花に光が当たるのは

@sasakure5

第1話

 そこには一つの種子があった。小さな小さな種子だった。

 やがて種子は芽を出した。芽は地表を破り、いよいよ空の下で背伸びした。だが、出たばかりの芽が目指したそれは、空と言うにはあまりに灰色で、無機質で、狭く、埃と錆ばかりが積もっていた。

 芽の上に広がっていたのは空ではなく、数多の堅苦しい物体だった。芽は、あらゆる生物にとって無用のものと成り果てた物体たちに囲まれていた。故に、芽が光を浴びることはなかった。物体たちの隙間を伝って落ちてくる水滴と、もうしばらくは死体を呑み込んでいない痩せこけた土壌のみが、芽を生かしていた。


 ある子供が家の庭で小鳥を見つけた。小鳥の羽は折れていた。出血もしていた。少年がしゃがんでその鳥の様子を見てみると、今にも息絶えそうな程に苦しく呼吸していた。子供は少し躊躇いながら、その小鳥を掌に乗せた。青空に浮かぶ太陽が、小鳥の傷ついた身体を克明にし、子供は束の間慄いた。しかしすぐさま、小鳥を両親のところへと運んだ。慌てながらではあったが、小鳥が掌からこぼれ落ちないように気をつけながら運んだ。子どもの両親は医者だった。しかし、医者であっても、動物を治す医者ではなかった。やがて鳥は呼吸をしなくなった。両親は子供に言った。手をしっかりと洗おうと。子供は涙を流しながら、その言葉に頷き、この小鳥の墓を作りたいから手伝ってくれ、と両親にねだった。子供には、幼くも確かな責任感があった。故にこう思った。自分が見つけて、自分が掌に乗せて、自分の掌の上で小鳥は死んだのだ。だから、自分でこの小鳥の墓を作るのは当然の義務なのだ、と。

 三人が一緒に作った墓は簡素なものだった。穴を堀り、そこに小鳥の亡骸と、小鳥が食べるであろうものたちを入れ、土を被せ、母が選んだ花を植えた。そして父が墓の場所が分かりやすいようにと一つの目印を作った。

 その間、雲の合間から漏れ出る光は、三人の手と、鳥の死骸を確かなものにしていた。

 子供はその目印の下にいる小鳥に謝り、祈った。

 勝手にお墓を作ってごめんなさい、どうか、次はその羽が傷つきませんように、と。

 三人は家の中へと戻った。その夜、雨が降った。子供は、雨に打たれる窓の向こうの、小鳥の墓をずっと眺め続けていたが、やがて眠気に抗えなくなり、しぶしぶベッドの中へ入り、寝た。

 翌朝、起きた子供は真っ先に庭へ出て、墓の様子を見た。墓は露に包まれ、朝方の太陽がそれを照らしていた。母が墓に植えた花は、太陽を貪ろうとするかのように強烈に咲いていた。

 子供は再度、謝った。

 土の中でじゅぐじゅぐと溶け始めた小鳥に、その声が聞こえるはずがなかった。

 やがて鳥は土に食われ、跡形も無くなり、母が植えた花も枯れ、太陽が照らすのは父の目印だけとなる。子供はその度に、新たな花を植えた。その中には、子供自身が種子から育てた花もあった。

 子供にとっての小鳥の死は、あの祈りを込めた時から、不確かなものへとなっていた。あの小鳥は今頃、新しくなった身体で空を羽ばたいているだろうと思っていた。空からこの花たちを眺めているだろうと思っていた。

 そして子供は医者になった。


 ある岩があった。大岩と言うほどではないが、小岩と言うほどでもない。まさに中ぐらいの大きさの岩だった。その岩は幾度なく山に住まう動物たちにぶつかられていた。主に、捕食者から逃げようとする被食者からぶつかられていた。

 いよいよあと少しで山から転がり落ちてしまうというところまで動いてしまった岩は、ある日突然やってきた嵐と、それによって飛来してきたあらゆる物によって、元あった場所から転げ落ちた。山肌を削り、乱雑に立った木にぶつかり、しかしそれでも止まらず、その身を猛烈に傷つけた。やがて、大きな音を立てて止まった。岩が止まったのは小さな川の丁度中心だった。その小さな川は嵐によって恐ろしくなっており、そのため、岩を受け止めるには充分だった。

 岩は嵐が去った後もその小さな川にいた。だが、嵐が去った後の小さな川は、岩を受け止めるには充分ではなかった。小さな川はその水の流れを完全に岩にせき止められてしまった。

 ある日、被食者たちが川にやってきた。だが、そこに水はない。仕方なく、疲労の溜まった足を懸命に動かし、岩があるところまで登ってきた被食者たちは、ようやっと水を口にした。

 その足は無事に回復し、命を持って逃げることができるほどになった。

 しばらくして、また別の被食者が空になった川を訪れた。どうにか水があるところまで登ろうとしたが、その足は既に限界だった。やがて坂道に倒れた被食者は、音を殺して近づいてくる捕食者の姿を曖昧に捉えた。

 被食者は骨だけになったが、その骨にはごく僅かに肉が残っていた。極小の生物たちがその肉に群がった。死が分解されていくその様子は、木々の上に浮かぶ太陽によって確かにされていた。

 やがて被食者は土に食われた。

 風に揺られた木の葉が囁くばかりで、水が流れる音はしなかった。



 ある嵐があった。その嵐は荒れ狂った雷雲と強風をとある国へと運んだ。その国は嵐に耐えられるような堅さを持ち合わせてはいなかった。やがて嵐はその国を襲い、川、森、家、壁、命、それらすべてを溢れさせ、ぶつけさせ、破壊した。嵐はそれでもその国に居座り、生き物たちを追い詰めた。生き物たちはこの強大な自然を前にして、嘆くか祈るかしか出来なかった。天を見上げて絶叫する者は、やがて風に運ばれ、濁流へと落ちた。周囲と比べると丈夫そうだと言える場所に逃げた生き物たちは、雷の音に怯え、耳を塞いだ。

 生き物たちの心が限界に達そうとした時、嵐の音が静まった。やっと平穏が訪れたのかと生き物たちは歓喜したが、その僅か後、再び嵐が猛威を振るい始めた。平穏は、生き物たちの第二の絶望をより強くするためにしかならなかった。

 やがて、大きな雷が落ちた。周囲のものを焼き焦がすような、激しい雷だった。そして、その雷こそが、この嵐の断末魔だった。

 生き物たちが第二の絶望を味わいはじめてから数十という時間が経った頃、とうとう嵐はその国から姿を消し、代わりに青空が現れた。

 生き物たちは、自分の命を守ってくれた丈夫な場所、しかし息苦しく、それ故に幾度となく絶望を味わった苦しい場所から這い出るようにして、青空を見上げた。生き物たちは太陽の眩しさに目を瞑り、瞼の隙間から感情を溢れさせた。その感情こそ、本物の平穏、かつての日常を、今再び得られたのだという安堵と希望だった。

 青空を見上げ、声を上げる生き物たちは、やがて大地を見る。

 今まで過ごしてきた地が壊滅している様は、確かに生き物たちの心を削いだ。中には、先ほど得たばかりの本物の平穏を投げ捨ててしまうほど、自暴自棄になったものもいた。地面は抉れ、そこに濁った雨水が溜まり、幹の細い木々は折れている。川の流れは日常の数倍は早く、水嵩も増し、やはり濁っていた。

 生き物たちはしばらく歩き、そこで目にした。一本の木が、あの嵐を耐え抜き、青空を衝く勢いでその背丈を伸ばしている姿を。この時のみ、あの第二の絶望は、唯一の希望を、自分たちは生きているのだという希望を、より強固なものへと変化させた。

 生き物たちはぬかるんだ地面に膝をつけ、頭を下げた。

 青空に存在を顕にする太陽の光が、その様子を熱いほどに照らしていた。


 依然として、芽はそこに生かされていた。僅かな水滴がいつ垂れてこなくなるか芽に分かるはずがなく、芽は愚直にその背丈を伸ばしていた。種子であった頃は順調に地表まで伸びていた背丈だが、地表に出た今、向かうべき場所を見失ったからだろう、その様子はどこか歪であった。空を覆う堅苦しい物体たちにも、やはり変わりはない。

 数日が経った頃、まばらな足音が空の上から聞こえてきた。その足音たちは少し会話をした後、掛け声らしきものを口にした。

 その次の瞬間、轟音が響いた。足音たちが、新たな堅苦しい物体をそこに投げ捨てたことで響いた轟音だった。

 物体たちは互いにぶつかり合い、その狭い空間に何度も轟音を響かせた。しばらく動いていなかったであろうその空間が、ようやっと動いたのだ。しかし動いたと言っても、それはやはり無機質的で、生気が微塵も感じられない、ただ世の理に則って転げ落ちるような動きだった。何をすることも出来ず、ただ外から加えられる力に押し流されるしかない程に無力なものだった。だが、無力と言えど、その物体が押し流されることで現れる影響が無いわけでは決してなかった。物体を通した間接的な影響は、芽が生きる地表にも届いた。

 灰色の空はそうして破られた。堅苦しい物体たちが激しくぶつかりあった結果、空は揺れ、ヒビ割れ、破られたのだ。

 芽は光を浴びた。堅苦しい物体たちの隙間から漏れ出る僅かな光を浴びた。芽は初めて、日を、木漏れ日を浴びたのだ。

 やがてその芽は僅かな水滴と、かつては被食者たちの死体らを呑み込んだ土壌、かつては一家族がその上で営んだ土壌、かつては大木を育てた土壌、しかし今となっては痩せこけてしまった土壌に根を張り、木漏れ日のみを得て成長し、灰の空の割れ目から訪れた者たちの助けを借りて、それ故に花を咲かせた。花は、木漏れ日の中で微睡むかのように、ゆるりとしていた。

 花に光が当たるのは、花がこの世に生まれたからに過ぎないのだろう。光が何かを照らせるとしたら、それはこの世に生まれたものと、その死体だけなのだから。

 やがて、木漏れ日に向かって伸びる花の上に、あの足音たちが再び近づき、空間があの轟音で満ち、物体たちが転げ落ち…木漏れ日は断たれた。

 花は土へ還った。かつて、光に照らされた姿の、一欠片を携えたまま。

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