この婚約を手放したくない理由

ハチニク

第1話 初対面


 ――たとえ、貴方の愛が私に向いていなくとも、それでも構わない。

 でも、どうかこの婚約だけは壊さないで。

 私にはそれしか残っていないのだから。


 

 ハーデンバーグ家の令嬢、フェンリルの婚約は突如として決まった。それも彼女が十六歳の時に。

 相手は、とある辺境伯の跡取り、フランツ。フェンリルよりも歳は四つ上で、エルバウム家の長男だ。


 ただ、これは、正真正銘の政略結婚であった。かつて名家と謳われたハーデンバーグ家は、フェンリルの父が犯した経済的な過ちにより没落し、その代償として差し出されたのが、この契約だった。

 名家の名を守るために差し出された犠牲が、フェンリル自身だった。


 それは無情な運命なはず。けれども、親を想う優しい心を持った彼女は、泣き言一つ口にすることなく、その宿命を静かに受け入れた。


 そんな望まない結婚は、愛などという温もりが到底、介入する余地はなく、二人の心に交わる情熱も灯ることはなかった。


 そう、二人が初めて対面した時もそうだった。


 エルバウム家の壮麗な館の特別豪華でもない一室――。

 窓の外には絢爛たる庭園が広がり、花々が誇らしげに咲き乱れているのを見て、フェンリルは心を落ち着かせる。なんせ、これからを共にしていく旦那様との初対面なのだから。


 目前には二十歳とは思えぬほど大人びた、筋肉質の体を持つ軍服を着たフランツがテーブル越しに座っていた。特別、緊張もしていないようで、少し眉間にシワが寄っている。

 

(怖くない人であれば、良いのだけれど……いや、そんなわがままなこと、思ってはいけません)

 

 フェンリルは一瞬の怯えを隠しながら、静かに声を紡ぐ。

 

「……フェンリル=ハーデンバーグと申します」

「フランツ=エルバウムだ」

「どうぞ、よろしくお願い致します」

「あぁ、こちらこそ」


 会話は、そこで途絶えた。フランツは全くの関心を示さず、話を広げる気配すら感じさせない。「こんな話し合いの場は不必要だ」とでも言いたげで、フェンリルの顔をまともに見ることもせず、冷めた目でどこか遠くを見つめているだけだった。


「フランツ様。フェンリル様とお庭をお二人でご散策なさってはいかがでしょうか? きっとご気分も少しは晴れるかと存じます」


 気まずい雰囲気の中で、気を遣ったのか、フランツの専属執事であるゴードンが、そう声を掛けた。


 フェンリルも、必死に同意を示すように大きく頷く。その提案が、少しでもこの気まずさを解消してくれるかもしれない。そう思ったからだ。


「いや……それはできない。悪いが、これから本部に向かわなければならない」

「で、ですが……フランツ様……」


 フランツは提案をお構いなく、拒否した。ゴードンは眉を曇らせ、フェンリルへと視線を移した。

 何か弁明しなければ――そう思いながらも、声は喉に詰まって出てこない。

 

「フェンリル様、その……」

「ゴードン様お心遣いに感謝いたします。ですが、旦那様のご用事が何より優先されるべきでございます」

「……そうでございますか」


 フェンリルは微笑みを深め、静かにそう告げた。


「はい。旦那様もどうか私のことはお気に留めず、ご自身のなすべきことに専念なさってください」

「そうか、悪いな」


 フランツはそれだけを言い残し、足音も静かに、扉の向こうへと姿を消した。


 ただ事実として、フランツは確かに多忙な人物であった。今回の拒絶も、単にその場を離れるための口実ではない。


 エルバウム家は代々、軍や政治の分野で名を馳せてきた名門の家柄であり、フランツ自身もその例外ではなかった。若くしてアストレア地方軍の第一部隊で軍曹の座に就き、その肩には常に国家の未来がかかっていた。

 

「このゴードンが代わりに謝罪申し上げます。何卒ご無礼をお許しくださいませ、フェンリル様」

「いえ、どうかお顔をお上げください。フランツ様が多忙でいらっしゃるのは、確かに事実ですし、それに私はこの家にお住まいできるだけで、十分に幸せでございます」

 

 慌てふためき、ゴードンが謝るが、フェンリルの心には怒りの影すら見つからなかった。これが、政略結婚の実態であって、何かに期待することの方が間違っていると分かっていたからだ。

 

 結局、フランツからの誓いの言葉もキスも何も無かった。結婚式はただ形式的に行われ、親同士が喜ぶだけのものとなった。そして、肝心の婚約指輪は、なんとゴードンを通じて渡されたのだ。

 それで愛が芽生える方がどうかしている。


 ただ、この婚約でハーデンバーグ家のために尽力できる。

 それが、彼女の人生にとってのすべてであった。

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