかけてきた谷口早苗に会えるとは思えなかった。
しかも日曜、休みであろう。
でも家でじっとしているのも、性に合わない。
IDを持っていなければ、フラッパーゲートの先にも入ることはできず、仮に入れたとして、受付の人に社員の顔写真を見せてもらったり、谷口早苗の名を問うことはし辛いものだ。
その問うた事実が相手に伝わるのはよろしくない。
そのフラッパーゲートの脇にステンレス製の囲いの中、インフォメーションの受付係がいる。
だが、その二人の女性は父親の会社の受付係でなく、このビルの窓口としての雇われた受付係であろう。
―!?
軽いデジャビュを藍は味わった。
―以前、この場所、この角度で、あすこのお姉さん二人を見ていたことがあったな。
そう、実際、藍はここに来たことがある。
六年前、小学生の頃だ。
藍はうーんと考えている。
「麻井さん、おはよう」
藍を目指して歩いてきたのは黒の革ジャンを来た洋二だった。
一瞬、誰だか判らなかったので、目を疑ったが、直ぐに「おはよう」と返した。
「ちょっと、いい?」
「え!? 何が?」
「話があるんだ」
「話ならばここでいいんじゃない?」
「でも、何か気づいたから、ここに来たんだろう? その気づいたことを他の者に気づかれるのはヤバいよ」
藍はようやく納得して、洋二と並んで歩き始めた。
「気づいたって、何のこと?」
「え!? だから、ここに来たんじゃないの?」
「まずは、鮎川くんが知っていることを教えてよ」
洋二は、次に藍と再会する時には、どの程度の情報を伝えるかを悩み、今でも悩んでいると云ってもいいのだが、若干の決意があってここにいるので、淀みなく次のことを云った。
「木曜朝の襲撃犯の名は、飯田安奈。ちょうど去年の今頃まであのインフォメーションで案内係をしていた」
次の区画に入ったことを確認して、藍に話し続けた。
「その飯田安奈はきみの父親・延彦氏と不倫関係にあった女性だ」
―あ、そうか。
藍は思い出した。
前にここに来たのは父親が家に忘れ物をしてしまい、小学校が午前中で終ったので、藍が届けてに行くことになったのだ。
確か母親は歯医者だか眼医者の予約があり、両親は「高学年になったのだから、一人で電車でおつかいに行くのにはちょうどいい経験だろう」とか話していたのを、なんとなく憶えている。
路線図も、電車を降りてからの行き易い出口も、なんなくこなした藍だったが、入り方が判らなかったのだ。
IDがなければ入れないとは大人の常識だったのか言うのを忘れたらしい。
その藍のあたふた感を察して声をかけてきたのが、インフォメーションの飯田安奈だった。
「どうしたの? 話してみてよ」
自分の父親の名と所属する会社の名前を告げた藍であった。
「ここからお父さんの会社に直接連絡することはルール違反だから、携帯電話を貸してもらえるかな」
藍は、入れなければ父親をガラケーで呼び出せばいいことに今気付いた。
だが飯田安奈はするすると藍のガラケーを取ると、履歴からすぐに発信して「一階のインフォメーション、飯田と申します。お嬢さん、見えてますよ。降りてきていただいていいですか」と云った顔があまりも嬉しそうだったので、藍は飯田安奈の顔を記憶のどこかで保存していたのだ。
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