act 9
吉本晋也の研究室、午後2時。
パソコンの画面に向かっていた吉本の携帯電話が鳴り響いた。ディスプレイには「青木病院長」の文字。吉本は眉をひそめながら電話に出た。
「はい、吉本です」
「吉本君、すまない。急だが、すぐに私の部屋に来てくれないか」
病院長の声には、普段にない緊張感が漂っていた。
「分かりました。今すぐ参ります」
吉本は急いで病院長室へ向かった。ノックをして室内に入ると、青木病院長の隣には見知らぬ外国人が立っていた。
「吉本君、来てくれてありがとう。こちらは、ハーバード大学医学部のロバート・ジョンソン教授だ」
ジョンソン教授が握手を求めて手を差し出した。「Dr. Yoshimoto, it's an honor to meet you. Your recent paper in NEJM has caused quite a stir in our department.」
(吉本博士、お会いできて光栄です。NEJMに掲載された貴殿の最近の論文は、我々の部門に大きな衝撃を与えました)
吉本は丁寧に握手を返しながら、「Thank you, Professor Johnson. I'm honored by your interest in my work.」(ありがとうございます、ジョンソン教授。私の研究に興味を持っていただき光栄です)と答えた。
青木病院長が話を続けた。「実はジョンソン教授が、君にハーバード大学での講演と、共同研究の提案をしたいそうだ」
吉本の目が大きく見開かれた。
ジョンソン教授が説明を始めた。「Dr. Yoshimoto, we believe your novel classification system for rare cardiac tumors has the potential to revolutionize the field. We'd like to invite you to give a series of lectures at Harvard, and discuss the possibility of a collaborative research project.」
(吉本博士、貴殿の希少心臓腫瘍の新分類法は、この分野に革命を起こす可能性があると我々は考えています。ハーバード大学での連続講演をお願いしたく、また共同研究の可能性についても議論させていただきたいと思います)
吉本は深呼吸をして、冷静さを取り戻そうとした。「I'm deeply honored by your offer, Professor Johnson. May I ask for some time to consider it?」(大変光栄なお申し出です、ジョンソン教授。少しお時間をいただいて検討させていただけますでしょうか)
「Of course, take your time. We understand it's a big decision.」(もちろんです。お時間をおとりください。大きな決断であることは理解しています)
会議が終わり、吉本が自分の研究室に戻ると、メールボックスが新着メールで溢れていた。
ジョンズ・ホプキンス大学からの招聘状。 スタンフォード大学からの共同研究の提案。 ロンドン大学からの客員教授のオファー。
吉本は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。ここ数日の出来事が、まるで夢のようだった。
そのとき、ノックの音がして岡野が顔を覗かせた。
「先生、お疲れ様です。あの...噂を聞いたんですが、本当にハーバード大学からオファーがあったんですか?」
吉本はため息をつきながら頷いた。「ああ、本当だよ。他にも世界中から招聘や共同研究の話が来ている」
岡野の目が輝いた。「すごいですね!先生の研究が世界に認められたんですね」
吉本は複雑な表情を浮かべた。「そうだな...でも、まだ決めかねているんだ」
「え?どうしてですか?こんなチャンス、滅多にないと思います」
吉本は立ち上がり、窓の外を見つめた。「確かにそうだ。でも、ここでの研究にも未だやり残したことがある。それに...」
彼は言葉を切った。心の中で、別の思いが渦巻いていた。
(これは大きなチャンスだ。世界最高峰の研究機関で働ける。でも、それは同時に、私の「コレクション」を続けることが難しくなるということでもある)
吉本は岡野に向き直った。「岡野君、君だったらどうする?」
岡野は真剣な表情で答えた。「私なら...迷わずに行きます。先生の研究は、世界中の患者さんを救う可能性があります。それを発展させるには、世界最高峰の環境で研究を続けるのが最適だと思います」
吉本は岡野の言葉に、どこか心を動かされるものを感じた。しかし同時に、彼の中にある暗い衝動も無視できなかった。
「そうか...ありがとう、岡野君。君の意見は参考になる」
その夜、吉本は自宅のリビングで、一人考え込んでいた。世界的な研究機関での仕事。それは彼の研究者としてのキャリアを飛躍的に向上させるチャンスだった。しかし同時に、彼の秘密の「趣味」を続けることが難しくなる。
吉本は窓の外を見つめながら、自分の内なる衝動と向き合っていた。世界を変える可能性のある研究か、それとも彼の心の奥底にある暗い欲望か。
決断の時が迫っていた。吉本晋也の人生は、大きな岐路に立たされていたのである。
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