第92話

「ご新規ですか? それとも機種変更でしょうか?」


何も言わずに立ち尽くしている里美を見て、店員が声をかけてきた。


「あ、あの。機種変更で……」


「かしこまりました。どうぞおかけください」


店員に促され、里美は椅子に腰掛けた。


「こちらの機種でございますね。本日身分を確認できるものはお持ちですか?」


車の免許を持っていない里美は、身分を証明するものを持ち合わせていない。


保険証は病院に行くとき以外、持ち歩くことはなかった。


里美の様子に気がついた店員が、再び声をかけてくる。


「申し訳ございませんが、身分証明書がなければ、機種変更の手続きはできかねますので、お手数ですが後日改めてこちらにお越しいただけますでしょうか」


店員の丁寧な断りに、里美は安堵のため息を漏らした。


とりあえず、機種変更をすることから逃れることができた。


あとは……。


隣の窓口で手続きを進めている由香を見つめる。


「わかりました。ありがとうございます」


断られたのにありがとうはおかしいが、これが今の里美の本心だった。


席を立ち、由香の元へ歩み寄る。


由香を応対している店員が、携帯電話を片手に忙しそうに行き来している。


「身分証がないから、機種変できなかった」


由香の隣にある椅子に腰を下ろした。


「えー、そうなの? だいたいの所は身分証いらないのに。じゃあ、里美はまた次回ってことか……」


不安げな表情を浮かべた由香に向かって、里美は頷いて見せた。


大丈夫。


決してゲージをゼロにはしない。


全ての手続きが終わり、新しい携帯電話が手渡された。


「よかった。やっぱ携帯ないと不便だよ。でも電話帳のデーターがなくなっちゃったから、友達と連絡取れないや。あ、番号もアドレスも変わってないから向こうから連絡もらえば大丈夫か」


由香は、ほほ笑みながら真新しいシルバーの携帯電話をまじまじと眺める。


そして、ゆっくりと携帯電話を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る