第30話 帰宅と疑惑と捜索 10
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藍はそれこそ眠るのが好きで、多分10時間くらいは眠れる。
土日に級友からあまり誘いが無いのはそのためだった。
そんなに段取りが上手い方ではないので、平日結局寝るのが遅くなる分、週末に寝貯めする。
今夜は考え疲れて入眠した。
考えることで悩み、眠れないということは藍にはあり得ない。
同じく、姉に父の秘密を話して安堵した昭ももう眠っている。
その父が帰宅したのは、彼の息子と娘が眠りに就いた後だった。
「おかえりなさい」
そう言った妻・倫の表情は早くも曇る。
「おお! ただいま! 遅くなって申し訳ないね。新卒たちの今後配置転換決めるのに長引いてね」
時刻は、現在二十三時。
「今夜の夕食はロールキャベツよ。藍も昭もモリモリ食べてくれたよ」
「ああ!ぼくの大好物じゃん!お腹ペコペコだから、嬉しいよ」
延彦がリュックサック型のカバンを下すと、スプリングコートを脱ぐのを助ける妻。
コートから体臭がふと薫る。
「新卒のコって、やっぱり女の子も採るの?」
「不動産だぜ、男向けなんじゃないの」
「じゃあ、女の子は採らないんだ」
「缶ビール、もう切らした?」
気が付くと延彦が冷蔵庫を開けて物色していた。
倫が、「野菜棚のところ」と言いかけている時に、延彦は「あった、あった」と取り出し、プルトップを開け、プシュと言わせ、飲み始めた。
「シャツやズボンも脱いだら」
延彦は、ああだか、うんだか云って脱ぎ始める。
倫がそれらの外出着を持って隣の部屋へ行こうとしたその時、「あ!先にさ、ロールキャベツ温めてよ」と延彦が云った。
「でも、洗濯機回さないとね」
「でもそっちの部屋に洗濯機ないよね」
「あ、そうだった、そうだった、私ってダメママねー!」
「倫は上手く奥さんもママもこなしているよ」
延彦ははちきれんばかりの笑顔を見せる。
「本当にそう思うの?」
「思うさ、なんで、倫はずーっと自信がないのかな」
と云って、延彦は倫を抱き寄せた。
文章というメディアでは匂いを伝えることはできないものだが、直截に云ってしまうとこの部屋には他所の女性の匂いが漂っていた。
特に、コートを脱いだ時に、自分のではない女性の体臭を明らかに倫は嗅いだ。
この夫婦は身長差から、夫の胸にちょうど妻の顔が当たるのだが、その夫の身体から、特に胸毛の隙間からも他所の女性の体臭がするのだ。
見えない・触れらないものである匂いを咎めることを倫は禁じてきた。
見上げると夫は笑顔で自分を見下す。
この見えもしない・掴めないものと違い、この笑顔は見えているし・触れるものだと倫は思った、そう、毎回そう思っている。
「早くロールキャベツ食べたいな」
「そうね、私ったら本当にうっかりさん」
我に返って、倫はついでにベロまで出した。
延彦はいつもの儀式を済ませたように、風呂場へと向かった。
引き戸を開ける音で倫にはそう判った。
そして夕飯の温め直しをしながら思った。
最近、藍がまったく私の話を聴いてくれなくなった、と。
倫にしてみれば、自分だけの妄想にしたくなったのだ。
仲のいい夫婦であるという、問題のない家族であるという客観的な証拠を娘に認めて欲しかったのだ。
だから、夕方、あんなものまで見せつけたのだが、娘は、仲がいいのね、とは言ってくれなかった。
倫は、それを姉の類には当然言えなかった。
姉と夫と自分の間に二十年前あったことを薄々知っている両親にも言えなかった。
数少ない友人に言えるワケがない。
わざわざそういうことを言うこと自体が何か問題ある夫婦・家族であること証と取られる可能性が大だからだ。
息子は最近、何か勘づいているようだから、言えないし、やはり藍しかいないのだ、と味噌汁とロールキャベツを焦げないように温めながら、倫は思いを巡らせた。
倫はそういう自分の気持ちを押し付けているから、気づいてないのだが、この他所の女の体臭はかなりの頻度で変わっている。
今夜の体臭は飯田安奈のものでも、谷口早苗のものでもない。
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